人生の終点までは遠いですか。

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 以前、レンタル自転車で京都市内から嵐山まで走ったことがある。
 夏の嵐山を満喫しての帰り、鴨川沿いではなく、
 町なかを走って京都市内に戻るつもりで
 何人かの人に道を尋ねた。
 たぶん、4人くらいに聞いたと思うが、
 4人が4人、「遠いですよ!!」と忠告してくれた。
 なかには「ここからはムリ」と、断言する人もいた。

 「ここまで来た帰りなのだから、なにをいまさら」と心では思ったが、
 「ハイ、ありがとうございます」と、あいまいに感謝を述べて帰途についた。
 距離感覚が東京の人とは違うのだ、と思ったが、
 その後、東京の新宿で道を尋ねたときも、
 すぐ鼻の先の距離なのに「歩いてはムリ」と断言されたので、
 京都人だけの距離感覚の問題ではないことがわかった。
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 つまりは、車利用の多い現代人の距離感覚が、
 歩行型・自転車型人間のそれとは、だいぶずれているのだ、
 ということを悟った。(ずれているのはお前だ!! そ、そう?)

 似たようなことは、影山さんから聞いた、
 栄養士の野菜350グラム目測感覚にも見られる。
 栄養士に「この野菜の中から350グラム分を選んで」という
 演習をすると、大半の人が多めに取ってしまうという。
 なかには1キロ以上の野菜を取り分けて「これが350グラム」と
 平然としているとか。
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 この調子だと、「野菜350グラムはなかなかとれない量」というイメージを
 一般の人に無意識的に刷り込んでいる可能性がある。
 そういうイメージを与えることに生物的なメリットがあるとすれば、
 その「大変なことを指導する私」をアピールしているのかもしれない。

 さて、話が少し変わって、この1月10日、
 パルマローザの第238回ブラッシュアップセミナーで、
 「健康支援者のための 将来を考えた自分づくり10のアプローチ」という
 話をさせていただいた。
 これは、遠い人生の道のりを、そんなには遠くはない、ということを
 考えてもらうことを目的とした講話であった。
 
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 10のアプローチを示したわけだが、その1つに「アフター6の過ごし方に
 計画性があるか」というのを入れた。
 長い人生の姿を、いま現在、前倒しして見たかったら、
 仕事が終わったあとの寝るまでの時間を、
 自分がどう過ごしているかを見ればいいのではないか。

 この先、思わぬ番狂わせがないとはいえないが、
 けっきょくは、きょう1日×100年ってとこが、
 自分の人生ではないか、終点は、案外近いところにも見えている。
 そういいたい、京都の人にも新宿の人にも……。
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 水中では、陸に比べてモノが約30パーセント近くに見える。
 「水」というレンズのなせるワザである。
 日々の生活にも、人生を短縮して見る方法はあるのだろう。

 ここからは福袋的蛇足。
 講義の中で、ブログの文体について少しふれた。
 このブログは、文体としてはエッセイ。
 京都の話題から人生の距離へと展開する、
 典型的なエッセイ構成である。
 このパターン、定番化すると臭くなるから、
 ほかの変化球と混ぜて使う必要がある。
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# by rocky-road | 2010-01-13 20:51  

「スポーツ栄養」はどこへ向かって走るのか。

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恒例の「東京箱根間往復大学駅伝競走」のテレビ中継は、
年賀状書きをしながら観戦をする視聴者のニーズにぴったりと合っている。
レースがゆっくの展開するので、手元の作業のじゃまにもならず、
ややオーバーなアナウンスが、年賀状書きを励ましてくれているようにも思えてくる。

