4年前の2020年の1月に、
このブログに書いた「年賀状を何歳でやめますか。」のページが、
2023年の年末の段階で
このブログの記事ランキングの1位になっている、
と人から教えられた。
内容は、
年賀状のやめ方には大別して
①「フェイドアウト型」(自然消滅、もらっても返事をしない)
②「宣言型」(これで終わりと相手に伝える)
③死別型
の3つがあるとし、
メリハリをつける意味では、宣言型がよかろう、と書いた。
読み返してみて、
健康論、マナー論としては、
「宣言型」には、いくつかのリスクがあることに気がついた。
申しわけないが、この点を大幅に訂正させていただきたい。
自分が仮に「宣言型」を採るとしたとき、
自分の恩師や先輩に、
そういう宣言ができるだろうか、と自問してみたら、
それは「あり得ない」と即答してきた。
自分はそんな恩知らずではないはず。
それは自分の生き方に大きく反する。
そう思っていた矢先、
今年の年賀状にも
「本状をもちまして年賀状を最後にさせていただきます」
というのがあった。
「本状をもちまして」とは、ずいぶんとツッパッタ言い様である。
このお役所的表現の冷たさにはあきれた。
こういう人間と交流があったことは
自分史の中では後味が悪い。
そうか、
「人生の終い(しまい)方」だの「年賀状の終え方」だのという
流行的風潮に染まるタイプは、
むしろ、もともと人との交流が少なく、
狭い世界に生きてきたので、
社会性に磨きがかかっていないうえに、
マナーに関するブラッシュアップをしてこなかったために、
こういう不愛想、無教養な表現ができるのだろう。
振り返ってみると、
これまでに年賀状終了宣言をしてきた連中には共通点があって、
大半は10~20歳以上離れる後輩であること、
女性がほとんどで、男性は1人、いずれも内向きタイプ。
1名だけは、病状が進み、もう筆記ができない、と事情を伝えてきた。
いずれも、いまはほとんど交流のない人たちである。
推測として、宣言型の全員が、
こちらを嫌っていた、という共通点だってありうる。
しかし、言わせてもらえば、
いずれも、こちらから誘い込んだ人脈ではなくて、
向こうの意志で、こちらにやってきた人たちである。
ここからはマナー論からは離れて、
社会心理的に、そして健康論として考えてみよう。
まずは「断捨離」から始まって、
友人・知人を捨てること、
自分の人生を仕舞うことなどを伝授する人が
メディアで持ち上げられる社会とは、
どういう社会なのだろうか、である。
そういう、うしろ向きの情報に反応するタイプとは、
ひとことで言えば、やることがない連中である。
「やること」とは、
すべてが自分自身のこととは限らない。
死生学で知られた
アルフォンス・デーケン氏(元・上智大学名誉教授)が
説いたように、
人生の晩年は「お返しの時期」であろう。
自分がここまでハッピーに生きてこられたのは、
親や友人、知人、
その他、多くの人からの知識や技術、
富や財産などなど、量りきれないほどの支援のおかげ。
それらに対して、
少しでもお返しをすることに時間や労力を使いたい、と説いた。
これに私は尾ひれをつけて、
そういうことをしないで死んでゆくのは、
「食い逃げ」「持ち逃げ」に等しい、と。
社会性とは、そういうものであろう。
いまでも、日本各地には、
居住地の自治活動やコミュニティに参加しないと
シロい目で見られるところが少なくないはず。
ずいぶんやっかいな環境のように思われがちだが、
人間の行動は、100%自発的ということはあり得ない。
モチベーションは、人や環境から与えられるもののほうが多い。
脳科学者や生物学者は言う。
「人間に自発性というものがあるのだろうか。
動物の行動のほとんどは、
環境からの刺激に対する反応である」と。
きょう食べたものも、いま着ているものも、
きょうテレビを見たものも、
ハッピーな1日だったと思うのも、
自発性というよりも、
環境が与えてくれた「動因」(モチベーション)に対する
反応ということか。
毎日、入ってくる多くのメールの処理、
近所の人が、畑で採れたという大根やトマトを
突然、届けてくれる。
「さっき買ってきたばかりだよ。
もう冷蔵庫はいっぱいじゃないか!」などと
心の中で舌打ちをしたりするが、
それを使った料理を考えることで
新しいメニューを覚えたり、家族からは称讃されたりする。
戦時中、
東京では防火訓練や避難訓練、
回覧板を隣に届けるなど、
断れない社会活動が多かった。
夏は、冷房はもちろん、扇風機もなかったので、
道路に縁台を出して、夕涼みをするしかなかった。
とても「自分探し」だの「生きづらい時代」だのと
甘ったれたことを言っているヒマはなかった。
「自分探し」をする前に、
人から自分が探されて、
「防火演習に出てください」
「すみません、おしょうゆをちょっと借りられない?
