バッグがよろしいようで……。

b0141773_10333427.jpg女性の社会進出を象徴するものに
スカート姿よりパンツ姿が多くなったこと、
「オレ」「ヤベー」など、男コトバを使う人が増えたことなどがあるが、バッグが大きくなったというのも、その1つ。
もうポシェットなどという、財布くらいしか入らない小物は、
やる気のある女性の持ち物ではなくなった。

その昔、日本の兵隊は背嚢(はいのう)という、
一種のバックパックを背負って行軍した。
その中には寝袋にする毛布や食器などが入っていて、数十㎏。
つまり、バッグの大きさは、戦力と無関係ではない。
「玄関を出たら7人の敵があると思え」と格言にあるが、
バッグの大きさは、臨戦態勢を示すものかもしれない。

b0141773_10344393.jpg女性が大きなバッグを持つようになったのは、
それだけ戦闘シーンが増えたということか。
ケイタイがいる、カメラがいる、ホチキスがいる、電子辞書がいる、催涙スプレーがいる、そしてもちろん、化粧道具がいる……。
「さあ、いつでもかかって来い!!!」ということか。

女性のバッグも、ブランドの話よりも、そろそろ機能論に入っていってもいいのではないか。
ダイビングの世界では、ダイビングバッグの詰め方論をずいぶん昔に何度もやった。
ダイビング用品にカメラ機材、そして旅グッズ……。
くつ下は3足はいらない、アロハは日本の海辺には
不適……などと論じた。

そこで、現代バッグ論をいくつか。
1.目的によってA4サイズのバッグが必要。
  たとえば講演会。資料やテキストはA4サイズが多いから。
  外出時に週刊誌や新聞を読む人はB5サイズはほしい。
  知性はバッグの大きさにも表われる。

2.大きなバッグには仕切やポケットが必要。
  中に小さなバッグを入れて仕切るのもよいが、
  それ自体があちこちに浮動するので具合はよくない。
  やっぱり仕切--それも、ゆとりのあるもの。
  いちど、バッグメーカーと話し合ってみたい。

3.風袋(ふうたい)はより軽く、材質は濡れやシワに強いこと。

b0141773_10414980.jpg

4.生活の乱れは、バッグに現われる。
  いつのものとも知れない領収証だの映画の入場半券だの、
  ティッシュの残りビニールだの、楊枝だの、
  そんなのがたまっているとすれば、
  「あなた、お疲れじゃないの?」

5.人前(たとえば車中)でバッグの中をかき回さないこと。
  これって、おばさん、いや、おばあさんに多いみたい。

6.バッグの中身を移し替えるときは、命をかけるくらいに集中して。
  移したつもりのものがなかったときの悔しさ、自責の念!!!
  外出に際しては、前日にバッグの中身チェックを。

  まだまだあるが、いずれまた。
  
[PR]

# by rocky-road | 2009-03-02 10:37  

キミは神風となって、国民の健康を守れ!!!

b0141773_2341094.jpg

高校入学当時、さしあたって入りたい運動部がなかったので、
テニス部に入ったら、その直後の体育祭にテニス部員として出るようにいわれた。

これまでは野球一点張りだったので、
ラケットなどという軟弱な用具(当時はそう思っていた)を持ったことがなく、
握り方さえわからない。
しかもダブルスだという。ダブルスのルールなんて、「聞いてないよ」
いくら「ムリだ!!」と言っても、上級生は受け入れてくれないので、
しぶしぶ出場した。
b0141773_2351661.jpg

結果は悲惨で、とても形にはならず、あっさり敗退した。
負けた悔しさよりも、30分ほどの特訓だけで
人前で競技をされられたことで、大きくプライドが傷ついた。
もちろん、即刻、テニス部は辞め、
以後、野球部、陸上競技部、美術部、写真部など、
自分の好きな部を作ったり再興したりした。

さて、いま、特定健診の流れで、検診結果がよくなかった人に対して
栄養士が、対面および文書で、食事相談をすることになった。
文章による食事相談で苦労している栄養士を見ると、
すぐに、わが人生の汚点、テニス部事件を思い出す。
b0141773_2362532.jpg

食事相談のトレーニングもまともに受けていない栄養士に、
対面はともかく、文章で食事相談をさせるなんて、
テニスのルールも知らず、ラケットの握り方も知らない新人を
試合に投入するようなもので、これは、栄養士にとっても
クライアントにとっても、世界残酷物語以外のなにものでもない。

