耳で見る、倉敷

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岡山での講演後、少し時間をつくって、
地元の人に案内をしていただき、
市内で行なわれていた「うらじゃ踊り」と、
倉敷見物をしてきた。

「うらじゃ」とは、「鬼だぁ!」という意味の方言とのこと。
各地の夏祭りのつきものとなりつつある、
よさこい型の踊りである。
アップテンポの民謡(?)とチームごとの衣装が特徴。
そして踊り手は若者から少年・少女まで。

夜中まで踊り続ける、エキサイティングな祭だが、
踊り手が進行方向ではなく、
見物人のほうに向いて踊る、
という方式に温かさを感じた。
観客も音楽に合わせて手拍子を打つ。
ローカルな風景というべきか、
祭の先進的なスタイルというべきか、
教えられることが多かった。
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倉敷では、
たまたま写真を撮らせてもらった男性の話術に、
無抵抗に引きづられた。
町並み研究所のようなものを
考えているという人なのだが、
「あのお店は何屋さんかご存じですか」
「伊豆の松崎は知っていますか」と、
まずは問いかける。

ザルや熊手を売っている店なので、
「荒物屋さんでしょ?」と答えると、
「そう。それを知っている人は少ない。
若い人は雑貨屋さん、さらに若い人は
ホームセンターといいます」

問いかけコミュニケーションの威力を
再認識させられるガイドぶりであった。
けっしてガイドを頼んだわけではなく、
むしろ急いで写真を撮って、
帰りの新幹線に間に合う見込みだった。
が、この「行きづりガイド」から離れられなくなり、
2筋分の道を一緒に歩くことになった。

その土地の知識だけではなく、
各地の古い街並みについての知識、
倉敷を訪れる人の県民性など、
矢継ぎ早に話題が続く。
それはそれは、ただ者ではない見識なのだが、
適度に問いかけてくるので、会話が成立し、
けっして知識を押しつけられているとは感じない。

コミュニケーションの達人は、
どこにでもいるものである。
私の倉敷初体験は、
「問いかけコミュニケーションの街」と
いう印象を残しそうだ

# by rocky-road | 2008-08-08 08:06  

テールライト(尾灯)で前方を照らす。

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岡山県栄養士会のお招きで、
同栄養士会「生涯学習研修会」の1コマを担当させていただいた(8月3日)。
演題は、「栄養士のQOLを高める表現力  ≪文章力・写真力を中心に≫ 」

地域の栄養士会がこういう企画をすることは
栄養士の社会的進出への意欲の一端を示すものであろう。

『栄養と料理』編集長時代、「栄養士のための講演術入門」
という企画を提案したことがあったが、
上層部との会議の席で
「まだ早い」と却下させられたことを思い出した。
それからおよそ25年。

時代の流れを早いと感ずるよりも、
むしろ時代は「大河のようにゆったりと流れる」と
感じることが多い私にとって
25年後に関連テーマの再現を見たとしても、
さほど驚くことでもないが、それでも
「ようやくそんな時代がきた」という感慨はある。

もっとも、時代背景は異なっていて、
いまは、特定保健健診に見られるように、
「未病」の人をサポートするとなると、
「治療」とか「予防」とかというキーワードにあまりインパクトがないため、
「心身の健康」とか「人生」「幸福」「自己実現」とかの
抽象語の使用頻度が増えてくる。

「たんぱく質は1日に70グラム」「一汁三菜」といった、
数値化できる概念ばかりでは、
人のモチべーションを高め続けることはむずかしい、
ということだろう。

健康、人生、幸福などは、
「いま」よりも、もう少し先の方向でピントが合うコトバである。
これらの概念は、目で見たり、手で触れたりすることができない、
つまり、コトバがあってこそ存在する情報群である。

栄養士が文章表現力、つまりはコトバ表現力を学ぶということは、
人を後押ししながら、車のテールランプによって、
なんとかその人の半歩先の足元を、
うっすらと照らしてあげるようなものである。

