テレビ、ラジオによる天気予報の担当者(予報官、アナウンサー)の
差し出がましい指示・命令姿勢が気になる。
「熱中症に気をつけてください」
「頑丈な建物に避難してください」
「不要不急の外出は控えてください」
「のどが渇いていなくても水分補給をするようにお願いします」
「(台風接近で)予定の見直しもお願いします」
少し前までは、「気象庁は、不要不急の外出は控えるように
呼びかけています」のように、
伝聞情報として伝えていたが、
発信の機会がふえるにつれて、
だんだん前面にしゃしゃり出てくるようになった。
予報官やアナウンサーの分際、かつ第三者の立場で、
不特定多数の国民に、お願いごとをするなどは不遜である。
「分をわきまえろ」と言いたい。
実際には、個人的な見解ではなくて、
原稿にそう書いてあるのだろう。
災害が多く、警告をしたくなるのはわかるが、
下っ端の1担当者が、
みだりに「……してください」「お願いします」などと
相手かまわず、上から目線で指示をしてはいけない。
日本人は、もっと分をわきまえた国民だったはずである。
こういうときは、
「熱中症に最大限の注意が必要です」
「安全のためには、水分補給は決めた時間ごとに行なう必要があります」
「外出は早朝か、夕方以降の時間帯を選ぶのも対策の1つです」
などと、必要な情報を伝えて、最終判断は相手に任せるのが
大人の対応というものであろう。
参考までに、
戦時中、アメリカの爆撃機が東京方面に向かっているとき、
ラジオでは、こんな警告をしていた。
「東部軍管区情報。敵ボーイング29/60機編隊が
駿河湾上空を帝都に向かって飛行中……」
(文末は記憶なし)
当時の放送は、専門の放送局員(日本放送協会のアナウンサー)が
軍の施設に赴いて読みあげたものと思われる。
爆撃による危険度は、いまの災害のレベルを超えているが、
それでも、馴れ馴れしく
「避難してください」などと、余計な指示をすることはなかった。
(当時、小学2年生の筆者による記憶の範囲で)
人に「何々してください」とか「お願いします」とかと指示ができるのは、
当事者の管理下にあるエリアとか、
よほど親しい間柄とか、親近感を表わすときとか、
上下関係や立場がはっきりしている場合とかに限られる。
自宅の前に「ここにゴミを捨てないでください」、
公共施設の当事者が「ここに物を置かないでください」
などと掲示するのは、
利害に関係する当事者として許される。
台風や猛暑は、
放送局や天気予報官は気象現象の当事者ではなく、
疑う余地もない部外者。
そいう立場を自覚せず、
情報伝達の1メッセンジャーが
「……ください」「お願いします」と言い切るのは、
出過ぎた態度であろう。
人間というものは、
自分の持っている情報の価値が高くなると
(相手がこちらの情報に関心を高めると)、
偉くなったような気になる(自分が一次発信者でなくても)。
二流以下の人間ほど、それが表情や態度には出やすい。
天気予報官が、雨や嵐の情報を伝えるとき、
なんとなく顔が輝くのは、
相対的に「お困り情報」が〝ウリ〟になることを感じるからである。
野暮な奴ほど、それが顔や態度に出る。
天気予報官が、国語への関心がうすいのはいいとしても、
マスメディアを通じて、
日本中に情報を発信する立場になった以上、
それなりのトレーニングを受けるべきだが、
どうも、その点に不備があるらしく、
しばしばヘンテコなコトバを造語する。
最近では、「線状降水帯」などと言いだす始末。
なんと硬直した、シャッチョコバッタ造語だろう。
そもそも、「線状」なのか「帯状」なのか、どっちやねん。
「線」にも東海道新幹線や、国道27号線など、
そばで見れば、線はけっこう太いものだが、
それだって、地図上には細い線で示される。
「帯」は、確かに和服の帯のような形状だけではなく、
「帯びる」という動詞としても使う。
静電気を帯びたり、酒気を帯びたり、密命を帯びたり。
「降水帯」とは、「降水」を帯びた雲のことを言いたいらしいが、
「降水」だなんていう日本語を、
気象学の世界では使っているのだろうか。
「こうすい」といえば、
日本人は「香水」以外は思い浮かばないはず。
そんな四角四面の表現をせずに、
「細い線のような雨雲」「帯状の雨雲」と言えば、
日本人の子供から大人まで、日常会話の中でも使えるはず。
