遠路、はるばる哲学しちょる。

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2008年に開設した「ロッコム文章・編集塾」の遠距離クラスが

この10月16日で56回を数えるに至った。

3か月の1回のペースなので、

ようやく56回となるが、

遠路を通ってくださる塾生の意欲に敬意を示し、

感謝を述べたい。

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毎月クラスには通えない遠方の方のための教室である。

広島、山口、大阪、岡山、石川、秋田、岩手、千葉、神奈川などなどから、

少なくとも1泊2日で横浜まで通うことになる。

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終日の授業なので、時間にはあまり追われない。

そのため、各自に近況報告をしていただく。

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各地のローカルな話題を耳にするのは有意義。

みなさん、数分間の近況報告スピーチがうまくなった。

「ご報告は3つあります」と、

最初に話題の数を提示する発話形式が定着した。

このスピーチ力は、一生ものとして有効活用できるだろう。

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(昼休みに、近くでよさこい祭りをやっていたので、

翌日の「食ジム」のときのものと合わせて

ここで使わせていただく)

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いま、遠距離クラス、毎月クラスの塾生を悩ませているのが、

「人生とは……」「若さとは……

「私を支えるコトバ 原動力となるコトバ」といった、

哲学的思考を試みる宿題。

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健康支援者、栄養士に限らず、

こういう文章を書く機会は一生に1度もない、

というのが現状ではないだろうか。

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「ボッーと生きる」のではなく、

「私ってなんなのか」

「どこへ向かっているのか」

「人生とはなんなのか」

「若さとはなんなのか」

などということを、1回でも考えておくと、

人生の味わいが違ってくるはずだ。

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エビデンス重視、科学的思考が重視される時代だからこそ、

現在から未来までの、

見えないものを見る視力と洞察力を

磨いておく必要もある。

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あしたの天候を予測するのは科学だが、

あしたの世の中の動向、

自分のあしたの行動方針、

人生の方向性……などは、

科学では予測できない。

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哲学的思考が苦手な者、

たとえばロシアのプーチンとか、

中国の習近平とかは、

自分が悪名高き独裁者として

歴史に名を残すことを考えられない。

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けっきょく、自分も非業の死を遂げ、

一族郎党が世を憚って生きていくことになる

という必然を予測できない。

若いときに、

「生きるとはどういうことか」

「自分の人生をどんなカタチにするか」

という哲学をする機会がなく、

成り行き任せに生きてしまうと、

こういう極悪の犯罪者となって

末代まで悪名を残すことになる。

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宿題に戻るが、

こういう文章には、通常「私」は登場しない。

(私は)「こんなことがあった」「こんなことをした」

というエピソードも原則としていらない、邪魔。

そこにつづられることは、すべて「私」が考えたことだから、

あえて、「私」は必要ないし、

「こう思う」「こう考える」などのフレーズも必要ない。

せいぜい「であろう」「といえるだろう」どまり。

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みなさんがつまずくのは、

ヒントを得ようと、

ネットで哲学者や著名人の「言」に当たってしまうこと。

いや、検索するまではいいが、

軸足がそちらに移ってしまって

自説が分散してしまう(もともと自説などないのだが)。


辞書や文献、ネットに当たることは悪くはないが、

学術論文とは違うので、

「そんな人知らない」という表情で

自論を進めることである(パクリはすぐにバレるが)。

もっとも、その説に反論するために

アリストテレスやデカルトをあげるのは大いによろしい。

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「生きるとはなにか」を考えることなく、

ボーっと生きている人間は、

無免許で「人生」という公道を

地図もナビもなく、自動車で走るようなものである。

哲学の文体とは、上記4行、

こんな感じである。

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# by rocky-road | 2022-10-23 22:58 | 大橋禄郎 文章教室  

群羊社と藤原勝子さんに乾杯!!