以前、ある会社で「食生活カウンセラー」を養成し、
企業の健保組合をクライアントとするビジネスにかかわったことがある。
このとき、クライアントに渡す質問項目を作るのに10年かかった。
だれでもマニュアル化を考えるが、すでにあるフレーズを
いくら巧みに組み合わせても、血の通った文章にはならない。
b0141773_2365836.jpg

一時はやった、コピー機を使った手相診断も、
画一的な回答しかないことをクライアントに見破られて、すぐに衰退した。
そういう例を見ていたので、回答は手書きとし、
1件1件、しっかりトレーニングを受けた数十人の栄養士が、
自宅で深夜まで回答文を書いた。
しかしやはり、回答者の力不足で、あまり採算が合わなくなった。

いま、この失敗が繰り返されようとしている。
現在の方法はもっと荒っぽく、
カウンセリンク、文章力、手紙の作法などの、
基本となるスキルアップにあまり時間をかけているようには見えない。
これで食事相談が改善されると思っているとしたら、
こうした一連のプランナーは、よくよく人間学がわかっていない。

しかし、現在進行中の特定健診制度に異議を唱えるのはよそう。
神風特攻隊員に「君の死は、本当に生かされるのか」と問うのは、
残酷すぎる。わずかとはいえ、数回のサポートで
生活習慣を変えようと思うクライアントがゼロであるはずはなく、
やや無謀な突撃命令ではあるが、1ミリ前進を「よし」としよう。

が、サポートがうまくいかず、悩んでいる栄養士には言いたい。
うまくいかないのは、キミの努力不足のためではない。
キミはテニス部にきのう入った新人選手なのだ。

それに、人は、そう簡単には変われない。
「行動変容」は、一定の縛りの中(たとえば病院)にある人には可能でも、
野良犬のように自由自在に動き回る、
働き盛りの人たちにはなかなか通じない。
時間的に急かされ、焦れば焦るほど、獲物は逃げる。

結果を出せないことで悩むくらいなら、
「手紙の書き方」のような実用書を探して、
仕事のためというよりも、自分のコミュニケーション環境の向上のため、
と考えて、親しい人たちと手紙コミュニケーションを楽しんだほうが
結果として、自分の健康、世の中の人の健康に有効だろう。
[PR]

# by rocky-road | 2009-02-19 23:07  

流行語大傷

b0141773_02159.jpg

毎年行なわれている「流行語大賞」の選定と授賞は、
国民の言語感覚を磨くうえで、大きな貢献をしている。
同時に、流行の流行たるゆえん(一過性)を再認識させることでも
貢献するところが大きい。

が、現実には、流行語らしくない流行語というものもある。
NHKが大好きな「立件を視野に捜査を進めている」
「注目を集めている」「成り行き不透明」、
「警察官が駆けつける」なども、
やや長めの流行表現である。
観察していたら、すぐに民放にも伝染して、
最近は民放の取材記者たちも頻発するようになった。
b0141773_0224680.jpg

マスメディアが自作の流行語を使う場合、
一見、正当な表現のように見えるから、
潜伏的に蔓延することが多い。
かつては、「言ってみれば」が大流行したし、
もっと遡ると、「突然の事故に近所の人は目をこすりこすり」というのがあった。
さらに遡れば、「紅蓮(ぐれん)の炎はあたり一体をなめ尽くし……」という、
火事の記事の定番があった。

記者は、短い時間に記事を書かなければならないから、
つい、だれかの使い古しに飛びつく。一種の思考停止状態である。
「立件を視野に」とまで言ったのなら「(視野に)入れて」を省くな。
「注目」はわざわざ集めなくたって、「注目されている」で充分。
「成り行き不透明」って、別に壁があるわけではなし、
未来を見通せなくて、それでもプロか。
未来は視覚で見るものではなく、知恵で見るものと、昔から相場が決まっている。
予測能力が及ばないときは、視覚(不透明)のせいにしないで、
素直に「予測しにくい」「予測不能」と言いなさい。
ちなみに、ひと昔前には「予断を許さない」がはやった。
b0141773_0241033.jpg

