カテゴリ:大橋禄郎 文章教室( 6 )

 

新聞をゆっくり読む時間ができた。

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コロナウイルス肺炎の拡散の話は、

それぞれの専門分野に任せて、

こちらは、いつものように、

自分の生活習慣を守っていこう。

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少しだけコロナに触れるとすれば、

「読売新聞」の328日の朝刊に

養老孟司氏(脳解剖学者)へのインタビュー記事が載っていた。

そこで氏は、「症状が軽いから広がるんですよ」

と指摘していた。

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なるほど、そうに違いない。

感染した人がすぐに倒れてしまえば、

ウイルスは拡散されにくい。

宿主に感染したかどうかを知られないうちに、

新規の宿主を見つけて拡散してゆく。

宿主が亡くなってしまうと、

自分たちもそこで終わる。

それは彼らにとっても誤算である。

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感染の怖さを考えていたら、

戦時中の、B29や艦載機(航空母艦から発進する戦闘機)による

空襲と比べることになった。

相手を選ばないという点では、

敵機もコロナウイルスも同じだが、

命を狙ってくるという点では、

空襲の恐怖はハンパではない。

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夜中の空襲が終わって、

横穴の防空壕(崖などの掘った壕-ごう)から出て、

家に戻るやいなや、

第2波の攻撃が始まる。

なぜか、この2波のときに

足がガタガタと震える。

真冬の寒さと恐怖とが同時にくる。

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のちに、昭和20年3月10日の空襲では

100万人が犠牲になったことを知るが、

空が真っ赤に染まるほどの、遠くの大火災を感じながら

死の恐怖が迫ってくるのは子ども心にもわかった。

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コロナウイルスの怖さは、

これほどのものではないから、

油断してヒョコヒョコと出歩くことになる。

コロナウイルスが爆音でもたててくれれば、

みんなは家にこもっていられる。

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空襲警報下ではないから、

灯火管制(電灯を消すか漏れないようにすること)がないので、

部屋でミラーボールを回そうが、

大音響で音楽を聴こうが、

ウイルスに狙われることはないし、

町内の警防団(自警団のようなもの)から

とがめられることもない。

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「こわくない」というのは、

実はこわいものである。

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さて、ようやく本題に。

以下は、

2020330日の「読売」朝刊に載った広告である。

日本人が国語の勉強を始めて150年くらいたつが、

文章の表記法がいまだに定まっていない現状を

見事に証明してくれているという点で

貴重な資料となる。

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上の書籍の広告は、

読点「、」を打ちながら、句点「。」は打っていない。

句点は、単に誤読を防ぐ、文章の末尾を示すだけでなく、

人が使ったコトバというニュアンス(ぬくもり)を生み出す。

その効果を認知していない人は多い。

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しかし、それをわかる人もふえつつある。

「バイトを守れ。」のマルは主張を強めている。

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さらにわかってくると、

補助符号(テンやマル、「」!などの総称)

自由に使い分ける。

フジッコの広告制作者に💮(ハナマル)をあげたい。

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感嘆符についていうと、

パソコンには「!」しか入っていないので、

以来、どれも「直立型」になる。

なぜ、直立型がよくないかというと、

1(イチ)や「I(アイ)の紛れるから。

!」斜体をかけると、オドロキ度が増す。

ちなみに、

この広告、感嘆符を打ちながら、句点は使っていない。

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ジャパネットたかたも、

感嘆符は直立型。

それにしても!のオンパレード。

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「自分に合う。が見つかる。」は

句点の使い方のミス。

「自分に合う」が見つかる。

とすればよいのに。

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新聞の見出しや雑誌のタイトルには

句点を使わない伝統がある。

これが新聞記事を冷たくしている理由の1つにはなる。

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しかし、こんな例も出始めている。

新聞は、今後も部数を減らし続けるだろうが、

読者対策として、


出しにも句点「。」を入れたり
補助符号(! ?)を積極的に使ったりする日がくるだろう。

その前にコチコチの文章を和らげる段階があるだろうが。

その日は50年後か、100年後か、

いずれにしても遠い未来の話である。

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最後に、珍しい手描き広告。

手描きをするとこんなにも補助符号がふえてくる。

見かけは別として、

ぬくもりとは、こういうことである。

手で描くと、自然に補助符号(? !〝〟などなど)