「光の中、穏やかな表情を保ちながら、黙々と自分の仕事をしています!!」
「無念のリタイヤを心に秘め、その屈辱からはい上がる旅を続けます!!」

「そうだ、きょうの分は絶対に書いてしまおう。
去年は出し遅れが多かったし、あの屈辱からはい上がらねば!!」
などと、自分の長期戦に置き換えて、黙々とひた走るのであります。
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スポーツには、もともと情緒性が伴う。ドラマチックは「演劇的」とも訳せる。
たすきを渡したあと、へたり込むのが伝統的な演技ともなっている。
20キロも走ってきたら、しばらくは「余走」(?)が必要なのに、
毛布を持った介護者が、走者に急ブレーキをかけるように抱え込む。
仕方なしにランナーは、その毛布の中に身を預けるという段取りが定着した。
これも一種の様式美といものだろう。

42.195キロのフルマラソンを走ったランナーが笑顔で手を振ったりしているのに、
その半分ほどのランニングでへたり込むのは、
「駅伝」という、日本文化の象徴的なパフォーマンスだろう。
「自分がヘマをやったら仲間に申しわけない」という責任感が、
選手をひしひしと追い込んでゆく。
この悲壮感が日本人のメンタリティにぴったりと合ってシビレさせる。
上位チームのランナーは、穏やかな表情で、
ときには笑顔で自分の区間を走り終える。
この較差も演劇性を高めてくれる。
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たぶん、少なからずの選手は糖質を充分にとり、
ビタミンやミネラル剤で栄養強化する程度の対策はしているだろう。
しかし、補助食品やサプリメントの質や量が勝敗を分けるというものではない。
ときにはエネルギー不足で迷走するアクシデントもあるが、これは例外。

選手の資質、トレーニングの方法と量、コーチとの相性、
その日の体調、心理状態……などなど、計量化できない要素がからみ合って、
選手のその日のパフォーマンスを決定する。
「スポーツ栄養士」がついているチームが勝った!!!という時代が来るとしても、
それはずっと先のことだろう。
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「スポーツ栄養」とは困ったコトバだ、と『エンパル』7号に書かせていただいた。
(パルマローザ発行のオピニオン紙、2010年1月10日発行)
選手の身体条件を左右するのは栄養ではなく、食事ではないか、と書いた。
くわしくはそこに譲るが、要は「スポーツ栄養」とは
「スポーツマンの食事」「運動する人の食事」のことだということ。
理屈を先行させると食事はまずくなる。それは、これまでの栄養士が冒した誤りである。

「スポーツ栄養」がまた、同じ道を歩こうとしている。

「スポーツ栄養」を仕事にしたいと思う栄養士は、
「スポーツ」にも競技指向と健康指向とがあること、
どちらにも「選手時代」と「非選手時代」があり、非選手時代は圧倒的に長いこと、
ときには「勝つ食事」を求められるとしても、
その食事、そのサポートには、常に選手の人生におけるモチベーションアップという
「精神的栄養素」が付加されていなければならないこと……
などなどを頭にしっかり叩き込んでおくとよい。
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選手を支えるということは、その人の人生を支えることだから、
栄養素をいじっていても、決め手にはならない。
人生の節々で、すぐにバテて、へたり込むような人づくりをしていては、
「スポーツ栄養」に将来はない。

# by rocky-road | 2010-01-04 19:46  

「明けましておめでとうございました?」

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2010年がスタートした。
年賀状を書き続けているうちに、
新年を迎えた。
クリスマスカードから年賀状まで、
書く文化は健在、「めんどう」「無意味な習慣」といってしまうと、
生きていること自体がめんどうにも、無意味にも思えてくる。
うっとうしいことも、うっとうしくないこともあって、
それが人生ということか。

「明けましておめでとうございます」という。
このフレーズも、変化を免れている言語現象として
注目しておいたほうがよい。
「先日は、結構なものをありがとうございました」
「本日は、落成20周年式典、おめでとうこざいました」
と、過去形で発話する人が増えた。
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若者から崩れた表現法ではなく、
そこそこの年長者も、
「本日はご結婚おめでとうございました」という。
この場合、
厳密にいうと、以前に受けた好意といえども、
謝意はいまも続いているのだから、
「ありがとうございました」では、謝意がそこで終わってしまう。