それにしても、警察官が〝駆けつける〟姿とか、
夜中に近所で事件があったとき、
〝目をこすりこす〟家から出てくる人を見かける確率は、どの程度のものだろう。
少なくとも、記者は絶対に見てはいないはずである。
以前、北海道だったか、お巡りさんが太っていては容疑者をつかまえられないと、
ウエートコントロール命令が出た、との新聞記事を読んだが……。

健康支援の世界にも、ちゃんと流行語はあって、
このブログでも、それとなく話題にした。
それはつまり、
「食の欧米化」「生活習慣病の急増」「自給率が世界でもまれなほど低い」
「粗食のすすめ」「食の安心・安全」などである。
流行語のご他聞にもれず、これらの表現の真偽のほどは定かでない。

気になるのは、健康支援界の流行語は、
はやりの期間が長すぎるということ。
「食の欧米化」なんて、もう30年も流行している。
30年もはやっていて、流行語っていえるか。

それはたぶん、この世界の時間が
ゆったりと流れているからだろう。
それはネズミの時間ではなく、ゾウかクジラの時間なのかもしれない。
無風状態は、進歩が遅いアカシなのかもしれない。
[PR]

# by rocky-road | 2009-02-14 00:24  

集合写真、最近撮りましたか。

b0141773_1241663.jpg

上の写真は、1月のロッコム文章・編集塾、遠距離クラスの人たちの
ランチタイムのときのものである。撮影は影山 なお子さん。

「集合写真」の定義はむずかしいが、
ユーミンが歌うところの♪「卒業写真」♪、
つまり直立不動型がスタンダードであって、
以下のような定義が可能なのではないだろうか。
「3~4人以上の人が一定の場所に集まり、カメラに目線を向ける、
記念とすることを目的とした写真」
ちなみに、2人の場合は、近年、はやりの和製英語の「ツーショット」
(厳密には男女だが)、1人の場合はポートレート(肖像写真)と呼ぶ。
何人写っていても、撮られるほうがカメラ目線でないと集合写真とはいえない。
それはスナップ写真に近づく。
b0141773_1251147.jpg

デジカメは、集合写真の撮影範囲を画期的に変え、
その表現技法に多様性をもたらした。
冒頭の写真でいえば、コンパクトカメラながら、
レストランのテーブルに着席している人たちを
ストロボを使うことなく、1画面に収めてしまうのである。

カメラには「被写界深度」(ひしゃかいしんど)という光学的な原理がある。
ピントの合う範囲は、狙った被写体の前後、数ミリから数十センチに限定されるが、
デジカメ(おもにコンパクト型)では、その範囲が、
フィルムカメラに比べて飛躍的に広くなる。
そのうえ、暗さにも強いので、ストロボはほとんど使わなくてもよく、
遠くの人にはストロボ光が届かない、というようなこともない。
b0141773_126325.jpg

そのことがわかっていると、いろいろの集合写真が撮れる。
従来、集合写真というと、いわゆる「ダークダックス」風に、
(昔の男性コーラスグループ)
重なるように横並びして撮るものと決まっていたが、
いまは、被写体グループは、もっと自由にポジションやポーズを選ぶことができる。
そんな例をいくつかご紹介しておこう。

写真を撮らない人も、撮られ方は学習しておいたほうがよさそうだ。
そのポイントは、
①ダークダックスにこだわらない。座る、立つなど、前後にも並んで変化をつける。
②人の肩の間から顔を出すとか、前の人は中腰になるとかといった、
 前世紀のポーズはとらない。三々五々、好きなようにポーズする。
 人と人との間隔をあける。
③カメラマンも、卒業写真的配置のワンパターンにならないように注意する。
④かならず目をつぶる人がいるので、少なくとも3枚は撮る。
 それでも目をつぶる人はいる。何回か経験したら、
 その人には次の声かけをする。
 「◎○さん、目をつぶって!!」……「ハイ あけて」  (パチリ)
b0141773_1272614.jpg

いつ、だれと、人生のある空間を共有したか、
その証拠写真に、もっと個性を出せないものか。
[PR]

# by rocky-road | 2009-02-06 01:28  

安心・安全な健康情報とは

b0141773_23304365.jpg
世界的な不況に関連して、
内外の著名な経済学者の見解をテレビで聞く機会が増えた。
それはうれしいが、「資本主義の弱点が露呈した」「経済にもルールが必要」
「派遣社員のシステムは問題」「経営者に倫理観が問われる」
「哲学が求められる」といったコメントを聞いていると、
「専門家にして、それかよ」と失望せざるを得ない。
ウソでもいいから、「私は20年前から警告していた」くらいのことをいってほしい。