この研修会の進行をしてくださった
冨田加代子氏(岡山県立大学保健福祉学部 栄養学科准教授)が、
まとめのごあいさつの中で、
「岡山からも情報発信をしていきたい」と述べておられたことが
印象に残った。
この着眼点もまた、将来的に、クライアントの半歩先の足元を
照らすことになるのだろう。
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# by rocky-road | 2008-08-05 01:14  

ゾウは鼻が長い。

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栄養士を対象とする講演会やセミナーで、
どんなテーマのときにも、
栄養士の社会進出を促す要素を入れることが多い。
「社会進出」にもいろいろあるが、
肩書きや経済的豊かさ、名声などをイメージしてのことではない。
栄養士の資質をがもっと社会に反映されるように
アクションを起こしてほしいと思ってのことである。

「在宅栄養士」というコトバが、
いまも使われているのかどうか、
全国的な事情はわからないが、
「在宅文学士」や「在宅経済学士」などといったら
世間の人は笑うだろう。
資格の有無よりも、いま、または将来、
なにをし、なにをしようとしているのか、
それが問題であろう。

社会への貢献という点では、
たとえば「食事バランスガイド」のような、
実効性のないシステムが流布するのを
止めることができなかった責任の一端は、
やはり栄養士の怠慢にある。

「ゾウは鼻が長い」という構文を知っていると
「キリンは首が長い」という文章も作れる。
しかし、モモンガという動物を知らないと、
鼻が長いのか、首が長いのか、
なにと比べたらよいのかさえ、わからず、
文章そのもを組み立てられない。

日々の食事をメニュー単位で管理しようというのは、
「ゾウは鼻が長い」というような構文を覚えれば、
モモンガのことも、フンコロガシこともわかる、
といっているようなものである。
単語(食事の場合は食材)を知らなければ、
食事の体系は整わない。
できあいのものしか選べないというのは、
なんとも窮屈な発想である。

人はとかく、自分の専門を他人にやさしく教えようとするとき、
相手の理解力を過小評価する。
年は若く、人生経験も不十分で、
知力も低めに見積もる。
レベルの低い者に合わせることも、
登山などでは必要だが、
人々の意識を高めようとするとき、
無気力、怠惰、思考力不足の者に合わせるようとすると、
周辺の者にバカが移る。
幸い、そこまでのバカは実存せず、
それは関係者の空想が生み出した
バーチャルリアリティである。

「食事バランスガイド」は、1人暮らしの男性をイメージした、
と開発者の1人が講演会で語っていたが、
自分で食材を買わない人をイメージしたのでは、
日本人のあらゆる階層に末永く活用してもらうわけにはいかない。
関連官庁は、例の「1日30食品」の失敗を繰返したことになる。

このケースは、ひとりの栄養士だけの問題ではないが、
世間知らず、人間知らず、情報発信の原則知らずの食関係者が、
少なからずかかわっていたはずである。
膨大な国家予算を使いながら、
たぶんこれは普及することはない。

栄養士の社会進出とは、
こうした国家的なヘルスプロモーションにかかわり、
継続的に国民の健康向上にかかわること、
それも1つのカタチである。
栄養士は「栄養士」によって自分を縛ってはいけない。
もっと先の先まで見通すアタマを鍛えよう。
 

# by rocky-road | 2008-07-25 15:45  

アロハ、着るか着られるか。

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梅雨が明けて、アロハシャツの季節である。
各地でハワイアンフェスティバルもおこなわれる。
が、本当のところをいうと、
アロハは日本の真夏には向かない。
Tシャツの上にレーヨン生地のシャツを羽織るには、
高温多湿すぎる。

アロハ通は、アロハは素肌に着るべきで、
下にTシャツを着るなんぞは邪道である、という。
ハワイを中心に考えれば、そうもいえるが、
風通しがよいとはいえないレーヨン生地が
汗でぬれる背中にベタリとくっつく不快感は
ヒートアイランドの都会に住む者にしかわかるまい。
ハワイが「常夏の島」なら、
近年の日本の大都市は「常(とこ)炎熱の島」である。
とても「アロハ!」などと涼しくあいさつをしている場合ではない。

