やっぱ、年賀状、やめないで!!

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4年前の2020年の1月に、

このブログに書いた「年賀状を何歳でやめますか。」のページが、

2023年の年末の段階で

このブログの記事ランキングの1位になっている、

と人から教えられた。

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内容は、

年賀状のやめ方には大別して

①「フェイドアウト型」(自然消滅、もらっても返事をしない)

宣言型」(これで終わりと相手に伝える)

死別型

の3つがあるとし、

メリハリをつける意味では、宣言型がよかろう、と書いた。

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読み返してみて、

健康論、マナー論としては、

「宣言型」には、いくつかのリスクがあることに気がついた。

申しわけないが、この点を大幅に訂正させていただきたい。

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自分が仮に「宣言型」を採るとしたとき、

自分の恩師や先輩に、

そういう宣言ができるだろうか、と自問してみたら、

それは「あり得ない」と即答してきた。

自分はそんな恩知らずではないはず。

それは自分の生き方に大きく反する。

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そう思っていた矢先、

今年の年賀状にも

「本状をもちまして年賀状を最後にさせていただきます」

というのがあった。

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「本状をもちまして」とは、ずいぶんとツッパッタ言い様である。

このお役所的表現の冷たさにはあきれた。

こういう人間と交流があったことは

自分史の中では後味が悪い。

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そうか、

「人生の終い(しまい)方」だの「年賀状の終え方」だのという

流行的風潮に染まるタイプは、

むしろ、もともと人との交流が少なく、

狭い世界に生きてきたので、

社会性に磨きがかかっていないうえに、

マナーに関するブラッシュアップをしてこなかったために、

こういう不愛想、無教養な表現ができるのだろう。

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振り返ってみると、

これまでに年賀状終了宣言をしてきた連中には共通点があって、

大半は10~20歳以上離れる後輩であること、

女性がほとんどで、男性は1人、いずれも内向きタイプ。

1名だけは、病状が進み、もう筆記ができない、と事情を伝えてきた。

いずれも、いまはほとんど交流のない人たちである。

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推測として、宣言型の全員が、

こちらを嫌っていた、という共通点だってありうる。

しかし、言わせてもらえば、

いずれも、こちらから誘い込んだ人脈ではなくて、

向こうの意志で、こちらにやってきた人たちである。

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ここからはマナー論からは離れて、

社会心理的に、そして健康論として考えてみよう。

まずは「断捨離」から始まって、

友人・知人を捨てること、

自分の人生を仕舞うことなどを伝授する人が

メディアで持ち上げられる社会とは、

どういう社会なのだろうか、である。

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そういう、うしろ向きの情報に反応するタイプとは、

ひとことで言えば、やることがない連中である。

「やること」とは、

すべてが自分自身のこととは限らない。

死生学で知られた

アルフォンス・デーケン氏(元・上智大学名誉教授)が

説いたように、

人生の晩年は「お返しの時期」であろう。

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自分がここまでハッピーに生きてこられたのは、

親や友人、知人、

その他、多くの人からの知識や技術、

富や財産などなど、量りきれないほどの支援のおかげ。

それらに対して、

少しでもお返しをすることに時間や労力を使いたい、と説いた。

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これに私は尾ひれをつけて、

そういうことをしないで死んでゆくのは、

「食い逃げ」「持ち逃げ」に等しい、と。

社会性とは、そういうものであろう。

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いまでも、日本各地には、

居住地の自治活動やコミュニティに参加しないと

シロい目で見られるところが少なくないはず。

ずいぶんやっかいな環境のように思われがちだが、

人間の行動は、100%自発的ということはあり得ない。

モチベーションは、人や環境から与えられるもののほうが多い。

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脳科学者や生物学者は言う。

「人間に自発性というものがあるのだろうか。

動物の行動のほとんどは、

環境からの刺激に対する反応である」と。

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きょう食べたものも、いま着ているものも、

きょうテレビを見たものも、

ハッピーな1日だったと思うのも、

自発性というよりも、

環境が与えてくれた「動因」(モチベーション)に対する

反応ということか。

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毎日、入ってくる多くのメールの処理、

近所の人が、畑で採れたという大根やトマトを

突然、届けてくれる。

「さっき買ってきたばかりだよ。

もう冷蔵庫はいっぱいじゃないか」などと

心の中で舌打ちをしたりするが、

それを使った料理を考えることで

新しいメニューを覚えたり、家族からは称讃されたりする。

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戦時中、

東京では防火訓練や避難訓練、

回覧板を隣に届けるなど、

断れない社会活動が多かった。

夏は、冷房はもちろん、扇風機もなかったので、

道路に縁台を出して、夕涼みをするしかなかった。

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とても「自分探し」だの「生きづらい時代」だのと

甘ったれたことを言っているヒマはなかった。

「自分探し」をする前に、

人から自分が探されて、

「防火演習に出てください」

「すみません、おしょうゆをちょっと借りられない?

