
ロッコム文章・編集塾/能登教室が
開講してから10回目を数えた。
2014年3月から始まったから、
2年4か月たったことになる。

文章や編集を学ぶことにどういう意味があるのか。
昔、「16年間、文章教室に通っている」
という人に出会ったことがある。
その人は「朝日新聞」の
「天声人語」を学んでいると言っていた。
NHKのカルチャーセンターに通っている人にも
出会ったことがある。
この人はエッセイを学んでいる、と言っていた。

ロッコム文章・編集塾についていえば、
「モノの見方、考え方を深める」
「思考力を深めること」ということになる。
サンテグジュペリが、
「ほんとうにたいせつなものは、
目では見えないのだよ。心で見るのだよ」
というときの、「心」の多くはコトバである。

サッカー選手が
アイコンタクトでパスを促す場合は、
コトバが介在する時間はないが、
「アイデンティティ」や
「愛」や「幸福」「未来」となると、
非言語的なイメージだけでは
深く考えられないし、
継続的に考えることもできない。

もっとも、
いきなりだれかに、
「なぜ文章や編集を学び続けているのですか」
と聞かれたとき、
「思考力を深めるために」では
いかにも硬直していて日常会話にはなりにくい。
そこで、
「筋道立った考え方、話し方、
書き方を強化するため」くらいに意訳する。

あるオッチョコチョイが、
そう聞かれて、
「句読点の打ち方などを学ぶんです」
と答えたという。
そのオッチョコチョイとは、
不肖、この大橋禄郎である。

兄の危篤の枕もとで、
姪から「文章教室では
どういうことを教えているのですか」
と聞かれて、そう答えてしまった。
場所が場所、時が時ではあったが、
これはいくらなんでも意訳のし過ぎ。

こういう人間が、
「栄養士になぜなったのですか」と聞かれたとき、
「食べることが好きだから」では、
あまりにも脳がない、などと、
人を批判できるのか。

こういう時と場合に備えるためにも、
表現力のバリエーションを何十回となく、
トレーニングしておく必要がある。
今回の能登教室で、
こんなエピソードを聞いた。
ある栄養士さんが、
食事相談が終わるころ、
「人生相談みたいですね」と
クライアントから指摘されたとか。

これは、栄養士の表現力を問われる大きな問題である。
食事相談は、
まさに相手のライフスタイルを前提にして行なうもの。
だから、相手が人生相談と感じたのは当然。
それは、
好ましい食事相談を行なっている証拠のようなものだが、
しかし、「人生相談」をやすやす肯定してはいけない。


その理由は、「人生」といった重いコトバを使うと、
無用に慎重、神妙になりがちであるし、
実際、守備範囲以上の泥沼に
引きずりこまれる可能性もある。


若い栄養士が人生相談に乗る、
というのはおこがましい。
困るのは、こういうとき、
栄養士が君臨しがちになること。
「栄養指導」とか「行動変容」とか、
自分のバックグランドを支えるコトバを得ると、
ロクなことはない。

ということで、
ここは「人生相談」をひた隠しにするほうがよい。
「食事相談って、人生相談みたいですね」
と言われたら、どう切り返すか、
準備を始めなければならなくなってきた。
いくつかのフレーズを考えてみた。

*「あらそうかしら。
でも、日常茶飯事の繰り返しが人生ですものね」
*「それは困りましたわ。
栄養士の専門は、よりよい健康づくりなのに」
*「人生相談? おそれ多いわ。
わたしは一介の楽しい食生活ガイドです」
*「あらうれしい。私は食の哲学者になれるかしら?」

「能ある鷹は爪隠す」のはむずかしい。
「食の窓から侵入する哲学者」としての栄養士は、
分をわきまえず、
他の職業のエリアに足を踏み入れ始めてしまった。
ほかに適任者がいないのだから、やるっきゃない!
もう、後戻りはできない。

食はもちろん、
人生にも地図は欠かせない。
コトバは5年後、10年後の地図を
描くことができる。
文章を学ぶ意味はそこにもある。
能登教室で新たなヒントをいただいた。

▲ by rocky-road | 2016-07-29 15:44