出てくる。

これを見ても、

パソコンが、

いかにわれわれの文章表現を

制約しているかがわかるだろう。

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by rocky-road | 2020-04-01 00:46 | 大橋禄郎 文章教室  

「エッセイ」は続く、どこまでも……。

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わが「ロッコム文章・編集塾」では、

エッセイのトレーニングによって塾生を悩ませている。

有名人や著述家でもなければ、

エッセイなど書く機会は「一生ない」

と言いたいところだが、

現実は、そうではない。

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そのことに改めて気づいたので、

しばらくはエッセイ攻めをすることにした。

フランスを発祥とする「エッセイ」の定義はむずかしいが、

ここでは日本国向きに、以下のようにしておこう。

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「自由な話題(身近なものから深淵なものまで)

を選び、軽妙、ときにユーモラスなタッチで書き進める、

比較的短い形式の文章。

しかし内容は、深い知識や思考に裏打ちされていて、

たとえば、人間や人生、社会や宇宙内に起こる諸現象などに

触れることが求められる」

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かつては「哲学がある」などと言ったが、

いまは哲学そのものが正体不明の存在なので、

「深い知識や思考がある」と言ったほうがわかりやすい。

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むずかしいのは、

「エッセイ」「随筆」と「雑文」との識別。

「エッセイ」と「随筆」とは

厳密に言えば別物だが、

日本ではほぼ同じものと考えてよい。

これに対して「雑文」は、

これと言ったテーマが感じられない、

どうでもいいような文章。

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作家の林 望氏に言わせると、

「エッセイスト」と名乗る人の文章の多くは

「雑文」ということになる。

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私として、雑文に加えたいのは

新聞の社説や匿名記者が書くコラムなど。

言いたいことがわかりにくかったり、

奥歯にモノが挟まったような言い方だったり、

決定的なのは筆者名がないこと。

「私」を隠した匿名の文章は、

雑文の典型である。

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孤独や断捨離をすすめる文章も、

おおむね雑文であろう。

文章が軽妙であったとしても、

人を不健康に導いたり、寿命を縮めたりする

非道徳的な発想だから、

雑文であり、「公害的文章」でもある。

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さて、

なぜ塾生にエッセイを書かせるのか。

それは思考力のある大人になってもらいたいからである。

戦争体験や災害体験を語る大半の大人(超高齢者も多い)

「戦争は絶対にいけない。若い人にそう言い続けたい」

2度とこんな悲劇をくり返してはいけない」

と、何十年間も言い続けている、

そういう「雑文的コメント」を繰り返す、

考えない大人には

なってもらいたくないからである。

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「右を見て、左を見て! クルマは急に止まれない」

というリズムのある標語は、

覚えやすいが実効性は低い。

耳に快いと、むしろコトバの意味は忘れられる。

そこで都内の警察が

道をまたぐ横断幕に

「コラッ スピード出しちゃいかん!!」とやった。

オリジナリティが必要である。

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自分の経験は、

自分の解釈、自分のコトバで語ってもらいたい。

1010様の内容を、1010様のコトバ語ってほしい。

空襲を防ぐ方法、災害から助かる方法にも

100100様があるはず。

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ロッコム文章・編集塾

塾生にエッセイを書かせるのも、

自分の思考を育ててほしいからである。

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「人はなぜ生きるのか」

「人はなぜ笑うのか」

そんなことを600字のエッセイによって

考えることは、

災害対策であり、戦争対策であり、

幸福への道のりである。

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by rocky-road | 2020-03-13 00:06 | 大橋禄郎 文章教室  

話し合って、はいジャンプ!!