なくなっているのに気がつかなくって……」

などと声をかけられた。

昔は、しようゆや油の借り貸しもあった。

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そして、待ったなしの空襲があった。

私が住んでいた〝東京市小石川〟では、

床下の防空壕に入る家が多かったが、

場所によっては、近所の人が共同で入れる

「横穴式防空壕」もあって、

そこにみんなが逃げ込んで来ると、すし詰め状態になった。

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マンション暮らしなどはほとんどなく、

長屋はあったが、戸建て住まいが多かった。

近隣とは、壁1枚以上も離れていたが、

人間と人間の距離は近かった。

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共同生活に忙しくて、

ストレスやうつ状態でふさぎ込めるような

時間も心の余裕もなかった。

周囲が焼け野原になっても、

「すごいストレスだったね」

などと言う人はいなかった。

「ストレス」というコトバがなかったから。

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そういう「自分・探され時代」が終わって、

マイペースで生きられるようになると、

さあ、「自発モチベーション」の低い者は、

自分の立ち位置がわからなくなる。

「自分探し」や「生きづらい世の中」と口にする者は

とかく世の中に文句を言うが、

要は、「自発モチベーション不足」ゆえの、

環境への適応不全ということであろう。

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人間というものは(群れ行動をする動物も)、

自分の集団からの刺激に反応して

「自分」というものを創っている、

それがノーマルな、いや不可欠な行動様式である。

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しかし、群れ行動への適応性が低い者は確かにいる。

そういう個体としては、

自分の友達や、自分の持ち物などを捨てるくらいしか

「自発モチベーション」を得られない。

そういう低迷タイプにとっては、

「断捨離」系の考え方には共感できるのだろう。

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久々に「外的モチベーション」に反応した理由は、

人と接することなく、事を進められるからである。

久々に「自発モチベーション」に燃えて、

すがすがしい顔をして

捨てるものを分別してゆく。

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とはいえ、彼らには、

それらの廃棄物のあと処理に

どれだほどの作業や費用がかかるか、

そんなことには考えが及ばない。

「トラック2杯ぶんも捨てた」などと、

身近な人に誇ったりする。

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健康論として見ると、

このページでもしばしば書いているが、

「孤独のすすめ」も「人生の終い方」も、

「断捨離」も「年賀状の終え方」も、

要は「短命のすすめ」ということになる。

モノを捨てた人ほど、健康寿命が延びた、

なんていうことはありえない。

エビデンスが必要なら、

孤独死をした人の死亡年齢を調べればすぐにわかる。

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ガラクタのようなモノにも情報があり、

その情報は、それを見る人になんらかの刺激を与える。

想い出であったり、懐かしさであったり、

友達の顔であったりコトバであったり……。

そういう環境を少なく、小さくすることは、

人間の、いや生物の生存への可能性を

縮めることにほかならない。

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世界の長寿国に中で、いわば「短命思想」が

一部の者に受け入れられるのは、なぜなのか。

これも、以前書いたが、

国が縮んでいくときには、

国家的なビジョンや方向性が「おぼろ」になり、

国民のモチベーションが低くなるということかもしれない。

「平和ボケ」の時代は終わった。

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自分の身に危機が迫っていることは、

だれもが知らずにはいられなくなった。

地球のリーダーがいなくなって、

局地的な紛争を収められなくなった。

これからは、同時多発的に、

地域紛争が続くことになるだろう。

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そういう地球事情には関心を持てない

「低モチベーション人間」は、

いまのうちに人生を楽しんでおこう、

そういう楽しい人生を、

どうすれば持続できるのか……

などという大それたことを考える思考力はなく、

「父の残したこの時計、捨てようかどうしようか」

なんていうことを2日も3日もかけて考えて楽しんでいる。

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そりゃぁ、年賀状なんか書いているヒマなんかないよね。

しかし、世の中、復活ということはあるもので、

90歳を超えた先輩女性から年賀状が来た。

去年、「90歳を超えたから、年賀状を終わりにしたい」と

書いてきた方である。

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ご意向に沿って、今年は出さないでおいたのに、

「終了宣言」を忘れてしまったのか、

元旦配達の年賀状が来た。しかも2通。

そこには、「復活宣言」はなく

(つまり、去年書いたことは忘れている)

「本年は、94歳になります。知人、友人も

あちらの世界の人が多くなりました」とさらっとあって、

「本年もよろしくよろしくお願いします」

2通の文面は同じではなかった。

宛名も本文も、しっかり手書き。


少し事務力は落ちたかもしれないが、

これが日本人というものでございましょう。

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しかし、年賀状の世界から「足抜け」ができない、

なんていうことになると、うっとうしい話。

このテーマの結論としては、

フェードアウト型しかないのかも。


パーティ―会場から途中退出するときのマナーと同じで、

いちいちあいさつなどしないで、

そっと、会場から消えていけばよい。

心の中で、そっとつぶやこう。

「おかげさまで、楽しいパーティーでした」


# by rocky-road | 2024-01-16 22:00 | 大橋禄郎  

2023年度 「使いたくない日本語・日本語表現大賞」発表。

2023年度

「使いたくない日本語・日本語表現大賞」発表。

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年末には、『現代用語基礎知識』という辞書が選定する

「新語・流行語大賞」が発表されて話題になる。


そこで、わがロッコム文章・編集塾でも、

「使いたくない日本語。日本語表現大賞」を

選ぶことにする。

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実際、授業でも、

「NHKが使っても使いたくない日本語、日本語表現」

というテキストによって講義をしている。


以下は、

上記のテキストにも収載してある事例の1つでもあるが、

2023年度の(に限らないが)