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給食関係の人や、献立に興味のある人なら、

『組み合わせ自由 3段式料理カードブック』を

使ったことがあるか、見たことがある人は少なくないと思う。

版元の群羊社(ぐんようしゃ)が「日本初の形式」として

1992年発行した書物である。

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各ページが3分割されており、

いちばん上が主菜、2段目、3段目が副菜、またはご飯と汁。

上のページを開いたまま、2段目、3段目のページをめくって、

いろいろの献立プランを考えることができる。

以後、著名な料理研究家による家庭用版が刊行されている。

のちに2段式も作ったようである。

いずれも、㈱群羊社のヒット商品の1つである。


製本技術の進歩で、各ページを3つに分断する、

などという造本が可能になった。

が、そういうハード面の進歩でヒット商品が生まれるものではない。

多くの人が日々の献立で頭を悩ませている、

そういう潜在ニーズをくみ取ってこそ生まれる企画である。

「ニーズは人々の頭の中にあるものではなく、

第三者が創り出すものである」

多くの先人たちの指摘が説くところである。

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版元(一般には出版社)には

100年以上の歴史をもつ組織が少なくないので、

1978年創立の群羊社を〝老舗〟といったら叱られるだろうが、

女子栄養大学出版部時代の後輩が、

夫婦で始めた出版社が、

もうひとふんばりで50年になるというのは、

私からすれば老舗としての「資格あり」と評価したい。


(「版元」と言う理由は、書物や雑誌を発行するのは

会社とは限らず、女子栄養大学出版部など学校の出版部、

新聞社の出版事業部、その他の諸組織など、

いろいろの組織が出版活動をしているので、

プロは「出版社」とは言わず「版元」と言う)

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群羊社を「老舗」と呼びたいのは、

社歴の長さによるものではなく、

「食と健康」に関するジャンルで

世界に2つとない版元として存在し、

いまもユニークな企画を出し続けている点にある。


この分野では、

『栄養と料理』の創刊が1935年(昭和10年)だから、

草分け的存在であるが、

群羊社は、一時期、女子栄養大学出版部以上に

女子栄養大学的な良書を出し続け、

いまは、それらをはるかに超える良書を出している。

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それが《たべもの・食育絵本》シリーズ、

『野菜の教え』(春・夏編)(秋・冬編)

『魚の教え』(上巻「食べて生きる」

 下巻「泳いで生き抜く」」

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《家畜に親しむ食育絵本》のシリーズ、

『牛の教え ひたむきに生きる

『豚・鶏の教え たくましく育つ

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これらは「食育絵本」とは言いながら、

「食」以前の動植物の生態学、生理学系の絵本。

これを子供向けの本として出したところがすごい。


『牛の教え』を開くと、

こんな項目が……。

*生存競争のチャンピオンになれた牛の歩み

*大き~い! 食べる量も出す量もスゴイ!

 乳牛は1日に5060kgもの青草(ほし草では15kg)を 

 食べ、6080Lの水を飲み、2030Lの乳を出す。

 1日に排せつされるふんは約40kg、尿は約20Lにもなる。

 (リットルは大文字表記「L」)

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食卓からは大きく離れるこうした情報は、

実は子供の潜在ニーズを強く刺激する。

乳牛が140kgものうんちをすることを知ることが

なぜ「食育」なのか。

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それはつまり、

教育の原点は知的好奇心を刺激することであり、

新鮮な情報を提供することである。

うんちの1日量は新鮮なのか。

もちろん、新鮮であり、かつ実用的である。


1頭の牛の1日の排せつ物は、

自分の体重以上もある、という知識は、

クラスメイトのだれもが知らないし、

先生さえ知らないだろうし、

もちろんお父さんもお母さんも知らないはず。

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そういう情報をもっている子は、

仲間に尊敬されるだろうし、

自身の認知能力も高まり、世界を見る視野が広がる。

そういう意味で「実用的な情報」となる。

子供たちにとって、

牛肉のレシピよりは数百倍の鮮度も価値もある知識であろう。

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実際、「食育絵本シリーズ」には

食材の話や料理の話は完全に出てこない。

出てくるのは、

カツオやサンマは何を食べているのか、

バショウカジキは、

どうやって補食をするのか、

などといつた生態学的解説図。

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出版に長くかかわってきた者にとって、

この企画は、わが身の「完敗」の事例である。

企画と編集は、藤原勝子さん。

この着眼、情報収集力、プロデュース力などなどにおいて、

とてもかなわない。

全国学校図書館協議会選定図書に選ばれたり、  

その他、いくつかの公的機関から推薦されたりするのは当然である。


振り返れば、

藤原眞昭氏と北矢勝子さんが

女子栄養大学出版部に入ったのは1967年。

同時採用である。

私は面接に立ち会った。

1年を過ぎたころ、お2人は結婚。

2人とも、書籍編集部に属し、

のちに勝子さんは『栄養と料理』の編集部に転属。

そして、採用から11年たったころ、

2人は、ほぼ同時に退職し、「群羊社」を設立した。

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当初は編集プロダクションとしての仕事をした。

すなわち、版元の出版物の下請けである。

眞昭氏もなかなかのアイディアマンで、

女子栄養大学出版部の仕事を助けてもらった。

私は、書籍と雑誌の編集長を兼務した時期がある。

このとき、書籍の仕事は眞昭氏にお願いした。

多くはヒット商品となった。


やがて、群羊社も出版活動をするようになる。

「3段式料理カードブック」なども、

眞昭氏のアイディアによるところが大きいと思う。

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この時期の勝子氏の軸足は、

出版業から「食ビジネス」へと移りつつあった。

㈱「食生活プランニング」を設立し、

「食の仕事セミナー」を開催したり(通算54回)、

フードコーディネータースクールを開校したり、

「食生活カウンセラー養成講座」や

「食育リーダー養成講座」(東京、福井、熊本、宮城)を開催したりと、

独創的で、食ビジネスを活性化する仕事を次々と興した。

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「栄養士の職域をもっと広げたい、栄養士を後押ししたい」

というコンセプトで、縦横無尽に活動した。

(ここからは香川 綾先生の信念が感じられる)