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「≪コミ研 ひろしま≫ in
 福山 20197

と題するセミナーが終わった。

広島の栄養士の有志が始めた

コミュニケーション研究会も

この721日で5年目・第5クールの、

その4回目の講義が終わった。

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今回は、福山城のすぐ下にある

福山福寿会館。

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こういう由緒のある会場で講義ができる

わが身の幸福を感じる。

当日、和室広間では、

「日韓トップ囲碁対局・鞆(とも)」なるものが
行なわれていた。

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私の講義は

複数の人との話し合いに強くなるには……」
である。

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日本人の会議下手は、

たぶん世界でもワーストランキングに入るだろう

(アジアの国々は同じようなものだろうが)。

民族性だの歴史的なものだのと言って

逃げに入らないで、

ここはトレーニング不足と認識し、

いまから50年以上はかけるつもりで

改革してゆく必要がある。

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会議に入る前の段階として、

3人以上での話し合いがきちんとできるか、

という問題提起をした。

私的な、自然発生的な話し合いが
ちゃんとできるか。

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井戸端会議であれ、
ランチタイムのおしゃべりであれ、

今度行く旅行の相談であれ、

方向性のない、
ただの時間つぶしの話し合いではなく、

そのときどきで、

「見えないテーマ」
「見えないプログラム」を見つけて、

ゆる~く、
その話題を転がしてゆくことができるか。

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司会や座長はいない、

しかし、3人が3人、

そこでの「見えないプロクラム」に従って、

それをふくらませてゆく。

タイトルやプログラムがなくても、

バラケルことなく、

話を進めていけるか。

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近所のだれかが、

バナナの皮を踏んで転んだとか、

息子がスマホ依存症状態だとか、

参院選の投票率が50%を割ったとか、

そういう話の11つを着地させて

(芸人ふうに言えばオチを、

ある程度はつけて)

次へと進んでいけるのか。

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日本人だって、

昔から「話、変わるけどさ……」と言って

テーマ変更を告知する会話術を持ってはいる。

が、全体としてはまとまりが悪い。

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日常的に会話トレーニングをしていないから、

会議ともなると、ますます苦手意識が強くなる。

発言者がいつも決まってしまうのは、

発言者が悪いわけではなく、

発言をしない人が多過ぎるからだし、

そもそも議長や司会が未熟だから、

参加者の発言の整理や撹拌ができない。

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杜氏が飯に酵母を混ぜるように、

話し合いも、話題をじょうずに撹拌しないと

それが全体に行きわたらなかったり

ダマになって固まってしまったりする。

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今回、複数(3人以上)による話し合いの

たいせつさを説いたのは、

言語技術の向上のためという問題以上に、

話し合いは、
高度の思考のプロセスであるとともに、

創造のスキルであることを

認識していただきたいからである。

(3人寄れば文殊の知恵)

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今回、時間がなくて

お話しできなかったが、

以下の話を書いておこう。

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もう5年前になるが、

NHKテレビで、

ディズニー映画『ベイマックス』の

制作裏話を放送した。

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このとき、

映画製作のスタッフが

合議(セッション)をするシーンが

いくつか出てきたが、

3050人が集まっているのに
司会らしき人がおらず、

それでいながら、主人公の心理描写の仕方とか、

すでに出来上がっているシーンのチェックとか、

かなりデリケートな話を

みなが楽しそうに論じ合っていた。

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これが、
会議慣れをしている人たちの話し合いなのかと、

強い印象を受けた。

こういう話し合いができるから、

人類で最初に
月に人を送ることができたのだろうし、

100年以上も世界のリーダーでいられるのだろうと思った。

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以上が、

今回のセミナーに関する補足的な話である。

もう1つの話題は、

発表された宿題の回答を聞いていて、

みなさんの中には公的視点というものが

あまり定まっていないと感じられた、

ということである。

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前回の3月に出題した宿題は、

「おしゃれの私的・公的意義について

できる限り簡潔を心がけて書いてください」

というもの。

これを全員に発表していただいた。

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「おしゃれの公的意義」について、

こんな回答が多かった。

「仲間意識を持つことができる」

「おしゃれはマナーの一端である」

「ユニフォームを着ることで仕事モードに切り替える」

「社会参加意欲を維持する」などは、

まったく見当違いではないが、

個人が社会活動をするに当たっての意義の範囲であって、

社会側からの視点にはなっていない。

軸足が自分であり過ぎる。

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「おしゃれの公的意義」という立場で書くならば、

こんなふうな表現になるだろう。

 

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1.警察官や医師、看護師、客室乗務員、配達業の場合では
  職種を明らかにするとともに、組織や同僚間の規律や秩序を保ったり、

  利用者からの信頼や親近感を得たりするのに有効。

2.職場では整った服装によって
  組織の品位を保ったり、
  作業服などによって作業効率を高めたり、

  セクションや仕事内容を
  把握しやすくしたりする。

3.冠婚葬祭の服装では、

  儀式の厳粛さや華やかさの効果を高める。

4.街やコミュニティの景観や環境を
  美化することによって

  人々の社会に対するケジメ感や愛着を強め、

  それらによって心身の健康度をあげる。

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なお、今回は前日の20日に福山に入り、

城周辺を下見したりした。

福山城は終戦直前に空襲で被災したため、

再建されたという。

その分、城としては真新しく、

燦然と輝いて見えた。

大いに楽しい小旅行であった。

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by rocky-road | 2019-07-23 01:41 | 大橋禄郎 文章教室  