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アロハ歴30余年、
日本のビーチおよび東京のアロハ通にいわせれば、
アロハを着るのは東京なら4月下旬くらいから梅雨明けまで。
北海道はいざ知らず、真夏のビーチは、
けっしてアロハの世界ではない。

が、対策はある。
薄地のポリエステルのアロハを見つけることである。
もちろん、そのようなものを見つけるのは、
ビーチに落としたコンタクトレンズを
見つけるほどにむずかしい。
素材に加えて、デザインのレベルも問わなければならない。

例によって例のごとしで、日本のアパレルメーカーは、
故郷に帰ったお父さんが、
西瓜割りのときに着るホームウエアくらいの後追いイメージしか描かない。
アロハの素材はレーヨンというのは固定観念だし、
ハワイ流こそ本道と考えるのも、
衣服の地域性との関係で考えれば偏見である。
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もともとアロハは、ハワイに渡った日本人が
和服地で作ったのがルーツだというから、
それだったら、レーヨンだって邪道である。
しかし、森羅万象、どこから発祥しようが、
それが別の地に根付くときは、
その土地なりの解釈が加わる。
それが文化の柔軟性であり、創造性である。

とはいえ、アロハ地に麻を混紡させたりする
このところの日本流にはついていけない。
アロハを着たことがないド素人の発想である。
洗濯したとき、このクソ暑い季節に、
だれがアイロンをかけるというのか。
「自分でやる」と断言する男は、希望的観測をしても1割だろう。
男の妻依存体質からの脱却は、衣服の管理から始めねばならぬ!!

ときあたかも、横浜でもハワイアンフェスティバル。
ポリ(エステル)のアロハをバッグに2~3着丸めこんで、
乗り込んでやろうか。シワひとつできるもんじゃない。
これが、アクティブで自立を志向する男の
服装ライフというものである。
写真
上 ピンクのアロハ 沖縄
中 去年のフェスティバルで ポリ地 ややアロハ柄から離脱
下 綿生地のアロハ 文章編集塾・塾生のみなさんと

# by rocky-road | 2008-07-22 11:19  

食事相談に「ヘタうま」はない。

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妻の知人が絵手紙をやっていて、
ときどき作品を持ってきては批評してほしいという。
筆軸の先端を持って、ヨロヨロとした筆致で書く流派である。
きちんとした字で書くと師匠に叱られるという。
「ヘタでいい、ヘタがいい」をキャッチフレーズにする例の手法。

特異な筆の持ち方ゆえに自由がきかない、当然ヘタになる。
絵や書にコンプレックスがある人にとって、「ヘタでいい」は、
どれほどモチベーションアップにつながることか。
今日の絵手紙ブームは、
このキャッチフレーズから始まったといっていい。

それは承知しているが、
「ヘタがいい」といわれると、首をひねらざるを得ない。
「ヘタでいい」と自分を慰めるのは可愛いが、
「ヘタがいい」と開き直られると、
「ナヌ?!」と、身を乗り出したくなる。
ヘタがいい人に、もっとヘタに書く方法は
教えようがない。
あえていえば練習などしないことだ。
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そもそもヘタとはなにか。
「物事に巧みでないこと、なまじっかなこと」などと
『広辞苑』はいうが、いまひとつおもしろくない。
では、「不慣れや未熟のために
人々が考えるレベルより劣ること」
というのはどうだろう。
これだと、アート系がいう「ヘタうま」の説明はつく。
「ヘタ」も、熟練すると「うまい」に変わる。

食事相談には「ヘタがいい」や「ヘタうま」はあるのか。
ヘタな食事相談担当者には
クライアントがつかないから、存在しえない。
「ヘタうま」のほうはどうか。

指示や指導でクライアントに迫る「指導型」から見ると、
クライアントの自発性をたいせつにする
カウンセリング型食事相談は、
なまっちよろくてヘタに思えるかもしれない。

しかし、「急がば回れ」の格言どおり、
長い人生、いずれ持続的な結果が出るから、
けっきょく「うまい」ことになるだろう。
食事相談における「うまい」と「ヘタ」とは、
基準が、いま変わりつつある。 
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★絵手紙は筆者の作品

# by rocky-road | 2008-07-13 06:38