
2月16日、「食ジム」出席のために横浜に向かう車中で、
妙に清々しい気分になった。
病み上がりにもかかわらず、である。
前の席にいる3人が、一様に本を読んでいたのである。
厳密にいうと、その1人は書類に目を通していた。
昔は、こんな風景は当たり前だった。
が、いまは、前の3人が3人、
ペーパーに目を注いでいる、
それは、懐かしいというよりも、
心が和む風景だった。

が、もう少し視野をズームアウトすると、
視界には、写真のような酔っぱらいが
ヘソを出して熟睡している姿が入ってくる。
日曜日とはいえ、午前9時台の風景としては、
あまり愉快な図とはいえない。

スマホ依存症が増えているという。
ケイタイから始まってスマホに至るまでに、
すでに依存症問題は指摘され続けてきた。
精神医学的な視点で論じられることが多いが、
人間の、または動物の感受性や
知的活動との関係という切り口で
この問題を論じた論説にはまだ接していない。

昭和の大評論家・大宅壮一氏は、
テレビが普及する過程で「一億総白痴化」と警告した。
活字で育った人から見ると、
映像中心の情報が、
家庭の中、茶の間や寝室にまで入り込んでくる状態を
危険と見たようである。
(ちなみに、パソコンは「はくち」を漢字変換できない。
差別用語とは違うと思うが)
しかし、日本人がテレビによって白痴化したという
事実を証明するエビデンスはなかった。
大宅氏のいわんとするところは、
活字文化から遠ざかることは
バカになることに等しい、ということだろう。
テレビの普及に比べると、
スマホの普及のほうが、
いっそう白痴化度が高いと思われるが、
世界のトップクラスの知性人が、
ケイタイやスマホを使いこなしているから、
大宅壮一式解釈を当てはめるわけにもいかない。

私には、電車のプラットホームや横断歩道の真ん中で
スマホを操作している人間を見ると、
白痴というより、それ以前の、
動物性を失った夢遊病者に見える。
階段の昇降時や食事の最中に
スマホを見つめている人間の非動物性とは、
環境への適応性を失いつつある状態といえる。
電車に乗って、椅子が空いていることは認識する。
で、そこに座る。
が、環境確認はそこまで。
すぐに、デジタル機器の中の環境の中に入り込む。

隣の人が男か女か、
何をしているのか、
そういうことへの反応が鈍くなっている状態は
動物性の著しい後退である。
人間は、自分が動物であることを知っている、
それが知能の発達というものである。

最初にあげた、朝っぱらからの酔っぱらいもそうだが、
以前、人食いザメのジョーズのかぶり物をして
車内で本を読んでいる男がいたが、
だれ1人として、かれのジョーク、
かれの度胸に反応しなかった。
その異常な光景を撮ろうと思ったが、
そうした行為にも、だれも、なんの関心も示さない。
そのことの異常さ!!!

スマホは、一部の、しかしかなり多くの人の
環境に目を配る意志、黙思する機会、
読書する機会を奪っているが、
その反面、
従来なら、生涯、文章などほとんど書かなかった
少なからずの大人に、
文字によって情報発信をするという
大メリットをもたらした。
ここが、人類にとって、社会にとって
捨てがたいスマホの魅力であろう。

昔、「100頭のチンパンジーに
100台のタイプライターを与えても
文章を書けるチンパンジーは生まれない」
と言った学者がいたそうだが、
ヒトにスマホを与えた場合はだいぶ違う。
ここから文芸が育ち、社会参加が始まる。
ケイタイ俳句やケイタイ川柳、
テレビやラジオへの感想、意見参加。
100頭の知的チンパンジーが50頭に減るのと、
読み書きをする文化を持たない100頭のチンパンジーの99%が
コトバを持つ場合のメリット、デメリットは、
人類にとって、社会にとって、どうなのだろう。

この設問の弱点は、
スマホになじむと、知的活動が減る、
という証明ができない点である。

人類全体として見た場合、
自分たちが創りだした文明で自滅した、
という経験は、いまのところはない。
原発や原爆がどうなるか、
気にはなるが、
人間の補修・補正力は大きいから、
スマホで自滅する心配はないだろう。

しかし、民度(人民の生活や文化の程度)の低下は、
しばらくは続くことになるだろう。
テレビやラジオの各種番組には、
落書き的な参加を促すものが増えた。
「私も一言、夕方ニュース」などと、
番組名にまでしてくる。
オリンピックに対する応援メッセージの紹介なども
同列と考えてよい。

登山のパーティにたとえると、
先頭を行く健脚なベテランが、
遅れ気味の仲間を待つようなものである。
健脚組は、弱者をいたわらねばならぬ。
それがヒューマニズムというものであろう。
世の中の動きに関心がない者や、
ニュースの前後関係に無知な者も
一人前に「つぶやく」ことができる。
そのスペース、その時間からは
ベテランの深い洞察のある見解は割愛される。

「衆愚政治」(しゅうぐ せいじ)とは、
愚民に迎合した、主体性のない政治の状態をいうが、
昨今は、その促進役はマスメディア、
とくにテレビやラジオが「衆愚化」に加担している。
その愚民とマスメディアとをつなげるのが
スマホということになる。
スマホ依存症の悲惨さ、
社会化されていない内なる声を
国民の意志としてしまう悲惨さ、
個人的な悲惨と社会的な悲惨。
これが当分は同時進行することになる。

スマホ依存症外来ができたという。
ロッコム文章・編集塾でも、
スマホ白痴、改善教室を開講したいと思っている。
最近、ある主催者に応募された川柳作品が
各種メディアで紹介されているが、
その駄作例をあげておこう。
「ただいまは犬に言うなよ俺に言え」
「やられたらやり返せるのはドラマだけ」
これらの知性の片りんもない駄作は、
未熟な作者の問題ではなく、
白痴的な選者の問題。
こんなのが川柳だという事実、
これが民度の落ちた状態である。
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話は変わるが、このページで紹介した
『日本人らしさの発見』(芳賀 綏著 大修館書店)を
読んだ人から、高い学びと、深い共感の声を耳にする。
3月2日に開催される、
パルマローザ主宰の
「栄養士・健康支援者のための輪読会」では、
じっくり読み込んでみたい。
芳賀先生によると、『産経新聞』(1月19日)、
『東洋経済』(1月25日)、月刊『WILL』(3月号)、
『夕刊フジ』(1月8日)、月刊『英語教育』(3月号)、
『サンケイスポーツ』(1月22日)などで、
書評をされているという。
ラジオの番組でも、筆者がインタビューに答えるものがあったとか。
これぞ、世界を、人間の文化を見直す、
高度に知的な1冊である。
▲ by rocky-road | 2014-02-22 00:11