「使いたくない日本語、日本語表現大賞」として

記しておきたい。

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「ほしい」

NHKが頻発する表現。

各地の取材先で、いろいろの人にインタビューした場面で、

登場する人が

「ぜひこちらに来ていただきたい」とか、

「これをみなさんに召しあがっていただきたい」とか、

「ぜひご覧いただきたい」とかと発言しているのに、

テレビの画面のスーパーインポーズでは

……してほしい」となっている。

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ラジオも同様で、

そうは言っていない流れなのに、

「『県庁では市民に対して〇〇してほしい』と言っています」

「道路管理者は『注意してほしい』と話していました」

などと放送している。

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日本語には、人になにかを期待するとき、

「いただきたい」と、ていねい表現を使う。

そのため、「早くコロナが収まっていただきたい」

「そろそろこの暑さ、やわらいていただきたい」

などと、コロナウイルスや天候にまで

ていねい表現を使ったりする。

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国語的には誤りだが、その態度は好ましい。

それに対してNHKは、

登場人物が「いただきたい」と言っているのに、

「ほしい」と言い換えてしまう。

ときには、もっと荒っぽく「もらいたい」とまで〝誤訳〟して、

相手の国語力や人間性を貶める。

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そのことを電話で伝えたら、

担当職員は歯切れの悪い言い訳をしていた。

「スーパーの文字数を減らすため」と。

そうだとしても、

人格がうかがえる表現を要約してしまうのは、

一種の人格侵害ではないか、

と指摘したが、

巨大組織の傾向を、電話に出た担当者が

電話で釈明できるものではない。

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かくして、

「ほしい」「もらう」という、ナマの欲求表現が、

ジワジワとていねい表現化しつつある。

NHKの影響とも思えないが、

若者の発言にも、

「ほしい」や「もらう」をていねい表現的に使うケースがふえている。

「大学は、もっと部員の希望を聞いてほしかった」

「親には娘の意志を尊重してほしい(もらいたい)」

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しかし、NHKの場合、

「ほしい」や「もらう」がていねい表現ではないことを

忘れてしまったわけではない。

自分のお願い事には、しっかり、ていねい表現を使っている。

受信料や引っ越しなどに関する「お願い」では、

……いただきますよう、お願いします」と。

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この使い分け、なにんともいやらしい。

相手によって使い分けるのである。

一市民の発言は「ほしい」と誤訳しても

なんとも感じないのがエリート意識だろう。

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職員の多くは、周囲からチヤホヤされ続けている者が多く(たぶん)、

一般人を無意識的に低く見る深層心理がある。

NHKには、放送文化研究所という施設があって、

アナウンサーの教育や世論調査を行なっているが、

所詮は同じエリートたち。

視聴者が簡単に気づく表現の歪みにも

気がつく感性はまったくない。