「……ました」というのには、音声学的な理由はあるのだろう。
「……masu」の「su」は閉じる音、「……masita」の「ta」は開く音。
しかも、「ta」という破裂音が入るので、耳には謝意が強く伝わる、
多くの人は、無意識的にそう感じるのだろう。
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だったら、「明けましておめでとうございました」も
生まれてきてもよさそうだが、
いまのところ見かけない。
もし、ロッキーロード読者が、このバージョンを見つけたら、
それは言語学上の発見だから、
その年賀状のコピーを、大橋に売りつけたらいい。
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# by rocky-road | 2010-01-01 01:45  

食事相談という格闘技

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『文藝春秋』の12月号に、
作家でイタリアに住んでいる塩野七生さん(しおの ななみ)が、
評論的なエッセイを書いている。

日本が民主党政権になって変化が起こるであろうが、
期待していることの1つは、
日本の記者クラブの全廃だ、という。
閉鎖的で、外国人記者にはなかなか門戸を開かなかったし、
自由な質疑応答の機会が与えられていないからだ、
と指摘している。
一方的な情報提供の場なら、そんなのなくてもいい、と。
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また、日本人記者は、予定した質問はするが、
臨機応変の議論はしない、とも指摘している。
これは、記者会見を設定する省庁の役人や国会議員のほうに
より大きな原因があるのだと思うが、
その程度のことしかできない記者クラブなら、
不要だ、廃止してしまえ、というのである。

大賛成である。
過日、中国の要人と天皇陛下との会見を
政府が急遽設定したことについて、
小沢一郎氏が記者団からの質問を受けているシーンが
テレビ放映されていた。
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天皇との会見は、1か月前にアポをとる慣例になっている、
それを破って会見を設定したのは、
天皇を政治の世界に巻き込むことにならないか、
という突っ込み質問である。

宮内庁は、一度は断ったが、政府(小沢幹事長?)から逆襲されて、
慣例を破って会見を設定した。そこを記者が突く。
が、さすがは「豪腕」といわれる政治家、
「そういうことは法律に書いてあるのか、
あなたは法理を読んだのか」と逆質問をした。
これは、相手を封じる詰問の典型的なパターン。
この政治家の得意とするワザの1つである。
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か弱い日本の記者のこと、
この問いに、さらに逆質問をするなんていう根性はない。
たじたじとなって、だから翌日の新聞には、
ひどく政治家を批判的に書いた。

犬の遠吠えの見本のような対応である。
こんな一方的な記者会見なら、
確かに記者クラブごと廃止してしまったほうがいい、
と考えたくもなる。
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相手の質問に、突っ込みを入れる逆襲タイプは、
世間にもときどきいる。
「そういう質問をすること自体、この問題を真剣に考えていない証拠だよ」
「そんな発言をするっていうことは、
この闘争に真剣に取り組む意志がないということ?」
会議などで、こういう指摘をされると、出席者は、こわくてなにもいえなくなる。
恫喝型(どうかつがた)とでもいうのか、
アンフェアな、せこい戦術を使うヤツは、
どこの職場や組織にも、1人や2人はいるのではないか。

食事相談の現場でも、こういうタイプに遭遇している栄養士が
日本のあちこちに、少なからず存在するのではないか。
「酒をやめれば糖尿病が治るって断言できますか」
「あなたは私がパーティに出ることに反対らしいけれど、
私の人脈がか細くなってしまうことに責任をとってくれますか」
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世の中には、「ちょいワル」どころか「すごワル」もいる。
ひ弱な日本記者クラブのようにならないためにも、
栄養士はタフにならなければならない。
「私が責任をとる前に、あなた自身、ご自分の人生について、
ご両親や周囲の方にどんな責任をとるおつもり?」
(ケンカになるかな??!!)

