カテゴリ:大橋禄郎 文章教室( 3 )

 

なぜか気になる「いわゆる」

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このブログの「記事ランキング」では、

2012年8月に書いた
「『いわゆる病』にご用心。」

つねに上位にランキングされている。

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電波メディアでは、

毎日のように「いわゆる連発症」

というべき事例を確認できるが、

自分が、これまでつき合ってきた人の中には、

この症状の人は皆無だから、

「いわゆる病」がなぜランクインするのか、

その理由を推測できない。

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この話題に初めて接する人のために

少しおさらいをしておこう。

「いわゆる」とは、

「世間で言われている……」

「俗に言う」というのが本来の意味。

昔は「所謂」と書いた。

「いわゆる『働き方改革』のとばっちりで……」

「いわゆる『激レア』な人物なんです」

「いわゆる『自分らしく』っていう生き方ですよ」

などと使う。

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ときに、

相手があまりなじんでいないかもしれないコトバに

「いわゆる」をつけて

注意力を促すこともある。

「いわゆる『学際的』に協力し合っていますよ」

「いわゆる『言語本能』を刺激する意味でもね」

このほかの使用例では、

「いわば」に近いニュアンスで、

「いわゆる『風前の灯』ですよ」

「いわゆる『自然消滅』かな?」

というケースも少なくない。

このコトバの禁則は、

あとに「という」をつけること。

「いわゆる『働き方改革』というヤツのとばっちりで」

「いわゆる『自分らしく』という生き方ですよ」

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「いわゆる」には、

すでに「言うところの」という意味があるから、

それに「という」をつけると、

二重に「言う」を使うことになる。

これほど野暮な使い方はない。

さらに困惑するのは、

「いわゆる」で話し始めながら、

しばらく言いよどんで

「いわゆる……なんていったらいいのか……」

これをやる人間は、

かなりのお調子者と考えてよい。

(バカ野郎!! 最初のコトバも決まらないうちに

『いわゆる』なんて、もったいぶった言い方をするな!!)

もう1つの、超禁則使用例は、

特別の意味がない一般名詞に「いわゆる」をつけて、

「いわゆるパソコン」「いわゆる満月」

「いわゆる幸福」「いわゆるコトバのクセ」

などとやること。

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上の写真は、「平成最後の満月 419日深夜」

これらの誤用は「うっかりミス」では済まない、

野暮、能天気、はったり屋などが丸出しとなる。

とはいえ、実際には

これらは、あらゆる局のラジオ、テレビ出演者が

毎日のように事例を見せてくれる。


この種の実例に触れたい人は、

TBS系テレビの「ひるおび」のキャスター・恵某、

ラジオならこの3月末に放送終了した

「荒川強啓 デイ・キャッチ!」にレギュラーで出ていた

国際ジャーナリストと称する小西某、

日本テレビ系なら「ミヤネ屋」のメインキャスター。

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国際ジャーナリストの場合、

国際会議の同時通訳をすることを売りにしていたが、

ここまでセルフコントロールの効かない男が

正確な同時通訳なんかできるのか、

大いに怪しんだものである。

2人のテレビキャスターのほうは、

ともに「急性期」は過ぎて、

その頻度はだいぶ減ってきてはいる。

ところがつい最近、「ひるおび」で

ボード解説を担当していた若いアナウンサーが

シールをめくりながら、

突然「いわゆる」を頻発し始めた。

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ここに、このコトバを使う言語心理が見事に現われている。

「クセ」(癖)には「やまいだれ」がつくが、

厳密に言うと、

「いわゆる」の頻発は、

「あのォ~」や「え~と」などのように

うっかり出てしまうクセとは違って、

もう少し自覚的、確信的である。

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したがって、罹患者に対する同情はまったくご無用。

それどころか、その小心ぶり、

衒学性(げんがくせい=ひけらかし根性)、

品性の貧しさなどについて、大いに突っ込んでよい。

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いつも原稿を読むくらいのアナウンサーが、

フリートークで話ができるようになると

(実際には、パネルに従って話しているだけなのだが)