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「ほしい」には多分に内語的のニュアンスがある。

「金がほしい」「時間がほしい」「文句を言わないでほしい」

したがって、

比較的身近な人に対して使ったり、

尊敬の対象にならない事物や現象に対して使ったりする。

「ママ、あれがほしい」

「モノではなく、君のココロがほしい」

「景気がよくなってほしい」

「そろそろひと雨ほしい頃」

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国の壊れ方にもいろいろあって、

他国に侵攻される、内戦が起こる、

人種の混交が進む、天変地異に見舞われるなど。


それに対して、内部からの崩壊がある。

協調性の衰退(二極化など)、

国民の海外脱出、地元離れ、

精神的には祖先への敬意低減、

そして、言語の損壊など。

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コトバの乱れは、協調性衰退の一因になりうる。

とりわけ、敬語やていねい表現の軽視。

NHKは視聴料を取って、言語損壊を進めていることになる。

器物損壊は罪になるが、

言語損壊は犯罪の対象にはならない。

器物損壊の比ではないほど、

影響は大きいのに。


「日本句読点学会」は、

「NHKから国語を守る部会」を

設置する必要に迫られている。

ご支援、ご協力をお願いしたい×協力してほしい)


とはいえ、救いはあるもので、

街歩きを楽しんでいたら、

古着屋の陳列品に、こんな表示があった。

「本日、お値下げしました」

値段は、売り手と買い手との共有物。

だから「お値段」と、「お」をつける。

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日本語の美しいところは、ここである。

「お寒うございます」「お暑うございます」

「お天気、よろしいようで……

「お3人様、こちらのお席にどうぞ」

「お値下げ」の古着屋さん、

カウンターを見たら、

「お会計」とあった。

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  【日本句読点学会からのお願い】

1.年末に受け取った印刷形式の「喪中あいさつ」のうち、

句点のないものが何点あったか。

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2.印刷形式の年賀状のうち、

句点のないものが印刷形式の全受け取り賀状のうち、

何パーセントであったか。

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上記についてご連絡いただいた方には

学会から、句点「。」を5つ差しあげます。


# by rocky-road | 2023-12-30 20:33 | 大橋禄郎  

日本句読点学会、発足宣言。

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わが大橋予暇研究所では、

2023年12月1日を発足日として、

「私設・日本句読点学会」を併設することにしました。


設立目的は以下のとおりです。

日本の国語の表記法として、

文章には句読点を打つことは、

明治43年(1910年)に、文部省(当時)によって

「句読法」として定められ、国定教科書に採用されました。

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その目的は、

①文章を読みやすくすること。 ②誤読を避けること。

(書き手にとって)センテンスの長さの目安となり、

文脈の乱れを防いだり、適正な段落を設けたりするのに有効であること、

などにあります。

(漢文を読むときの区切り記号としては

平安時代から使われています。

その理由は、日本人には漢文のセンテンスが

わかりにくかったから)