なくなっているのに気がつかなくって……」
などと声をかけられた。
昔は、しようゆや油の借り貸しもあった。
そして、待ったなしの空襲があった。
私が住んでいた〝東京市小石川〟では、
床下の防空壕に入る家が多かったが、
場所によっては、近所の人が共同で入れる
「横穴式防空壕」もあって、
そこにみんなが逃げ込んで来ると、すし詰め状態になった。
マンション暮らしなどはほとんどなく、
長屋はあったが、戸建て住まいが多かった。
近隣とは、壁1枚以上も離れていたが、
人間と人間の距離は近かった。
共同生活に忙しくて、
ストレスやうつ状態でふさぎ込めるような
時間も心の余裕もなかった。
周囲が焼け野原になっても、
「すごいストレスだったね」
などと言う人はいなかった。
「ストレス」というコトバがなかったから。
そういう「自分・探され時代」が終わって、
マイペースで生きられるようになると、
さあ、「自発モチベーション」の低い者は、
自分の立ち位置がわからなくなる。
「自分探し」や「生きづらい世の中」と口にする者は
とかく世の中に文句を言うが、
要は、「自発モチベーション不足」ゆえの、
環境への適応不全ということであろう。
人間というものは(群れ行動をする動物も)、
自分の集団からの刺激に反応して
「自分」というものを創っている、
それがノーマルな、いや不可欠な行動様式である。
しかし、群れ行動への適応性が低い者は確かにいる。
そういう個体としては、
自分の友達や、自分の持ち物などを捨てるくらいしか
「自発モチベーション」を得られない。
そういう低迷タイプにとっては、
「断捨離」系の考え方には共感できるのだろう。
久々に「外的モチベーション」に反応した理由は、
人と接することなく、事を進められるからである。
久々に「自発モチベーション」に燃えて、
すがすがしい顔をして
捨てるものを分別してゆく。
とはいえ、彼らには、
それらの廃棄物のあと処理に
どれだほどの作業や費用がかかるか、
そんなことには考えが及ばない。
「トラック2杯ぶんも捨てた」などと、
身近な人に誇ったりする。
健康論として見ると、
このページでもしばしば書いているが、
「孤独のすすめ」も「人生の終い方」も、
「断捨離」も「年賀状の終え方」も、
要は「短命のすすめ」ということになる。
モノを捨てた人ほど、健康寿命が延びた、
なんていうことはありえない。
エビデンスが必要なら、
孤独死をした人の死亡年齢を調べればすぐにわかる。
ガラクタのようなモノにも情報があり、
その情報は、それを見る人になんらかの刺激を与える。
想い出であったり、懐かしさであったり、
友達の顔であったりコトバであったり……。
そういう環境を少なく、小さくすることは、
人間の、いや生物の生存への可能性を
縮めることにほかならない。
世界の長寿国に中で、いわば「短命思想」が
一部の者に受け入れられるのは、なぜなのか。
これも、以前書いたが、
国が縮んでいくときには、
国家的なビジョンや方向性が「おぼろ」になり、
国民のモチベーションが低くなるということかもしれない。
「平和ボケ」の時代は終わった。
自分の身に危機が迫っていることは、
だれもが知らずにはいられなくなった。
地球のリーダーがいなくなって、
局地的な紛争を収められなくなった。
これからは、同時多発的に、
地域紛争が続くことになるだろう。
そういう地球事情には関心を持てない
「低モチベーション人間」は、
いまのうちに人生を楽しんでおこう、
そういう楽しい人生を、
どうすれば持続できるのか……
などという大それたことを考える思考力はなく、
「父の残したこの時計、捨てようかどうしようか」
なんていうことを2日も3日もかけて考えて楽しんでいる。
そりゃぁ、年賀状なんか書いているヒマなんかないよね。
しかし、世の中、復活ということはあるもので、
90歳を超えた先輩女性から年賀状が来た。
去年、「90歳を超えたから、年賀状を終わりにしたい」と
書いてきた方である。
ご意向に沿って、今年は出さないでおいたのに、
「終了宣言」を忘れてしまったのか、
元旦配達の年賀状が来た。しかも2通。
そこには、「復活宣言」はなく
(つまり、去年書いたことは忘れている)
「本年は、94歳になります。知人、友人も
あちらの世界の人が多くなりました」とさらっとあって、
「本年もよろしくよろしくお願いします」
2通の文面は同じではなかった。
宛名も本文も、しっかり手書き。
少し事務力は落ちたかもしれないが、
これが日本人というものでございましょう。
しかし、年賀状の世界から「足抜け」ができない、
なんていうことになると、うっとうしい話。
このテーマの結論としては、
フェードアウト型しかないのかも。
パーティ―会場から途中退出するときのマナーと同じで、
いちいちあいさつなどしないで、
そっと、会場から消えていけばよい。
心の中で、そっとつぶやこう。
「おかげさまで、楽しいパーティーでした」
# by rocky-road | 2024-01-16 22:00 | 大橋禄郎