人類共有の気象を、私有化してもらっては困る。
「降水帯」などといういかめしい用語が、
一定の組織の中を、
ノーチェックで、くぐり抜けて世の中に流布する、
そういうシステムが信じられない。
気象庁なのか、どこなのか、
なんとまあ、言語センスの低い組織であろうか。
昔、「湾岸低気圧」というのを耳にした主婦が、
ずっと「弾丸低気圧」だと思っていた、と
テレビかなにかで語っていたが、
そうなってもやむをえない。
みんなが使う気象用語は、
もっと平易なものを目指すべきであろう。
この際だから言うが、
「台風の進路」という言い方も適切なのか、疑う。
「子供の進路」「自動車の進路妨害」などというように、
「進路」は、主体性をもったヒトやモノが
自分の意志でどこかに向かう状態ではないのか。
ところが、熱帯性低気圧(台風)は、
その内蔵するエネルギーの大小にかかわらず、
実際には、自分の行先を自分では決められず、
向かう先は、風任せ、気圧任せというではないか。
つまり、もともと進路など持たず、
川の流れのように、風に乗って流れたり、
気圧の縁に沿って流れたりするのだと聞いたことがある。
沖縄周辺に流れてきた台風が、
そのまま大陸に向かうことなく
いきなり直角に近い角度で右折するのを見て、
一定の方向性をもった現象が、
なぜそんな不合理な動きをする理由がわからなかった。
調べてみたら、
そのあたりは偏西風の通り道で、
その風に乗って、いきなり東に流されるのだというではないか。
つまり川が道をふさぐように流れているので、
台風は、その水路(風向き)に巻き込まれて、
流れゆくだけのことらしい。
「台風の進路」だの「上陸」だの「直撃」だのというのは
擬人化もいいところの過大表現であって、
正確には「台風の流路」(りゅうろ)であろう。
ぴったりの単語だと思うが、
残念ながら、そういう日本語がなさそうだ。
だからといって、「流亡」(りゅうぼう)や
「流転」(るてん)「漂流」などとすると、
わかりづらいだけでなく、意味も変わってくる。
ともあれ、台風というものは、
任侠映画や演歌の歌詞にあるように、
流れ流れて沖縄あたりに辿り着くらしい。
だとすれば、「進路」「進行方向」「北上」「迷走」などと、
方向について主体性をもった物体であるかのような
誤解を招く表現は避けるべきではないのか。
「流路」「流浪」などではカタすぎるので、
島崎藤村の「椰子の実」や
秋元康の「川の流れのように」の中に
適当なフレーズがないかと探してみたが、
藤村は「流れ寄る椰子の実一つ」はいいにしても、
あとは「流離の憂い」「孤(ひとり)身の浮寝の旅ぞ」などで、
気象庁以上にカタい表現になってしまうし、
「♪ ああ 川の流れのように おだやかに……」では
ちょっとのどかすぎる。
ともあれ、
そろそろ擬人化ネーミングを刷り込むのはやめて、
科学的にも国語的にも適切な造語か用語を探す努力はしたい。
大和言葉に沿って言えば、
「流れ先」「流れ道」「東流れ」「淀み」(停滞)「逆流」などとなるが、
川をそのまま台風用語に転用するのは安易かもしれない。
「流行」はトンピシャリだが、これも先約があるから、
いまとなっては借り物になってしまう。
とすると、馴染みはないが「流路」「流進」「流動」「遊路」
などを登録するか。
私的には、
台風は「流路に沿って流動し、ときに迷流する自然現象である」と
認識するようにしている。
気象のハナシはここまでにして、
もう1つ、「言語損壊罪」的表現を1つ。
NHKの放送では、
インタビューをした相手が自分の望みを表現して
「ぜひ、おいでいただきたい」「ぜひ召しあがっていただきたい」
と語った場合、すべて「ほしい」と翻訳するルールがあるらしい。
謙虚さを身につけぬままに
大人になってしまった人間集団がやりそうなことである。
この翻訳によってどういうことが起こるか。
「ほしい」という、動物性むき出しのコトバが
あたかも「ていねい表現」であるかのように
無防備の視聴者に刷り込まれていく可能性がある。
英語表現の「I want you」といった、本能マル出しの表現を
日本語には「持ち込んでほしくは……」
いやいや「持ち込んでいただきたくはない」。
やはり、「言語損壊罪」という法律をつくろうではないか。
日本人が日本人であり続けるためにも……。
以上、お考えいただければ、幸いでございます。