急に自分が偉くなったように錯覚して

無意識的に自分の立場をひけらかし、

視聴者に対して上から目線で「いわゆる」とやる。

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人のコトバの癖を論う(あげつらう)のは

あまりよい趣味ではないが、

上記の事例は個人的な「クセ」というよりも、

マスメディアという公器を使っての

国語の汚染だから

環境問題として認識する意味はある。

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それでなくても、

「注目を集める」「真摯に受け止める」

「多岐にわたる」「だから戦争はいけない」

「先行きは不透明」「しっかり対処します」

「忖度する」

などなど、

マスメディアや政治家からは、

空虚で、手アカのついたコトバを

ずいぶん刷り込まれているはずである。

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マスメディアには、

正しい情報を送ることと同等に、

正しい国語を使う責任と使命がある。

「コンプライアンス」とか「ガバナンス」とかは、

組織の弱点を指摘するときの

専用用語のようになっているが、

メディア自体、

こういうコトバづかいを平然と続けるのは、

まさしく組織のガバナンスに

問題があるからだろう。

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おもにテレビ、ラジオが振りまく、

不適切国語に感染しないためには、

その大小にかかわらず、

指摘したり、警告したりすることが

今後も必要だろう。

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そうか、

この「いわゆる」関連ページが、

もう少し「記事ランキング」の上位に

いてもらう意味はあるのかもしれない。


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by rocky-road | 2019-04-25 23:42 | 大橋禄郎 文章教室  

メディア・リテラシーの磨き方。

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大人のための文章教室「ロッコム文章・編集塾」は

2003年に開講し、今年で16年目になる。
当初は、岡山県や三重県、千葉県などから

通ってくれる人もいたが、

1回のペースで東京まで通うのはご苦労が多い、

と思われたので、

2008年に、

年に4回、1日かけて集中講義を行なう

「遠距離クラス」を、

おもに横浜で会場を見つけてもらって開講した。

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講義内容は、毎月クラスと同じだが、

毎月クラスと遠距離クラスとの

両方を受講する人もいて、

そういう人によると、

メンバーが異なると、

強弱のポイントに差が出て、

雰囲気はだいぶ違うと言う。

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遠距離クラスには

「近況報告」のコーナーを設けて、

各地の話題を提供していただいている。

このコーナーは毎月クラスにはない。

近況報告も

表現力強化の演習の一環として重要だから、

毎月クラスでも行ないたいが、

2時間授業の中では時間的にキツイ。

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近況報告では、

職場の話、講演会に参加した感想、

ご自分が運営する料理教室の現状、

雪が凍ってアイスパーンになっている道を

何回か転んでやってきたなど、

鮮度の高いローカルな話には惹きつけられる。

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当初は、1人で10分以上かけて報告をする人もいたが、

「あえて何分以内」と注文はつけず、

「これくらいの人数のときは、

1人がどれくらい話せばよいか、自分で判断して」

として、時間配分を各自に任せたら、

それぞれテーマを絞って

コンパクトにまとめられるようになった。

その前進ぶりは見事。

要領のよい報告スキルは、一生の財産になるだろう。

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遠距離クラス、毎月クラスとも、

このところは、

以下の宿題に、みなさん苦労している。

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 【出題】

 最近の新聞記事、テレビ・ラジオ番組の中から

 1つをとりあげ、(情報のまとめ方などについて)論じてください。

 10行で内容の概略、残りの20行で論評を

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この宿題の前段階として、

「メディア・リテラシーのセンスアップ」

という講義を行なった。

「リテラシー」については、

『ウィキペディア』で次のように定義している。

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 (英: literacy)とは、原義では「読解記述力」を指し、

 転じて現代では「(何らかのカタチで表現されたものを)

 適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」

 という意味に使われるようになり、

 日本語の「識字率」と同じ意味で用いられている。

 ちなみに、古典的には「書き言葉を正しく読んだり

 書いたりできる能力」と言う限定的に用いられる時代もあった。

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そして「メディア・リテラシー」については、

大橋はこう定義した。

 「(おもに)テレビ、新聞、雑誌など、

 マスメディアによってもたらされる情報を正確に理解する能力。

 『正確』とは、個々の情報の理解力にとどまらず、

 情報提供者の意図、個々の情報の因果関係、

 その情報の影響、時代性などを含む。

 あえてデジタル情報は、ここでは除外する。(大橋)