食事相談は、なんだかんだいっても、
会話による格闘技の要素もある。
小沢一郎氏の写真を眼前に置いてトレーニングに励むと、
少しは腹が据わってくるかもしれない。

# by rocky-road | 2009-12-22 09:44  

喪中につき、「テン」

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わがロッコム文章・編集塾で、
読点「、」の打ち方について講じているとき、
資料に使った、十数通の「喪中につき……」のあいさつハガキの文章に
実に見事に句読点が使われていないのに気がついた。
しばらく考えて、その理由がわかった。

だぶん、パソコンのソフトにある文例に句読点が
使われていないのだろう、と推測した。
以前は、ここまで〝句読点省き〟が徹底はしていなかった。
それは、依頼先の印刷所によって、文例が違っていたからである。
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が、パソコンの普及、そして、いろいろのソフトウエアの普及によって、
事態は一変した、いや、ますます〝しつつ〟ある。
かねがね、パソコンの日本語変換システムを推進した人たちの
国語力を疑っていたが、その力不足が、ここにも顔を出した。

歴史を振り返ると、日本の国語教育はすぐれて文学中心主義で、
実用文や仕事文、公的な手紙文を軽視する傾向があった。
結婚式の案内、葬式の知らせ、喪中のあいさつ、転居の通知の文章を
学校で教えてもらった人はほとんどいないはずである。
それらは、印刷屋さんや結婚式場、葬儀社、引っ越し業者に
お任せになった。
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だから、個人が、やや公的な案内状を出すときには、
印刷所のおじさんに教えてもらうしかなった。
街や村での国語の先生は印刷屋さんだった。

それが今度は、先生がパソコンソフトになった。
確かに国語教育が手を抜いてきた分野ではあるが、
明治以来の国語教育が、ガラガラと、パソコン屋さんに崩された。
読点は、やっかいなところがあって、完全に正書法に組み込めない。
しかし、句点「。」については迷う人はまずいない。
マスメディアでは、「おはよう。」という場合の「。」は
省くことが多いが、個人レベルでは、7、8割の人が打つ。
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なのに、「喪中につき年末年始のご挨拶は……」という
あいさつハガキでは、いっさいのセンテンスから「、」も「。」も
省かれてしまう。「挨拶」は「あいさつ」でいいのに、
なんて、横道にそれている場合ではない。

文明が文化の充実を下支えするとは限らず、むしろ足を引っ張る例は、
これまでにも何度も経験しているが
(たとえば、8ミリフィルムがビデオに変わったとき、
アマチュアの作品のレベルが一度はガタンと落ちた)、
句読法の完全無視も、これと同じこと。
いまさら、「日本文は古来、句読点は打たなかった」なんて、
聞いたふうなことを言ってもらっちゃァ困るってもんよ。
パソコンが普及する前からそうしていた人以外、
そういう反論はできないはず。
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印刷屋のおじさんなら、「こないだ、お宅で作ってもらったあいさつ状だけど、
受け取った人から、『句読点くらい打ったらどう?』っていわれたよ」
という一言で、改善のきっかけが作れた。
が、相手はパソコン、いや、パソコンに遠隔操作されている人間、
無知な自分が相手では、とりつく島がないし、つける薬もない。

ロッキーが他界したときには、直木三十五(1891~1934年。
読点を各文節ごとに打つ作家だった。
「直木賞」は、この人を記念している)のように、
「、」を打ちまくってやるからな(……とだれかに遺志を伝えておこう)。
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ちなみに、喪中はがきをもらったら、こんな返事を書くことを
30年来続けている。
《毎日香》は、「お線香を送ろう」と宣伝しているが、
他界する人がこんなに多くては、とても追いつかない。
ハガキ1枚でも、個人レベルの偲ぶ心は伝わると思う。

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文例
拝復、お父上の喪中のお知らせ、謹んで承りました。
百一歳とは、お見事な人生、ただただ活力ある人生に平伏するのみ。
存在感のある方でしたから、ご一家のお心の空白、
さぞや大きいことでしょう。
心からご冥福をお祈り申しあげます。

明年のみなさまのご多幸とご健勝をお祈り申しあげます。 合掌

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ちなみに、原文は毛筆(ぺんてる筆)、句読点は必須。

# by rocky-road | 2009-12-09 23:35