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今日、句読点は、日本語の文章を

国民のだれもが読めるカタチを整え、

見栄えよくし、かつ論理的な表現をすることに

どれほど役立っているか、計りしれません。

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しかし、少なからずの国民は、

手書きの文章(手紙、ハガキなど)に、

句読点を適切に、しっかりと使うことができないのが現状です。


たとえば、「、」を針の穴のように小さく打つ、

」が小さくて「テン」だか「マル」だかが、わかりにくい。

句読法制定から100年以上たっても、

この状況にあることは、

文化国家として、きわめて誇らしくないことです。

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さらに深刻なのは、

印刷ハガキを請け負う業者や、パソコンの書式などでは、

なぜか、句点を打たない形式が定着してしまったこと。


年賀状、喪中はがき、冠婚葬祭の案内、

転居・転勤・昇格案内などがその例です。

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その理由として、

一説に、「昔(平安時代とか)は、

手紙には句読点を打たなかった。


句読点を打つのは、読解力の低い人に向けた手紙。

したがって、句読点を打つことは、相手を低く見ることになる」

……だとか。

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なんと時代錯誤の、そして誤った解釈でしょう。

そこまで言うなら、

「巻紙に筆で、古文で書くことにしなさい」と

言いたくなります。


このほか、公共施設のいろいろの掲示の文章にも、

句点を打たないものが多い。

そして、テレビのテロップも、ほとんど句読点を打たない。


テレビはもちろん、

公共の場で、不特定多数の人に向けた文章は、

社会環境の一部なのですから、

ルールに則った、折り目正しい表現をしていただきたい。

それが日本人としてのプライドでしょう。

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「たかが句読点」と言うなかれ。

こういうことに気を配らない表現者は、

無知であるうえに、怠惰な生き様であると考えるべきで、

それはけっして健康促進の行動にはなりません。

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認知症の発症年齢と、

発症前の生活習慣との関係を調べる研究に、

文章を書く頻度や、その内容との関係を示した研究が、

アメリカにあったと思いますが、

日本文であれば、その文章に、

どれくらいの割合で句読点を打っているか、

という研究をすれば、

句読点の健康効果は実証されるはず。

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「しかし」です。

「直木賞」という賞に名を遺した、小説家の直木三十五は、

読点を頻繁に打つ、稀有な人でした。

こんな具合です。

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「私の本名は、植村宗一で、植を二分して、直木と匿名にし、

当時三十一であったから、直木三十一、翌年三十二と、

一目上りに変えてきて、三十五で止めたのであるが――

この与一兵衛は、大和国箸尾村の土豪であった。


与一という名から考えて、

十一番目の子らしいが、その時分、それ程正確に、

名をつけていたか、何うか分らないから、断言はできない。」

(自叙伝による)