紙幣の時代とは、価値がバーチャル化(虚構化)することであろう。
そのくらいのことは、素人にもわかる。
お金を、いまさらながら定義すれば「労働力の約束手形」ということだろう。
バーチャルなゲームがどのような展開になるか、
いちども実のある警告を発しなかった経済学者に、
経済を語る資格があるのか、と素人としては思う。
b0141773_23312894.jpg

この一件でわかることは、学者というのは、過去を見る人であって、
未来を見ることが得意でない職種だ、ということである。
未来学者もまたしかり。
洞察力や人間の生理・心理の理解力に「かなり難あり」ということである。
未来は、人間の生理と心にある……のでしょ?

これを他山の石として、
食や健康を論ずる専門家は、
日本人の健康をどう維持、発展させるべきかを、まじめに考えたほうがいい。
「食の洋風化が進む結果、生活習慣病が急増し」
「食の安心安全が脅かされ」
「食糧自給率の低さをなんとかせねばならぬ」などと
流行フレーズを、脈絡もなく、毎度くり返しているうちに、
日本はますます世界の健康超先進国となり、
ますます憂えることがなくなってしまうだろう。
b0141773_23321179.jpg

いまや日本は、健康管理において、世界のリーダーである。
リーダーには、リーダーの自覚と理念、そして風格が求められる。
悲観論や「オオカミがでたぁ」の脅しからは実りは生まれにくい。

などといっても、そうしたエセ オピニオンリーダーは、
思考力に欠けるから、自分の哲学を持つ可能性はゼロに近い。
そこで、健康支援者としての最良の選択は、
上記のような発言をするリーダーは、二流以下だから、
そういう人の論説を不用意に引用しないことである。
二流を除外し、安心・安全を期するには、
よく表示を見て、「日本人の食生活は欧米化している」
「生活習慣病が急増している」という字句があったら、
それは買い控えることである。

食の安心・安全を説く以上、
自分自身も、安心・安全な「健康・食行動理論」を購入しなければならないし、
自分自身も、危ない情報の発信者にならないように注意しなければならない。

ちなみに、現在の日本は、ご飯食をベースに、
ときにインド化し、ときに中国化し、ときに韓国化し、
ときにタイ化し、ときに洋風化している、
つまりはグローバル化している。
地産地消運動には敬意を表するが、
それでも、食のグローバル化は、
依然として、日本人の健康をますます助長している、
それが現実である。
[PR]

# by rocky-road | 2009-01-31 23:32  

しあわせ色は何色?

b0141773_23144614.jpg
年に2~3回、大学の2部(夜間)の講義を受け持っている。
午後8時10分前が始業。
外はしんしんと冷えるが、教室内は暖房が十二分で、
上着を着ていては暑いくらい。
なのに、ダウンのジャケットを着たまま受講する学生が何人かいる。
その3人とも、なぜか最後列の席についている。

講義に集中する表情はなく、どこか、うつろ。
「暑くないの?」と聞くと無表情に首を振る。
寒暖の感じ方は個人の自由だから、それ以上の干渉はやめた。
が、なぜか森 昌子が歌う、荒木 とよひさ作詞のあの曲が浮かんだ。
「♪ あなた泣いてくれますか 寒い こころ 寒い 悲しみ本線日本海 ♪」
b0141773_23153115.jpg

そうだ、心が寒いのだ。最後列にいると、講義への集中力が散漫になり、
からたの活性度が低くなる。まさしく心が寒い状態である。
ふと気がつけば、彼らのウエアは、なぜか国防色……失礼、オリーブ色である。
戦時中だったら国民服だから、ここは大いに志気があがっただろうが、
いまは平時。こんなけだるい時代にオリーブ色はいけない。
色彩心理学の問題というよりも、あまりにも同系色で類型が多すぎる。
つまり環境に埋没する色として働くということなのだろう。