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講義では、メディアを通じて伝えられる情報は、

無限にある「真実」のごく一部であり、

厳密に言えば、

「真実」は、

11人の認識以外のところにはない。

したがって、

メディアで「真実」を伝えることは最初から不可能。

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かと思えば、意図的にある情報を

伝えないことをもって

情報発信者の意図を示す報道姿勢もある……

という話もした。

自分たちが好まない情報は、

ほかのメディアが報じても、

自分のところでは無視する、

などということは普通にある。

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こういう講義に沿った宿題だから、

論評はメディアの情報提供の仕方について

問うものであった。

が、課題では、

前述の( )内の「情報のまとめ方などについて」

を入れておかなかったので、

メディアの情報提供についての論評ではなく、

中身そのもの(記事に登場する論者の意見や

施策の是非など)に入り込んでしまい、

情報提供のあり方について論ずるものは、

1割にも達しなかった。

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最初のクラスの反応を見て、

あくまでも「情報の提供の仕方」

についての論評であることを補足したが、

2回目も惨敗だった。

出題内容がうまく伝わらなかった責任を感ずるが、

メディアのあり方について論ずるという

経験も情報もほとんどない、

というのが、

現在の日本の状況であることを

認めざるを得なかった。

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つまりは、

テレビ、ラジオの視聴者、

新聞、雑誌の読者の大半は、

内容について楽しんだり、

うんざりしたりはするものの、

制作者または編集者の思想、センス、

姿勢などに視線を向ける習慣がなく、

寛容に受け入れる傾向がある。

われわれは、そういう風土の住人ということだ。

とは言え、

メディアのあり方を論ずる雑誌は少なからずあるし、

新聞でも、月々の雑誌の論調を紹介する記事はある。

しかし、

それを読むのは「専門家」と思われがちなのだろう。

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メディアの利点・弱点を見抜く能力の強化は、

メディアにミスリードされないため、

または、

自己防衛のためというばかりではなく、

けっきょくは、

自分の立ち位置、

これから向かう道への選択眼を磨くことに有利。

メディア・リテラシーは、

つまるところ、

自分の人生の方向を読み解く能力にもなる。

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現在、宿題の再提出待ちのタイミングだが、

あえて、

テレビ番組を論ずる一例として、

NHKテレビの「鶴瓶の家族に乾杯」

という番組について、

ゆる~く論評してみよう。

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 【番組の概略】

 1995年から始まった、笑福亭鶴瓶主演の

 「ぶっつけ本番」番組。

 おもに芸能人がゲスト出演し、

 そのゲストが望む地域を訪ね、

 鶴瓶とゲストが最初は一緒に、

 途中から分かれて、

 それぞれが出会った家族と語り合う。


 【論評】(肯定的に論ずる例)

 芸人鶴瓶による、出会った人への話しかけ、問いかけ、

 インタビューは、プロのアナウンサーや記者でも

 かなわないほどの超一級。

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 テレビでは、事前に準備しておいて、

 いかにも「ぶっつけ本番」に見せる細工が大半だが、

 この番組では、ときに収録を断られる場面、

 放送には不適切な発言、

 訪問を受けた人たちの狼狽、 

 ガラスなどに反射する取材風景などを

 あえて写すことなどから推測して、

 「やらせ度」は比較的低いと見る。

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 とは言え、ゲスト出演の芸能人に

 インタビュー力を求めるのはムリで、

 2人が現地で別々の行動をとるとき、

 ゲストのほうの言動にじれったさを感じる。

 制作者は、それもたぶん読み込み済みで、

 鶴瓶の老練ぶりと、芸能人のドギマギぶりの対比で

 むしろ視聴者を引きつけるのかもしれない。 

などとするのかな?

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ともあれ、

大人の文章教室は、

句読点の打ち方や

敬語の正しい使い方などのところで

足踏みしているわけにはいかない。

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「人は文章で考える」であり、

「編集は豊かな人生のプログラムづくり」である。

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by rocky-road | 2019-03-31 22:40 | 大橋禄郎 文章教室  

「健康」が見えてきた、かな?