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このように、ほぼ文節ごとに「、」を打っています。

当学会からは名誉会員に推したい人物です。

とはいえ、句読点をマジメに打ってさえいれば、

それだけで健康になる、ということにはならない

という点は指摘しておく必要があります。


直木三十五は、1891年生まれで、

1939年に没したといわれますから、

寿命は43年。なんとも短命。

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健康を論ずるとき、

「〇〇してさえいれば……」という

シンプルな発想は禁物。

健康は無数の要因によって支えられるものですから、

1つ2つのプラス要素だけで判断をするのは危険です。

句読点もしかり。


しかし、です。

句読点の頻度は、

健康上、マイナスに働く要素はあまりない、

と言ってもよいでしょう。


文章を書く生活、それが人に読んでもらうためだとすれば、

相手の読みやすさに関して気配りすることは、

認知機能にプラスに働くはず。

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直木さんの場合、

結核に感染したことで死期を早めましたが、

早稲田大学時代には、学費未納で退学になりながら、

授業は受け続け、同級生との卒業記念写真にも

一緒に写っているとのこと。

こういうエピソードからうかがえるライフスタイルは、

健康上のリスクになった可能性があります。


それはともかく、

新設、当「日本句読点学会」は、

健康増進を目的とする学会ではなくて、

リズミカルで、すっきりとした、

美しい日本文を書くことをすすめる学会です。


句読点をしっかり打つことは、

読みやすさを促す、誤読を避ける、

段落意識を強化するなどに加えて、

自分の書く文章に責任を持つ、

その人が表現をした、という姿勢を感じさせるなど、

生理的、精神的意味や効果があります。

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近年の日本人の言語行動には、

折り目正しさが失われつつあります。

NHKが、民放との共同キャンペーンとはいえ、

ついに、ついに()「# このラジオがヤバい」のように、

「ヤバい」を使うようになりました。

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俗語が昇格したのか、NHKが降格したのか。

国力や民度と、コトバづかいとの関係を

明らかにした研究はないと思いますが、

高齢者までもが、

「熊に出会ってしまって、怖かったというか、

恐怖が先にたったというか、

かなりヤバいかなと……」などという

シマりのない表現をする人の割合が高くなるというのは、

大和魂の国としては、軟弱化していると見ていいでしょう。

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話しコトバがこれですから、

書きコトバとなると、さらに劣化が進んでいて、

「Eメール文体」というべき文章が市民権を得たようです。

「ハ~イ。雪なんか降りそうな日が続くけど

温泉かなんか行きたい気分だよね( ´艸`)


こういう現状なので、

文章に「テン」や「マル」をどう打つか、などということに

関心を示す人は少ない。

ところが、世の中、捨ててはいけない、

一部には、「。」にこだわる人もいて、

タイトルや商品にも「。」を打つ(「心。」「微アル。」)、

人名にも「。」を打つ(モーニング娘。)というケースもあります。

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商品イメージを強めるための

販促テクニックの要素があるにしても、

日本語のルールや品格を守る意味、

親しみや温かさを感じさせる意味など、

表現法としてはプラスに働くと思われます。


多くの日本人に、句読点の大切さを忘れられないためにも、

本学会は、いろいろの事例を収集し、分析し、

頻度を高めるための研究を続け、

継続的に経過をご報告してゆきます。

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学会名を「句読点学会」としましたが、

それは、いわば助走的ネーミングです。

いずれは「日本表記法学会」と改称することになるでしょう。

!!」「?」なども研究対象にするので、

「補助符号学会」からスタートしたいのですが、

非研究者には、ますます意味がわからないと思われるので、

とりあえずは「句読点学会」で発足します。


ひょっとして、会員になりたい方もおられるかもしれません。

目下、会員規約はありませんが、

国語表記法に関する小論文またはレポートをご提出いただき、

厳正に審査して、入会の可否をお伝えします。


2023年12月1日

日本句読点学会 発起人会長 大橋禄郎

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# by rocky-road | 2023-12-01 21:22 | 日本句読点学会  

低い「話力」はこの先も……。

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いま、わがロッコム文章・編集塾では、

「話力」について講じている。

講義のテキストは

『「話力」のブラッシュアップ。』

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ちなみに「話力」というコトバ、『広辞苑』の七版にも記載がない。