交差点で信号待ちをしているとき、対岸の人たちの服装を見ていると、
なんと暗い色が多いのだろう、と思う。昔は、フランス人がシックだといって、
地味な色に憧れた日本人も多かったが、いま見ると、
それもまた、一種の「ドブネズミ色」ではないかと思う。
その心理は、「みんなと同じに」、言い換えれば「目立たないように」ということ。
教室で、うしろのほうに席を取る学生の心理と、そうは変わらない。
ベージュ、オリーブ、グレー、茶などは、現在の日本では埋没色として働くことが多い。
これらの色を好む人にとっては、大きなお世話だが、
生物的な適応力を強化する気なら、どこかに強い色のアクセントをおいたほうが、
社会進出を考える人にとっては有利ではないか。
b0141773_2316192.jpg

たとえばパルマローザの栄養士さんたちの中には、
着ることに関心を高めている人が多いと聞くが、
これは単なる流行やおしゃれ感覚の問題ではない。
衣服は、個人がもっとも関与できる環境であり、
その環境は、他者にメッセージを発信する前に、
自分自身に強いメッセージを発信する。
気に入った服を見つける、選ぶ、購入する……
そうした一連のアクションが自分の環境をつくっていく。
衣服に気をつかうようになったら、
家族や同僚、上役とのコミュニケーションがよくなった、という人が多いが、
それは、こちらのメッセージが相手に伝わったということはもちろん、
それ以前に、自分の内的環境がよくなったからである。

映画『マイフェアレディ』の中のオードリー・ヘップバーンのように、
知らず知らずのうちに、プライドや品格のある人間として
ふるまうようになっていくからである。
家庭や職場の中には社会がある、
とすれば、栄養士の社会進出は、
こんなところからも始まっている、と見ていいだろう。
[PR]

# by rocky-road | 2009-01-25 23:15  

ブログに書くもの、ブログでかくもの。

b0141773_2314337.jpg
水中写真の初心者から、以前よく聞かれたことは、
新しくカメラ(ニコノスという水中カメラ 写真)を買うに当たって、
レンズはどういうものがよいか、という問題。
このカメラには、ズームレンズがなく、
35ミリ、28ミリ、20ミリ、15ミリといったレンズを別個に買う必要があった。
レンズの「ミリ」の話は、ここでは数字が小さいほど視野が広く写る、
という程度の説明にとどめておこう。
要は、予算的にいくつも買えないので、どれか1つに絞るとしたら、
どれがよいか、という質問である。

「なにを撮りたいの?」と聞く。これは自発性の促しだ。
が、この問いかけは適当ではないことを、やがて知る。
なぜなら、ダイビング歴、写真歴の少ない人が、なにを撮りたいか、
なんてこと、わかるはずもない。
とりあえず、目にするものを片っ端から撮ってみる、というのが普通である。
やがてこちらも学習して、「よく行く海はどこ?」あるいは「今度行く海はどこ?」
と聞くようになる。アドバイザーとしては、ワンランクアップである。
日本列島の海へ行く人なら35ミリか28ミリ、サンゴ礁の海に行くなら20ミリか
15ミリ、などというふうに、とりあえずの方向が定まる。
b0141773_23144942.jpg

時代は変わっても、歴史は繰り返す。
「ブログを始めたいんですけれど、コツはなんですか」
パソコン歴わずかに5年の私に、こんな質問をしてくる人が多い。
「で、どんな情報を発信したいんですか」とは、めったに聞かない。
(それをいっちゃったら、あんた、いったい、なにを教わってきたの、でしょう?)
現実は、そこにパソコンがあり、なにかをせねばならぬ、と
神が命じたのである。

「自己実現」を人間の高位の欲求としたアブラハム・マズローは言った、
「人は、したいと思ったことをせねばならぬ」と。
だから、パソコンが目の前にあって、なにかせねばと、神が促した以上、
「敵は幾万ありとても」、使命を持って、行かねばならぬ。
どこへ行こうが、そこんとこは、神に任せておけ。
b0141773_23163796.jpg

精一杯の私の使命は、神に任せた段階で終わる。
「1回目のブログを拝見して、アドバイスをしましょう」などと
思っただけでも天罰が下る。
だって、水中カメラ入門者と一緒に、アンタは地球の果てまで、
一度でも行ったことある? でしょ? だったら、アンタの仕事はそこまで!!!」
ブログが編集だ、ということを知らない人に、なんかいっちゃダメ。
それは本当の親切っていうもんじゃない。

