
ロッコム文章・編集塾の塾生から
宿題として提出された文章に、こんなものがあった。
その人は、ある宗教組織の病院に勤務しているが、
そこのトップ(外国人)が
職員に向けて出すメールによるメッセージが
まったくの信者向けであるため、
信者ではない職員は違和感を覚えるという。
その病院での勤務者は、
信者であるかどうかは採用条件にはなってはいないという。

この事情を書いたあと、
彼女は、こうした一方的な情報提供の仕方は、
栄養士がクライアントに対して、
一方的に栄養のたいせつさや健康の意義を説くのと似ている、
としている。
人のふり見てわが身を正せ、というわけで、
彼女は、栄養士として、そうならないよう、
コミュニケーション力を磨いていこうと、
年頭の所感として文章に書いていた。


さて、3月20日に、
私は、横浜で、パルマローザ主催の輪読会を担当したが、
ここでは、栄養士会のリーダーが書いた文章を
「ワケアリ文章」の事例として2本を示した。
内輪の機関誌の記事とはいえ、
いや、内輪だからこそ、
何を言いたいのかがわからない、
救いようのない文章を平然と書くことができるのだろう。

よくも悪くも「情報化時代」が続き、
また、Eメールの普及の効果も多少はあって、
国民の文章力は、わずかに底上げされつつある。
少なくとも、印刷媒体に関しては、
いわゆる「悪文」を見つけるのがむずかしくなった。
が、大学の「紀要」とか、学会誌とかは、
依然としてガラパゴスで、
「悪文収集家」を喜ばせずにはおかない
正真正銘の悪文が生きながらえている。



多くの人は、文章力を評価するのに
「文才」というコトバを使う。
このコトバは曲者で、
文章力はあたかも生まれつきの才能であるかのように錯覚させる。
人間にとって文章表現力は
きわめて後発の能力、
したがって、生まれつきとの関係はうすく、
すぐれて学習力を要する能力である。

しかもその能力は、
ひとくちに「文章力」とくくることができないくらいに
それぞれ、ジャンルごとにポイントが異なっている。
「ジャンル」とは、
日記、手紙、ハガキ、エッセイ、解説、論文、詩歌、広告、
レポート、事務文書(さらに依頼書、注文書、わび状など)、
諸届、小説(さらに純文学、中間小説、大衆小説などなど)、
そして、Eメールやブログなどのことで、
これらは大きく分けても200以上のジャンルとなる。

それぞれのジャンル間には大きな差異がある。
事務文書の文章と、小説や詩歌のそれとの違いは、
相撲とレスリング、サッカーとベースボールほど、
といっても過言ではないくらいのものである。
だから、それぞれのジャンルに共通する文才などあるはずもない。
手紙が書けない小説家や学者、
ノンフィクションは書けても、
論文が書けないライターがいても、
少しも驚くことはない。

さてそこで、
最初の「宗教」と「栄養」の話に戻ると、
どちらも目には見えないものを対象としている
という点で共通している。
「栄養素は顕微鏡で見られる」というかもしれないが、
その生理作用は目には見えない。
神を見た人は少なくないが、
神がもたらす精神的効果は目では見えない。


見えないものを語る人の宿命として、
見えないものを「見える化」する
コミュニケーション力が求められる。
神の場合は、
古来、絵画や彫刻などによって具現化されてきた。
阿修羅や弥勒菩薩の穏やかな表情から、
安らぎを得る人も多い。
それとても、信仰を持つことで得られる幸せを
コトバで説明する必要に迫られるはずである。

栄養や健康の「見える化」の場合は、
スポーツシーンであったり、
子どもが無心に遊ぶ姿だったり。
が、それらには弥勒菩薩ほどの霊験はない。

けっきょく、栄養効果や健康は、
印象的なコトバ、美しいコトバで
それを語るしかない。
信仰も健康も、
人々がそれへの関心を弱めているとすれば、
それは、自分の専門を語れない担当者の責任である。


日本人は、いつのまにか、
世界一の長寿国になった。
そこへ向かってひた走ったわけでもないのに。
とはいえ、「偶然にそうなった」という解釈では、
それにかかわってきた人の尽力に対して失礼だろう。


どんな事情であれ、その地位は、守るに値する。
「生」とは、なんだかんだいっても、感動の収集活動だから。
その経験は、あとから来る地球上生物のために生かしたい。
それをバックアップする一員が健康支援者だとすれば、
コミュニケーション力すなわち、発話力、文章力、
基本のところでは表情、身だしなみなどを、
磨き続ける必要がある。



輪読会で使った悪文を書くような先輩が、
健康支援者たちを引っ張っている以上は、
後輩たちは、よほどがんばらないといけないだろう。

▲ by rocky-road | 2017-03-24 17:52