「話力」は、個人の社会行動の基本になる能力だが、

まだ日本語としての使用例は少ないのだろう。

共通語にはなっていないのである。

そういえば、

以前、「食事力」というコトバも造語したことがある。

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「力」というコトバは、能力を表わすコトバだから、

いろいろのコトバにくっつけて造語できる。

「眼力」「説得力」「」復元力」「政治力」「経済力」……。

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しかし、造語するときには、

定義をして、それが社会に受け入れられなければならない。

もちろん、「食事力」にも「話力」にも定義をした。

定義が不完全だと、社会の財産にはなりにくい。

「くしゃみ力」「ふてくされ力」「睡眠力」などとやっても、

共有されなければ、共用言語にはならない。

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それにしても、「食事力」などは、

「咀嚼力」「記憶力」などと同様、

個人の資質にかかわる能力なのに、

共用言語にはなっていなかったのが不思議である。

ここでは定義を省くが、

「コロナにかかって食事力が落ちた」

「オヤシラズが抜けて食事力が落ちている」なんていう表現は

必要ではなかろうか。

「フレイルの予防には食事力の強化も必要」なんていう表現、

使える日が来るといいのに。

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さて、「話力」、定義はこうだ。

「話力」とは、音声言語による表現能力のこと。

一般的には、成人に達するころまでには、

母国語で周辺の人と会話を行なうことができるようになる。

この意味において大半の人は「話力」を身につけている。

(まれに「話力のある文章」などと、表現した論者がいた)

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これだけのことなら、

あえて「話力」を見直すこともないが、

以下に、次の解説を入れている。

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基礎的な「話力」は発達段階を経て身につくものではあるが、

もろもろの体得経験の結果として能力差は生じる。

「基礎的話力」の評価ポイントとして以下の点があげられる。

①相手の特性(性別、年齢、属性、関係性)、状況、

相手の人数、距離、話題などに応じて、

適正な表情、音量、口調(速さ 滑舌)

コトバづかい(ていねいさ 用語 敬語 謙譲語)が適切であること。

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言うのは簡単だが、

日本人の話力不足は歴代の総理大臣から

国会議員、接客業種の従業員、タクシーの運転手、

幼稚園から大学院までの教員などなど

しゃべりがメインとなる職業人の話力の低さは

全国民が知るところ。

そもそも「話力」というコトバがないのだから、

そこに気を配る文化がなくて当たり前。

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これではいかんと、

まずは健康支援者から、

話力強化に意識を向けてもらおうと、

ささやかながら、

その傾向と対策について改善策を示している。

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くわしくは「講義で……」とはなるが、

基本的なことは、まず表情の改善から。

「話力強化」の基本は、

無言の表現力から。

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曇天なのに日傘を差したり、

ギャングみたいな覆面マスクをしたり、

国防色(オリーブ色というのか?)や

ベージュの衣服を常用している人の80%は、

「話力」を放棄している人と見ていい。

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話力強化のトレーニング法としては、

雑誌や新聞を音読すること。

しかし、現実は、

トレーニングをしようにも雑誌も新聞も手元にはない人が

多いのではなかろうか。

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それならいっそ、

「ケイタイ画面を音読しなさい」と言いたいが、

ケイタイで文字情報を読む人さえ少数派の可能性もあるし、

通勤車内で音読を始めたら、

車内がお寺での法事のようにもなって、

「車内ではも音読をお控えください」

となることは必定。

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で、けっきょく、日本人の「話力」不足は、

輝く伝統として、

百年続きますように。♪

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# by rocky-road | 2023-11-10 23:00 | 大橋禄郎 文章教室  

「名古屋から京都へ」の時代。

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10月20日、21日、22日の3日間、

食にかかわるとはいえ、

まったく業種の異なる3つのグループの集まりに、

連日参加した。


1日目は、

わが地元、北区の健康増進部健康推進課が行なった、

「北区 楽しい食の推進員会」10期生を対象とした養成講習会。

ここでは、影山なお子さんによる

食生活を輝かせるために知っておきたい7つのポイント

「食コーチング」の視点から

という午前中の講義のあと、

午後に、「おいしさ100倍の食シーン撮影入門

というコーナーを担当した。

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2日目は、藤原勝子さんが校長時代の

ジャパンフードコーディネータースクールの同窓会。

1982年に発足したこのスクールだが、

いまは別経営のスクールになったため、

元校長が参加する同窓会は今回が初めてであった。

元・講師として、これに出席した。

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3日目は、食コーチングが主催する「食ジム」第125回。

今回のテーマは

「栄養士は後輩たちに、栄養士という職業の魅力を

どのように伝えてゆけばよいか。」

(座長 三宅理江子さん 

アドバイザー 影山なお子さん/大橋 )