「編集」を、私はこう定義する。
「情報を集めたり、複合したり、添削したりして、別個の情報体を創造すること」
日記を書くこと、ファイルを作ること、好きな音楽メディアを作ること、
それが編集である。編集は、新しい価値を生み出すことでもある。
平凡な人の平凡な日常の記録にも編集作業がある。
24時間を数十行の文章にまとめる、それ自体が編集である。

それにいかほどの価値があるかは、本人が決めること。
売れる雑誌と、売れない雑誌とがあるように、
売れる日常と、売れない日常とがある。
読み手の心理、読み手のニーズをどの程度把握しているか、
それが編集力の出発点だ。そこから取材が始まる。
b0141773_23173042.jpg

が、そもそもブログの目的は、すべて「情報発信」なのか。
それ以前に、自分とのコミュニケーションという段階がある。
耳のうぶ毛を気にする、目の縁のシミをいじる、独り言をいう、
肥満を気にして食べたものを吐き出す、下剤を使って下から出す、
それは生理的、心理的ストレス緩和法。
だったら、人が四の五のいうことではない。

もっとも、普通、そういうことは、1人でそっと行なうが、
パソコンが目の前にあると、内的な行為を公開してみたくなる。
従来の日記をつけている人は、私的な日記と、
公的なブログとの違いを学習し、情報発信先を見定めるだろう。
「ダイレクトブログ」の人の場合、
書けば書くほど、恥をかく危険も大きい。
が、幸い、恥のレベルは人それぞれ、
いま、このブログを恥ずかしく思わず書き進めるロッキーのように、
み~んな、面の皮が厚くなったのだ。
小心日本人の進化、と思うことにしておこうか。
[PR]

# by rocky-road | 2009-01-15 23:17  

「食」の夜明け前

b0141773_22344868.jpg
                     2009年1月1日神奈川県葉山

JR赤羽駅近くの古本屋で、『栄養と料理』のバックナンバーを見つけた。
ちらっと視界に入った『栄養と料理』の表紙を一見して、
自分の編集長時代のものとわかった。
1980年3月号、「中古 成人向」のラベルが貼ってあって、
定価は100円。このまま捨て置けないと反射的に思ってレジに持っていったら、
おばさんが「古いから50円にしておきましょう」と、50パーセントオフにしてくれた。
ちなみに当時の定価は500円。28年前の雑誌との再会だった(昨年末時点で)。
b0141773_22483596.jpg

自分の作った雑誌や自分の著書を、
だれかが図書館や電車の中で開いているのを見たことは何度かある。
が、古本屋で見つけることは多くはない。
たぶん、見つけたくないから、無意識的に目をそらしているのだろう。
が、今度は逃げも隠れもできない。真っ正面から目に入ってしまった。
1980年といえば、私が1回目の編集長になった年の翌年。
4月の異動以後、翌年度の企画を始めるので、その年の12月9日に新年号が出る。
古本屋の1冊は、したがって、大橋編集の3号目ということになる。
ピッチャーでいえば、まだ肩ができていなくて、球威が充分とはいえない。

特集は、「ミスとミセスへ やせるための四週間献立カレンダー」
第2特集は「痔と食事 痔は食事で改善できる」
私が力を入れた「研究の前線シリーズ」は「食物によるアレルギー」
まだウオームアップができてはいない、とはいったが、
だいたい私の球筋はできあがっていた、といっていいだろう。
b0141773_22491196.jpg

これを影山 なお子さんにお見せしたら、妙な記事を見つけられた。
見開き2ページの「体重コントロール」というQ&Aページ。
ここに、18歳の女性からの、こんな質問があった。
無理な食事制限をしたためか、血圧が低くなり、胃が弱り、生理も止まった。
自分が情けない、指導してください、という相談である。
これに著名な学者が答えているのだが、その書き出しが
「全く困ったことをなさったものです」である。
影山さんは、鬼の首をとったかのように喜んで(かどうかはわからないが)、
講師を務める専門学校や、いくつかの講演会で、昔の食事相談の1例として紹介し
ているという。のっけの「全く困ったことをなさったものです」というところから、
どっと笑いが起こるという。