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コミュニケーション研究会 ひろしま≫開催のセミナー、

.「食コーチング」提唱から16年。

  いま想うこと

  (講師 影山なお子さん)

  20193月9日() 終日

2.記号としてのモノ、衣服、スタイル

  --その意味と活用--

  (講師 大橋禄郎

  同年3月10() 終日

  (ともに広島県三原市 市民福祉会館)

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この2つのセミナーが終わった。
ここでは、2日目のセミナーについて

少し補足しておこう。

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この世に存在するものすべてに記号性がある、

という講義をした。

地球に人間がいなくても、

動・植物はもちろん、鉱物も、

昔っから記号性を持って存在している。

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それは大宇宙のデザインにほかならない。

植物は、色や形、香りや発光性などを

記号として使って動物を惹きつけ、

地球上に分布している。

チョー後発の人類は、

こうした豊かなデザインに囲まれれることによって、

知性や感性を発達させてきた。

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モノがそこにある、ということは

「記号性を持つ」ということと同義である。

空気もアミノ酸も、

裸眼では見えないが、

それでも人間は「ある」ことに気づいて、

それを記号化し、共有物とした。

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衣服は、記号そのものである。

人類の一部は、

いまもって裸体をさらして生活をしているが、

それでも、鼻や首、手首や足首にリングを巻いて

なにかをアピールしている。

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衣服の第一目的は、

かならずしも身体を外界から守ることではなく、

時と場合によっては、

記号による情報発信こそがおもな目的となる、

ということか。

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健康支援者が

なぜ記号について学ぶ必要があるのか。

それは、「健康」という、目には見えない、

いやもともと実体のないものを

扱うことで商売をする仕事人だからである。

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健康も病気も、

元気も強気も弱気も、

指さすことができない現象である。

それらが見えるのは、

それぞれを記号化して、

つまりコトバに置き換えて認識するからである。

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健康支援とは、

見えないものをコトバにしてゆく作業である。

生きがい、希望、健康、協調、寛容、友好……。

それらのコトバを多く持っている者、

適切に使うことができる者には、

好ましい健康支援を行なう可能性がある。

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その一方で、

あえて言語記号にしないままに、

健康情報を発信して効果をあげる時と場合もある。

それが表情であり、微笑であり、

姿勢であり、歩き方であり、仕草であり、衣服である。

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今回、強調したのは、

自分が発信する記号情報の発信先は、

他者とは限らず、自分自身でもある、ということ。

「自分とのコミュニケーション」は、

記号をたくさん作り出した人間ともなると、

その頻度はハンパない。

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「あしたは5時に起きよう」

「あの渋い顔、この会議を低調にしているようだ」

「母に、あそこまで言うべきではなかったかも」

などなどの自問自答は、

自分とのコミュニケーションそのもの。

脳内にプログラムを生み出すこと(アウトプット)にほかならない。

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無表情、地味過ぎる衣服で

人に健康の大切さを説く者は

自分とのコミュニケーションが不完全である。

「地味過ぎる」とは、

たとえば、灰色、茶、カーキ色、

あるいは迷彩色系などのアウターを着ること。

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聞けば、「カーキ」とは、

ヒンディー語で「土ぼこり」のことだというではないか。

別名「枯草色」、

戦時経験者に言わせると「国防色」、

当時の定義では「帯青茶褐色」だとか。

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ついでに言えば、日本語には

灰色、茶色、カーキ色などの固有の語はない。

赤や白、黒のように、独自の名称は持たず、

「灰」や「茶」(お茶)、「土ぼこり」などの名を借りた、

仮の名である。

これって、幸いなことかも。

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いずれにしろ、

21世紀の先進国で、

こんな色を身につけることは、

ほこりっぽい、冴えないライフスタイルを

自分に刷り込むことにほかならない。

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≪コミュニケーション研究会 ひろしま≫の

次回の講義は今年7月21日である。

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このとき、

彼女たちの衣服記号がグレードアップしていなかったら、

今回の講義は失敗ということになるだろう。

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by rocky-road | 2019-03-22 23:19 | 大橋禄郎 文章教室