フードコーディネータースクールや

食生活カウンセラー養成講座では、

私も講師としてお手伝いをした。

いま、ロッコム文章・編集塾にも、

このときの生徒さんがおられる。

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そしていま、

勝子さんは、出発点となった出版関係に戻って

前述の「食育」関連の良書を次々とプロデュースしている。

大手出版社の仕組みや、

編集者の限られた勤務年数からは、

ここまでユニークで緻密な、

そして読者の潜在ニーズを引き出す書物は生まれない。


彼女のようにフットワークが機敏で、活動の幅が広いと、

それを評価すべき人の目が追いつきにくく、

その業績がしっかり受け止められにくいところがある。

(そうは言っても、栄養・食糧学会賞、

第13回ビジネスプラン賞、グッドデザイン賞など、

受賞は少なくはない)

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ここは出版にかかわった1人として、

群羊社と、藤原眞昭、勝子両氏を

私的にでも評価し、記録にとどめておきたい。

授賞理由は以下のとおり。


*食の出版界において、

他の追随を許さぬユニークな出版活動を

長期にわたって行ない続けていること。

*勝子氏については、

ジャパンフードコーディネータースクールをはじめ、

いろいろの養成企画を通じて

食ビジネスを多様化、活性化しつつあること。

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*これらによって栄養士、フードコーディネーターなどの

活躍場面を広げ、いまも高いモチベーションを

あげ続けていること。

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《群羊社 藤原勝子氏による

日本における食シーンの活性化に尽くした功績に対し

高い評価と敬意を示す委員会》

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【委員会代表 談話】

「眞昭氏の出版活動は、

本来なら女子栄養大学が出すべきような本を、

いや、とても企画できないような本を

次々と出していった。

動員された筆者群はユニークな人ばかりなのです」

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「勝子さんについては、

交渉力と営業力がずば抜けていますね。

怖いものなしで、1992年に恵比寿(東京都渋谷区/えびす)で

ジャパンフードコーディネータースクールを開校したときには、

周富徳、小林カツ代、服部幸慶、岸 朝子、落合なお子、

海老久美子、砂田登志子、三國清三といった

食の世界の一流どころを講師に揃えましたからね」

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「実業家がビジネス展開するというニュアンスではなくて、

栄養士たちの後押しをしたいという熱意が感じられるので、

みなさん喜んで協力してくれたのでしょう。

それよりもなによりも、

学校のユニークさに、

参加しないなんていう選択肢はなかったのでしょう」

                  (大橋禄郎/談)