自発性を重んじる行動療法や食コーチングを学んだ人は、
この決めつけ型の書き出しに笑いをこらえきれない。
自動車を知った人が、お猿の駕籠屋を笑うのと同じパターンである。
行動療法や食コーチングの以前と以後とでは、
食事相談のカタチがまったく変わった。
だから、私に責任を問われても困る。
法学に「事後法」という概念があって、あとからできた法律で、
それ以前の罪を裁くことはできない、という原則があるという。
……などと、ここでは自己弁護をするのが目的ではなく、
要は、「健康サポート」という世界の夜が、いま明けようとしている、ということを強調したい。
b0141773_22524944.jpg

しかし、現在のわれわれの食の情報環境は、多くの点で夜明け前である。
大手新聞が、食の問題を継続的にとりあげているのはよいが、
しめくくりに登場するコメンテーターのほとんどが、現状を憂いて落着する。
「飽食の時代が続いている」「ファストフードは問題」「一汁三菜が崩れつつある」
「食事量の基準がない」
そしてしまいには、「食糧自給率が低い」「食品のメーカーや流通に道義がない」
と、栄養的な問題とはあまり関係ない話にまで話を広げて煙幕を張る。
どうすればよいか、という結論がない。これがコメントといえるのか。

世界一の長寿国ともなると、日本を代表する識者も論ずべきテーマを失う。
自分にアイディアがない人は、それでも自分の存在感を示すために
悲観論を展開する。楽観より、悲観のほうが、素人目にはカッコイイから。

あと10年、いや、あと5年もすると、テレビや新聞、雑誌で
日本人の食事論を論じた人は、間違いなく笑われるだろう。
いやすでに、食コーチングを学んだ人たちは、着地点のない論者の論法を笑う。
テレビや新聞の企画立案者には、『栄養と料理』の元編集長が
自分の編集した雑誌の2ページが笑いのタネになっているいきさつを
なんらかの方法で伝えてやりたい。
一方、栄養士をはじめ、健康サポーターにとっては、ビジョンを固めるチャンスであ
り、それは社会的地位を確保するチャンスにつながる。
著名な学者、論者、斯界の先輩や上長に、「いま」を語る論点はない、
今年は、それを認めることからスタートしたらどうだろう。
[PR]

# by rocky-road | 2009-01-05 22:43  

今年って、どんな年?

b0141773_2334357.jpg
わがロッコム文章・編集塾の今年の講義は
12月27日のクラスで授業を終了した。
年末の勉強日には、みなさんに1年の振り返りをしてもらうのが恒例になった。
今年、新しいことを始めた人たち(食コーチング研修、当塾入塾、英会話レッスンな
ど)は、もちろんそのことを今年のニュースとしてあげた。
雑誌に記事を書いた人、著書を出版した人、結婚した人、
結婚が間近い人、転職した人……など、
みなさん、明るい表情で語った。
共通しているのは、「人とのよい出会いがあった」という点だった。
b0141773_23351628.jpg

自分の1年をふり返って語ることは、
365日間のいろいろの体験や見聞を記号化することである。
日記は、文章力を高める効果以前に、
雑多な日々の中からポイントとなることを摘出して記録する、
いわば編集力強化にも役に立つ、と話しているが、
1年という単位においても同じことがいえるだろう。
b0141773_2336566.jpg
                     岡山県から通塾している大和悦子さん(上野アメ横で)

自分の体験を人前でコトバにすると、よい点が抽出され、強化される。
みなさんの表情が輝くのは、そのせいだろう。
反対に、家族との死別のようにアンハッピーなことは、
コトバにすることで悲しみ情報が一般化され、一種の風化作用が起こる。
悲しいとき、うれしいとき、泣いたりするのも、生理的であるとともに、
記号化であり、情報の発信である。そのあと、少し安堵がくる。
b0141773_23372676.jpg

こうして1年をふり返る機会のない人は、
日記の最終ページに「まとめ欄」をつくって記入してはいかが?
そうすれば、新年には「今年の抱負欄」を作りたくもなるだろう。

少し話が変わるが、花粉症の治療がきっかけで通い始めてから20年以上なる医院
で、今年最後の薬をもらってきた。例によっての3分診療だが、
医師の声かけは、いつも「どうですか」……
そしてほとんどこちらの回答を待たない。
そこで、問いかけるのは、なぜか私。
今回は、「今年1年、先生にとってどういう年でしたか」