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3つのコミュニティは、個々に活動をしていて

互いの交流はない。

しかし、それぞれに関わった者から見えてくるのは

「食」を通じて社会に貢献しようという参加者のモチベーションであり、

日本人の健康寿命を支える柱としての役割である。

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北区の「楽しい食の推進員」も、

「食ジム」参加者も、主体は栄養士である。

フードコーディネーターにも、

栄養士の肩書を持つ人が少なくない。


栄養士および食生活の社会史を振り返ると、

栄養士の働き場所は、主に病院であったが、

フードビジネスが盛んになると

(その社会背景には、女性の社会参加がある)

病院以外のところにも、

栄養士の活躍場所が広がっていった。

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このとき、「栄養士」という肩書は、

フードビジネス向きとは感じられないところがあり、

別の肩書が求められるようになった。

このニーズに応えるべく、

「フードコーディネーター」「フードスペシャリスト」

「食育コーディネーター」「食生活アドバイザー」など、

資格を与える短期養成校が数々生まれた。

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「管理栄養士」と「フードコーディネーター」との比べ方として、

どちらが養成機関が長いか、

どちらがお金がかかるか、という点を基準にすれば、

迷うことなく前者である。

したがって、「栄養士の資格があるのに、

なぜわざわざ〝フード系〟の資格までとる必要があるの?」

そういう疑問を持つ〝外野〟が多かったのは当然である。

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が、今度、フードコーディネータースクールの同窓会で、

何人かの人と話をしていて、

やはり、この資格には意味があった、と感じた。

「いま、どんなお仕事をしているの?」と尋ねると

「カフェを開くにはお金がかかるので、

カフェを開きたい人のサポートをしています」

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そしてBさんは

「メディアで働きたいという人を売り込む仕事をしています」

さらにCさんは、

「カフェプランナーの仕事をしています」

Dさんは、

「大学の教授をしています」

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養成期間や払った学費の多寡とは関係なく、

みなさんしっかりご自分のポジションを得ている。

人と人とを引き合わせるコーディネーターという仕事は、

社会が多様化するほどに、ニーズが高くなる、

いや不可欠な仕事となってくる、

ということであろうか。

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いま思えば、

日本を代表する大手の食品会社にいた人も少なくない。

その人たちが、

いまはフリーのフードコーディネーターとして活躍しているではないか。

「あの会社にいたときと、いまを比べたら、

どちらに達成感がある?」

そういう野暮な質問は、もちろんしなかったし、

する必要もなかった。

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答えは表情や話しぶりに書いてあつたから。

そして思った。

「楽しい食の推進員」も、

「食コーチ」も、

健康を軸足にした、人生100年時代のコーディネーターなのだ、と。

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人生100年時代の説明の仕方として、

こんなストーリーを考えて見た。

仕事関連の出張か、ほかに、なにかの都合で、

東京の人間が名古屋まで、年に何回か通っている、としよう。

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名古屋までの間、車中で何をするかは、

経験的にわかってくる。

「この本を読み切る」「この雑誌を買って読む」

「ケイタイでブログの下書きをする」

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が、事情が変わって、

名古屋への定期的出張先が京都に変わった。

名古屋から京都までの時間がプラスされたとき、

「読む本は少し厚めのものにする」

「週刊誌はやめて月刊誌にしよう」

「車窓から低山だけを撮ろうか」

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「人生100年時代」とはそういうことだ。

名古屋から京都までは睡眠時間とするか、

米原で途中下車して1泊するか。

「あなたのお好きなように」

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どう過ごせばよいか、定まらない人が多い。

そういう人に、アドバイスをするのが、

「楽しい食の推進員」であり、「食コーチ」であり、

「フードコーディネーター」であろう。

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「100年時代」とは、

出張先が遠くなる、ということであり、

車中で過ごす時間が長くなる、ということである。


# by rocky-road | 2023-10-27 23:21