# by rocky-road | 2022-10-01 22:59 | 藤原勝子  

日本国のモチベーション。

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8月28日(日)、食コーチングセレクションによる

Rocky サロン 》

3回シリーズ/モチベーションを高める言語アプローチ」が

スタートした。

経過は影山なお子さんのブログ、

「スタンバイ スマイル」

http://www.palmarosa.jp)にお願いして、

ここでは、わが日本国のモチベーションについて考えてみたい。

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周知のとおり、現在の日本国は、

歴史上、もっともモチベーションが落ちている状態で、

深い深い谷底にある。

コロナとか円安とか、物価高とか、

そういうこととは直接関係ない。

根本的な問題は、

国として、いまどこにいて、どこへ向かおうとしているか、

合意形成がなく、

方向感覚を失っている状態にある。

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「だれのせい?」というよりも、

自分の国を世界1の強国に守ってもらい、

他国から攻められる可能性をこれっぽっちも感じず、

自分ではなんの努力も必要ないと錯覚した状態に置かれた結果、

このような生物的適応性が身についた、

ということである。

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人類の歴史は、

絶えることなく自然災害や飢餓の繰り返しだが、

それでも全体としては

災害のない、無風状態の期間のほうが長い。

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なのに、波風の立たない生活というのは

ストレスの減少という、一見好ましい状態ながら

モチベーションは低下するという、

生物の進化のうえでは恐ろしい結果を招く。

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そうなってはならぬと、

ヒトは身近なところにストレス因をつくり出す。

人の悪口、持てる者と持てない者との対立、

有能者と低能者との対立、

集落と集落との間に起きる対立感情など、

なんとしてもストレスを見つけ、

それを緩和するためのモチベーションを高めてきた。

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それさえできないときは、

「いまに空が落ちてくる」と心配した。

それが中国の「杞の国」で、

そこから「杞憂」(きゆう=取り越し苦労)というコトバが生まれた。

「杞憂」とは、ヒトがストレスを手づくりすることを示す、生きた化石である。

ストレスとは、実はモチベーションのカプセルなのだ。

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日本の場合は、先進国相手と戦争を始め、

強烈なモチベーションを体験することになった。

日々の食料をどう確保するか、B29の爆撃からどう身を守るか、

暑さ・寒さをどうしのぐか……といったストレスは

マイナスのモチベーションとなって

それなりに自分の健康を、というよりも自分の命を守った。

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「撃ちてし止まむ」(うちてしやまん)

「欲しがりません勝つまでは」

「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」

「一億玉砕」

などのスローガンも、

それなりに心を支えた。


あとから思えば、この上なく辛いことも、

モチベーションの高いときには、

「幸か不幸か」などと考えているヒマはない。

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打ち込むことに充足感を覚えるものである。

つまり、モチベーションには大別して

「プラスのモチベーション」と

「マイナスのモチベーション」とがあって、

ヒトは、それを使い分けて適応性を高めてきた。


当時の日本人は「ストレス」というコトバも

「ショック」というコトバも知らず、

空襲を受けている最中も、

空襲が終わったあとも

「ストレス」や「ショック」を感じようがなかった。

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あれから70年あまり、

外国から国を守ってもらうことに慣れると、

国としてのモチベーションは低落して、

国として、どこへ向かって、どう動いたらよいか、

などということは、考える必要さえなくなっている。

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「これではいかん」と感じ、考えたのが、

先日、非業な死を遂げた安倍晋三元総理大臣だった。

国としての顔、表情を示すために、

在任中は世界各国を回って、

「顔」を売ってきた。

それは国の存在感を示すことだった。

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昔、池田勇人総理大臣は、

フランス大統領のドゴールから「トランジェスターのセールスマン」と

揶揄されたことがあるが、

安倍さんは、国の存在感をアピールするセールスマンだった。

安倍さんが総理大臣をやめても、

存在そのものが「安全保障」であるといわれた。


つまり、日本周辺の国々が核兵器を持つようになり、

かれらの攻撃的モチベーションが日に日に高まってきていることを

安倍さんは気づいて、

「同じ価値観」を持つ国々と行動をともにしようと、

あちこちの国に出向いて、チームをつくろうとした。

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そんな人が、非業の死を遂げた。

その業績を知る人は、国葬として弔うことにしようと決めた。

ところが、その国葬に反対する政党やマスメディアは少なくない。

その理由は「費用がかかり過ぎる」「税金を使うな」などである。

 

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モチベーションという観点から言うと、

かれらは、国葬に反対というよりも、

いちばんの理由は、自分の所属する政党、会社、番組の

存在感を示すことにあり、

それによって、自分の経済的基盤を維持することにある。

かれらのモチベーションのサイズはそこ止まりで、

国の将来とか、国の方向性とか、チームプレーとかの大局性はゼロ。

いや、ゼロを切って、マイナスの範囲。

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モチベーション論として考えると、

彼らの所属する組織の活動や、

彼らの提供する情報に共感する人というのは

こんなタイプではないだろうか。

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*現時点で人生に達成感を得られない人、

*日々がヒマで、かつビジョンのない人、

*遊びや運動、スポーツの経験が少なく、

チームプレーの楽しさ、豊かさ、フェアプレーの充足感を

体験していない人、

*接客のない事務系、インドア系、セクション固定系の人、

リーダーシップの必要性を経験したことも考えたこともない人、

*もともと活動的・社交的ではないタイプの高齢者、

*国立大学を出た人などなど。

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国立大学(とくに東京の)を出た人にリベラル派や左翼が多いのは、