さすがに、医院を出てから1人で苦笑してした。
私にとって、問いかけは、ビジネススキルではなく、完全に地なんだ、と。
「『どこも行けなかったかなぁ』っていうことは、
あらかじめ行きたいところがあったのですか」
などと、先生に次の質問をしなかった自分を、ちょっぴりほめてやりたい。
[PR]

# by rocky-road | 2008-12-29 23:37  

オバサマよ、「チェンジ!!」

b0141773_14193775.jpg
朝日新聞名古屋版にある
「ナゴヤマル」という投書欄に
56歳の管理栄養士が投稿をしている。
その記事を知人が送ってくれた。

「派遣労働者の使い捨て問題」は、
ニュースの中での話と思っていたら、
自分自身がくびになった、という嘆きである。


b0141773_1420319.jpg
「ある診療所で栄養指導の仕事をしていましたが
先日突然、『指導が厳しいから、もう来なくていい』と
言われてしまいました。
 私の仕事は禁酒、禁煙や食べ物の好みなど、
生活習慣を変えることでの治療なので、
指導を受ける方にはつらいことと思います。
 しかも対象となる方は、年齢的には
企業の幹部クラスの男性が多く、
仕事が大変なうえにそんな細かいことで
注意されるのかと、いうことなのでしょう。
 酒もだばこもお好きなだけどうぞとは
言えないし。私も因果な仕事を選んだものです。
しばし充電です」

この記事を読んで、栄養士のイメージや
社会的地位のアップにブレーキを
かけなければいいが、と案じてしまう。
相手にいやがられるほどの「指導」をしておいて、
自分が辞めさせられたのは、派遣労働者のケースと同じ、
と考えているこのノーテンキぶり。
クライアントの事情や意向、自発性などは眼中にないらしい。
b0141773_1421418.jpg

さらに、栄養士の仕事とは、酒やたばこを禁止することだと
心底から考えているようにも読める。
栄養士が「因果な仕事」なのではなくて、
アンタの強圧的でお粗末な「栄養指導」スキルに
天の罰が当たったのだと、
なぜに思えぬ、そのはかなさよ。 ♪

因果とは、因果応報、
意味の1つは、悪業(あくごう)の報いとして
不幸がやってくる、という教え。
災いがご本人に及ぶの仕方がないが、
その診療所や、「指導」を受けた幹部クラスの人たちに、
「栄養士トラウマ」や「栄養士アレルギー」を残しそうだし、
多くのセンスのよい栄養士の足を引っ張ること必定。
自分の思考やスキルに微塵の疑いもないから、
こんな恥ずかしい投稿ができるのだろう。
b0141773_14224683.jpg

どうやら特定健診は、
このテの「ノーテンキ栄養士」を
勢いづかせているような気がする。
このところ「行動変容」だの「介入」だのと
口走る栄養士によく出会うが、
そういうタイプの行きつく一例が
この56歳ノーテンキ栄養士なのではないか。

国家的施策が始まると
小躍りするヤカラが出現するのは
今も昔も変わらない。
戦時中、「ほしがりません勝つまでは!」
というキャンペーンが始まると、
人の着ているもの、へアスタイルにまで
イチャモンをつけるヤカラ、
空襲で「灯火管制」(とうかかんせい=電灯を消して
敵機の標的になるのを防ぐ)を強いられると、
町内のおせっかいなヤカラが、
人の家の明かりが漏れていると
怒鳴り回るなどなど。

「行動変容」とわめく栄養士を見ると、
なぜか「おい、そこの魚屋、明かりが漏れてるぞ!」
と叫ぶお調子モンを思い出す。
だがしかし、権力をカサにモノを言う奴は
「奢る(おごる)平家は久しからず」
の轍を踏むことになるだろう。

因果な仕事を選んだ56歳栄養士さんに
再生のチャンスはあるのか。
この際、受講料を私が負担して、
食コーチングの研修を受けさせてみたい。
これで再生できれば、
食コーチングの真価が証明されるだろうし、
なによりも、彼女に出直しのチャンスが生まれる。

それとも、経験や年齢は「チェンジ」を阻むのか。
アメリカ次期大統領・オバマさんに
オバサマに向けて一席ぶってもらいたい
「チェンジ!!!」と。

それでもダメなら、
「因果な仕事」は捨てて、
派遣労働者として出直すときかもしれない。
[PR]

# by rocky-road | 2008-12-23 14:22