税金で大学を出たことに対するコンプレックスによるものだろう。

だれも、「税金で大学を出た」なんて言ってはいないが、

彼らの中には、そう言われないようにと、

先手を打って、国の方針や方向性に冷めた態度をとる。

そうすることで、

国に恩義を感じていないことを示そうとする。

しかも、それが伝統となってしまったので、

それとは反対の態度をとることをひどく恐れる。


自発的に建設的なモチベーションを見つけられない人や組織は

人の悪口を言ったり、足を引っ張ったり、クレームをつけたり、

四六時中、文句ばかりを言っている。

月の光のように、自分では輝こうとせず、

太陽の光を反射させて目立とうとする。

「マイナスのモチベーション」で生きる個人や組織の

典型例である。

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そういう組織の担当者や責任者は、

幼少時から「いい子」で、

勉強はできたかもしれないが、

スポーツなどでチームワークを経験したことがなく、

協調性はほとんどなく、

試合で負けた経験を持たない、親にとってだけ「いい気な子」が多い。

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そういう連中は視野が狭いから、

外国の艦船が日本近海でしきりに軍事訓練をしていても

ほとんど気にならない。

以前、ある雑誌で、そういう連中の一部が

こんなことを言っていた。

「日本は住みにくい国だから

どこかの国に移住したいよ。

お前は何処へ行く? タヒチ? モナコ? アマゾン?」

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ドカドカと他国の人間が入ってこられたら、

その国としては、たまったものでしかない。

冗談にしろ、雑誌上にこんな記事を載せる無神経さ、

ここにも、人のことなんて考えられない視野狭窄が露呈していた。

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国のリーダーたちが決めたことに

決まって茶々を入れてまぜっ返す。

淋しくも悲しいモチベーションである。

冠婚葬祭にいくらかかるか、かかったかなどと

公の場で話題にするようなことは

下賤で〝はしたない〟こと。

それが日本人の品位というものであった。

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これを「死者に鞭打つ」という。

亡き人にしてみれば、

そんなにガタガタ言われてまで、葬儀などしてほしくない、

と思っているに違いない。


ましてや、海外から国賓級の人をお招きする、

そういう方々に

「これ、みんなあの費用で賄われてするのか」と

無用な気遣いをされる。

日本人の民度は、ここまで落ちてきたのである。

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国としてのモチベーションに関心がなくてもいい。

しかし、自分の人生におけるモチベーションは、

国の安定、平和によって維持・発展されることを

意識しておく必要はあるだろう。

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# by rocky-road | 2022-09-13 00:15 | 大橋禄郎  

NHKテレビ/天気予報の国語力。

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複数の人に向けて話をする機会がある人にとって、

注意したいことはなにか。

マニュアル的な書物はあまり見かけないが、

テレビからは簡単に学ぶことができる。

教材は、一例としてNHKテレビの天気予報。

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仄聞(そくぶん)ながら、

天気予報はNHKの直轄ではなく、

別の法人組織に外注しているらしい。

それゆえ、

国語表現教育までは行き届かず、

反面教師となるヒントをいろいろと示してくれる。

これをテキストとして、

1対多数のコミュニケーションを行なう場合の

注意点を拾ってみよう。

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1.口癖、書き癖。

NHKテレビの天気予報には

著しいコトバの癖がある。

それは「かけて」というコトバの乱用。

「今晩からあしたにかけて」

「土曜日から日曜日にかけて」

「九州から西日本にかけて」

5分くらいの間に「かけて」を10回以上

くり返すことはざら。連呼に近い。

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天気予報に集中したいが、

「かけて」という口癖が気になりだすと、

かんじんの予報内容を聞き損なったりする。

「口癖」と言ったが、

実は、1予報官だけが言うのではなくて、

NHKテレビの天気予報では

どの予報官も、そしてアナウンサーも、

多かれ少なかれ「かけ」まくる。

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ちなみに、

行政や組織の代表的な人が繰り返す「安心・安全」も

その1つ。一種の流行的口癖である。

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NHKテレビの天気予報の場合、

下請けの組織のだれかが(テレビ担当の責任者か)

「かけて」が口癖(書き癖)になってしまって、

そこから抜け出せない。

予報官はいわゆる「理系」なのだろうから、

言語センスの低い者がいてもおかしくない。

だから、その原稿を元に画面で話す担当者も、

「これ、おかしくない?」などと、上役に指摘はしない。

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同じ放送局でも、

ラジオの天気予報では、

ほとんど「かけて」を使わない。

この違いは、担当者の言語センスそのものであろう。

みんなして「かけまくって」いるテレビのほうは、

マヒ状態にあると言える。

外注先にクレームを入れるのは、

人のよい日本人が苦手とするところでもあろう。

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余計なお世話だと思ったが、

ラジオのさわやか予報官にハガキを書いて、

「どうか『かけて表現』に感染しませんように」

と訴えた。

が、もともとセンスのよいチームなのだろうか、

当方の杞憂であった。

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さてここで、

「かける」という動詞の意味を考えてみよう。

国語辞典で「かける」を検索すると、

このコトバのことについて1冊の本が書けるくらいに

同音異義が多い。

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3時間かけて説得した」「ハンガーにシャツを掛けた」

「夕食に間に合うように駆けて帰った」

「あすに架ける橋」

「賞金を懸ける」「空を翔けるオジロワシ」

「布団を掛ける」「電話をかける」

「二股かける」「ハカリにかける」「会議にかける」

「掛詞(かけことば)『の木の下で待つことにする』」

「火にかける」「命をかける」「重心をかける」

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さて、天気予報官の国語力の話に戻る。

天候というものは日にまたがっていたり、

地域にまたがっていたりするので、

これを「かけて」(「かかる」の連用形)

と表現することには問題ない。

と思いたいが、

「今夜からあしたにかけて雨になるでしょう」

という場合、岸から岸に橋を架けるように

「今夜」と「あした」の間にかかると解釈すれば、

あしたの早朝くらいまでが雨降りの期間。

拡大解釈しても午前中くらいか。

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ところが予報担当者のいう「今夜からあしたにかけて」は、

翌日いっぱいまでを指すこともしばしば。

それだったら、

「今夜からあしたいっぱい」と言えないか。

今日の予報能力なら、雨があがる時刻くらい予測できるはず。

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地域についても同様で、

「九州から近畿にかけて」

「関東から東北にかけて」

「東京から千葉県にかけて」

などとやる。

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わが日本国とは

大きな島が4つ連なった地域という点で、

4島は「かかって」いるとは言える。

そして、空間としては、

地球の空の下では世界中が「かかって」いる。

「お天気さん」にしてみれば、

近畿と東海、甲信越、関東の区別なんて

知ったことではないから、

みんな1つ空の下に「かかっている」

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しかし、日本では廃藩置県以降、

都道府県を設定し、市町村の区画を整えた。

それゆえ、

天気予報でも1週間の予報を表にして示すときは、

しっかり都道府県別に分けている。

表とは「かかって」いるものを見やすく区分したものである。

せっかくカテゴライズしたのだから、

「鹿児島から大阪にかけて」なんてアバウトに言わず、

かといって、県別まではムリとしても、

「中国地方では」「近畿地方は」「中部は」の地域名で説明すればよい。

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2.主観的表現。

天気予報官は科学的データを

一般人にわかりやすく伝えるメッセンジャーである。

確か、アメリカあたりのやり方を倣って設置したはず。

カタイ情報になりすぎない、

人間味のある科学情報にするために、

予報官の個性が出る発言もよしとしている。

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その趣旨には賛成だが、

それがいつのまにか、調子に乗るのが人間、

とりわけコミュニケーショントレーニングの低い者ほど!!

「洗濯は午前中がよいと思います」

「あしたは傘を持って行ってください」

などと、図に乗って個人の生活に入り込んでくる。

大きなお世話である。

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洗濯の予定のない人も多かろうし、

傘は職場に置いてある人もいる。

そして、天気予報はあくまでも天候情報提供であるから、

夕方、雨が降る可能性は80%とでも言えば充分。

人のライフスタイルにまで口を挟むのは僭越である。

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傘を持って行った人にしてみれば、

もし夕方、雨が降らなかったらどうするのか、

悪いことに、その傘をどこかに置き忘れて紛失でもしたら

「どうしてくれるんだ?」と言いたくなるだろう。

ちなみに、「洗濯情報」というコーナーもあるようだが、

この場合は、

複数の関係者による総合判断としての情報と受け止めるので、

「思います」とはニュアンスが多少異なる。


こういう、ちょっとした表現をノーチェックですましていると、

ますます過度な自信を持つようになって、

「傘を持って行ってください」などの、

「ください表現」が多くなる。

「ください」は、耳にやわらかい表現で、

「どうぞご自愛ください」のような、

お願いや、いたわりなどの表現になる一方、

ときには強い指示や命令にもなる。

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「津波の恐れがあるからすぐに安全な場所に避難してください」

「氾濫のおそれがあるので川には近づかないでください」

などの警告の場合は、公共放送といえども

強い口調で注意を促す必要がある。

近頃、自然災害が多いので、

いきおい「ください」発言が多くなる。

結果として「傘を持って行ってください」が

フツーの(と感じてしまう)表現として定着する。


健康支援者の場合にも、

「たんぱく質不足に気をつけてください」

「塩分は控えてください」などの表現が

定番化しているのではないだろうか。

要注意の表現である。

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3.上から目線。

1対複数の発話というものは、

情報を複数の人に提供する形式であるため、

情報提供者は、上から目線になりやすい。

予報官も例外ではなく、

「あれしてください」「こうしてください」と平然と言うようになる。

さらに、自分の情報に重みをもたせるために、

「あしたは朝から晴れます」と言ったあとに、

「しかし、天気は不安定で急な雨や落雷があるかもしれません」

と、心配のタネを示す。


「オオカミが出たぞ」の心理である。

相手に緊張を与えて、自分の存在感を大きくする。

それは新聞やテレビ、3流雑誌の伝統的な手口。

ハッピー情報は売れ行きがよくなく、

不安、不満、怒りの情報は

労を要さず高めに売れる。

「NPT会議 露の反対で決裂」

「文科省幹部6人懲戒」「安倍国葬に33億円」

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買い手がいるから、売り手が存在できる。

モチベーションの低い人というのは、

とかくハッピーな情報には反応が鈍く、

アンハッピーな情報に反応しがち。

なぜなら、自分の無為無策、低迷ぶりを

他に転嫁して自分をごまかせるから。


NHKテレビの天気予報も、

このアンハッピー商法にうっすらと感染している。

「晴天」が快で、「雨天」が不快という理由はないはずだが、

予報官は、晴天情報のあとに、

雨天や荒天情報をつけ加えたがる。

「関東は晴れますが、東北はお天気が荒れます」

「きょうは洗濯日和ですが、あしたは朝から雨になりそうです」

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さらに、

自分がその場を仕切っていることに自負を持つようになると、

主導権を発揮するようになる。

「午後はと言いますと……」「関東はと言いますと……

お嬢さん予報官が、しばしばこの表現をする。

「溜め表現」(ため)とでもいうか。

間をつくって「もったいぶる」

一種の「上から目線」である。


情報を売る側(受信料の受け手側)は、

もっと謙虚に表現しろよ。

「午後は……」「関東は……」と言えばよろしい。

「午後はと言うと」などと、

解説口調、先生口調はやめたほうがいい。

先生は「なぜ、そうなるかと言うとだね……

なんていう表現が多いのでは?

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さらに進むと、

「あしたの天気を見てみましょう

「来週の天気を見てみましょう

普通に聞いている人も多かろうが、

この「よう」「う」という助動詞、

話し手の意志や推量、誘いを示す語。

「考えてみよう」(意志)

「さぞや痛かろ」(推量)

「お茶にしよう」(誘い)


ここで注目すべきは、「お茶にする」のは親しい仲間。

天気予報官が「天気図を見てみましょう」と言う場合、

視聴者を仲間に引き込む表現となる。

英語の「shall」を使った表現の転用であろう。

かつては、日本語としてはキザな表現だった。

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天気予報図を見ながら

1つの場面を共有しているという点で

仲間意識を持ちたくなるのはわかるが、

情報提供者の謙虚さを保つなら、

「天気図をご覧ください」

「天気図を見てみます」がいい。


今日、「しましょう」表現を

上から目線と感じる人は少なくなっただろうが、

NHKアナウンサーのフリートークを聞いていると、

いつの間にか態度がデカくなっているのがわかる。

ウイークディの深夜に放送される『ラジオ深夜便』では

「アンカー」と呼ばれる、その夜の担当アナウンサーが、

番組冒頭、

「あしたの5時までの放送番組内容をご紹介しましょう」と言う。

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しかし、

金曜日は関西局が担当する「関西発ラジオ深夜便」となって、

このときの担当アナウンサーの多くは

「あす5時までの放送内容をご紹介します」と言う。

この違いに着目している。

番組を制作した者は、

自分たちの企画した番組を聞いてもらう(いただく)のだから、

「ご紹介しましょう」などと、視聴者を誘い込まないで

「ご紹介します」と言ったほうが謙虚だし、知的である。


こんな例と比較してみればわかる。

自宅でお客に手料理を供するとき、

「さあ、いただきましょう」

「ご一緒に食べましょう」などと言ったら教養を疑われる。

ここは「さあ、お召しあがりください」

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このあたりのニュアンスがわからないアナウンサーが

ふえているせいか、

数日前には「あす朝5時までの放送内容を

紹介しておきましょう」ときた。

……しておきましょう」とはなんという尊大さ。

「これでけは言っておくぞ」という威圧的表現とも通じる。

定年を迎えたアンカー・アナウンサーにしてこの程度。

公共放送にかかわっている自負心が

こういう自信を生み出すのだろう。

思いあがりタイプの弱点は、

ちょっとした仕草にも現われる。


謙虚に生きたいと思う人は、

NHK関係者の番組内での発言を

注意して聞くことで、

貴重な反面教材と接することができるだろう。

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# by rocky-road | 2022-08-31 12:31 | NHKテレビ  

なんにもなくてもいい……。

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1人でいるとき、耳の奥でBGMが流れるタイプである。

街を歩いているとき、自転車で走っているとき、

調理や食器洗いをしているときなど、などなど。

耳の奥で、歌詞つきで、いや、歌詞に曲が乗って流れてくる。

もう、80年以上前からのことである。

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昔、東京でも雪がよく積もった。

そんな雪道を歩くとき、かならずと言っていいくらいに、

「♪ 雪の進軍氷をふんで、どれがなにやら道さえ知れず

馬はたおれる捨てても置けず

此処は何処(いずく)ぞ皆敵の国……」と演奏が始まる

この曲、いま調べれば、

明治28年、永井建子という人の作詞・作曲とのこと。

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10歳前後の子供が、

この歌を、どこで、どう覚えたか、

まったく記憶にないが、

雪道では、普通にこの曲が流れてくる。

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ほかにもいろいろある。

過日(8月14日)の「ぶら パルマ」で

日本橋を歩いたときには、

いくつかの曲が流れてきた。

その1つは、『東京の屋根の下』

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「♪東京の屋根の下に住む 

若い僕等は 幸せ者よ

日比谷は恋のプロムナード 

上野は 花のアベック……

(昭和23年 佐伯孝夫作詞 服部良一作曲

唄・灰田勝彦)

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この曲の3番は

「浅草 夢のパラダイス 映画にレビューにブギウギ

なつかし江戸の名残り 神田 日本橋

キャピタル 東京 世界の憧れ 

楽しい夢の東京

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このあたりが流れてきた。

作家の山口 瞳氏は、

そのころ結婚して、狭い1部屋に住んでいた。

「なんにもなくてもいい 口笛吹いてゆこうよ」

というフレーズに泣いたと、

どこかに書いていた。

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戦後の東京を歌った歌は多く、

そこには、銀座、浅草、新宿、神田までは出てくるが、

なぜか、日本橋となると、

『東京ラプソディ』にも『夢淡き東京』にも、

神田までは来ているのに、

あと1駅の日本橋までは足が延びない。

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あえて空想すれば、

『夢淡き東京』の2番、

「♪ 橋にもたれつつ 二人はなにを語る

川の流れにも 嘆きをききたまえ

なつかし岸に聞こえ来る あの音は

むかしの 三味の音か 

遠くに踊る 影ひとつ

川の流れさえ 淡き夢の街 東京 

(昭和22年 サトウ ハチロー作詞 古関祐而作曲 

歌・藤山一郎)

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しかし、三味線の音が聞こえるとなると、

そこは、浅草か築地か。

わが日本橋の出番はない。

日本橋にもたれて川面を見下ろし続けたことはあるが。

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つまり日本橋は、昭和以降においては、

「江戸のなごり」を薄め続け、

かといって、新宿や池袋、浅草のようには若返ることもできず、

むしろ、三越、高島屋、白木屋(東急)などが

集まるデーパート街として、

あるいは証券会社街として今日に至っている。

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しかし、地域というのは、

いったんはさびれることはあっても、

別のカタチで蘇る。

地域経済にとっては深刻な問題であるとしても、

従来の個性を保ちつつ、時代に適応してゆくものである。

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日本を代表する栄養士が

浴衣姿で1日を楽しむことができるということは、

そして、天ぷら屋や、とんかつ屋の前に

若者が行列をつくって順番待ちをしているということは、

江戸のなごりの残り具合はどうであれ、

新世代の人々にとっても、

充分に魅力のある街であることの証明となる。

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そして、人生を楽しむ〝旅派〟としては、

人のことはどうでもよい、

「知らない横丁を曲がってみよう。それが旅です」

(永 六輔)の精神を持ちつづけることであろう。

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さらに作詞家にもひとこと。

なつかしい江戸のイメージを捨てて、

新しい日本橋を歌ってみろよ。

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とはいえ、

そういう風景を歌う作詞家が少なくなった。

「ボク」と「キミ」が多い。

歌の世界にも、スマホ依存症からくる

視野狭窄が始まって久しい。

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しばらくは、

わが脳内BGMは

「♪ なにんもなくてもいい 

「♪ なつかし江戸の名残り 神田 日本橋 

でいくしかない。

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でも、ここで終わると、

「戦後の歌ばかり歌いやがって、

昭和前半生まれの若造が……」

と言われそうなので、

締めはシャキッと江戸時代(?)の歌を。

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これぞお題は「お江戸日本橋」

「♪ お江戸日本橋七つ立ち 

初のぼり 行列そろえてアレワイサノサ

コチャ高輪夜明けて提灯消す

コチャエ コチャエ 

(年代も作者も不明)
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「行列そろえて」とは、参勤交代の行列か。

そして「コチャエ コチャエ」は、

なんとなく関西っぽいが、いいのかな?

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いずれにせよ、

これもまた、わが脳内BGMの1曲である。

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参勤交代時代の歌が

昭和の人間の脳内BGMに入っている。

これが日本の音楽環境の実態である。

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# by rocky-road | 2022-08-18 23:02 | 大橋禄郎