なぜか気になる「いわゆる」

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このブログの「記事ランキング」では、

2012年8月に書いた
「『いわゆる病』にご用心。」

つねに上位にランキングされている。

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電波メディアでは、

毎日のように「いわゆる連発症」

というべき事例を確認できるが、

自分が、これまでつき合ってきた人の中には、

この症状の人は皆無だから、

「いわゆる病」がなぜランクインするのか、

その理由を推測できない。

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この話題に初めて接する人のために

少しおさらいをしておこう。

「いわゆる」とは、

「世間で言われている……」

「俗に言う」というのが本来の意味。

昔は「所謂」と書いた。

「いわゆる『働き方改革』のとばっちりで……」

「いわゆる『激レア』な人物なんです」

「いわゆる『自分らしく』っていう生き方ですよ」

などと使う。

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ときに、

相手があまりなじんでいないかもしれないコトバに

「いわゆる」をつけて

注意力を促すこともある。

「いわゆる『学際的』に協力し合っていますよ」

「いわゆる『言語本能』を刺激する意味でもね」

このほかの使用例では、

「いわば」に近いニュアンスで、

「いわゆる『風前の灯』ですよ」

「いわゆる『自然消滅』かな?」

というケースも少なくない。

このコトバの禁則は、

あとに「という」をつけること。

「いわゆる『働き方改革』というヤツのとばっちりで」

「いわゆる『自分らしく』という生き方ですよ」

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「いわゆる」には、

すでに「言うところの」という意味があるから、

それに「という」をつけると、

二重に「言う」を使うことになる。

これほど野暮な使い方はない。

さらに困惑するのは、

「いわゆる」で話し始めながら、

しばらく言いよどんで

「いわゆる……なんていったらいいのか……」

これをやる人間は、

かなりのお調子者と考えてよい。

(バカ野郎!! 最初のコトバも決まらないうちに

『いわゆる』なんて、もったいぶった言い方をするな!!)

もう1つの、超禁則使用例は、

特別の意味がない一般名詞に「いわゆる」をつけて、

「いわゆるパソコン」「いわゆる満月」

「いわゆる幸福」「いわゆるコトバのクセ」

などとやること。

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上の写真は、「平成最後の満月 419日深夜」

これらの誤用は「うっかりミス」では済まない、

野暮、能天気、はったり屋などが丸出しとなる。

とはいえ、実際には

これらは、あらゆる局のラジオ、テレビ出演者が

毎日のように事例を見せてくれる。


この種の実例に触れたい人は、

TBS系テレビの「ひるおび」のキャスター・恵某、

ラジオならこの3月末に放送終了した

「荒川強啓 デイ・キャッチ!」にレギュラーで出ていた

国際ジャーナリストと称する小西某、

日本テレビ系なら「ミヤネ屋」のメインキャスター。

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国際ジャーナリストの場合、

国際会議の同時通訳をすることを売りにしていたが、

ここまでセルフコントロールの効かない男が

正確な同時通訳なんかできるのか、

大いに怪しんだものである。

2人のテレビキャスターのほうは、

ともに「急性期」は過ぎて、

その頻度はだいぶ減ってきてはいる。

ところがつい最近、「ひるおび」で

ボード解説を担当していた若いアナウンサーが

シールをめくりながら、

突然「いわゆる」を頻発し始めた。

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ここに、このコトバを使う言語心理が見事に現われている。

「クセ」(癖)には「やまいだれ」がつくが、

厳密に言うと、

「いわゆる」の頻発は、

「あのォ~」や「え~と」などのように

うっかり出てしまうクセとは違って、

もう少し自覚的、確信的である。

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したがって、罹患者に対する同情はまったくご無用。

それどころか、その小心ぶり、

衒学性(げんがくせい=ひけらかし根性)、

品性の貧しさなどについて、大いに突っ込んでよい。

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いつも原稿を読むくらいのアナウンサーが、

フリートークで話ができるようになると

(実際には、パネルに従って話しているだけなのだが)

急に自分が偉くなったように錯覚して

無意識的に自分の立場をひけらかし、

視聴者に対して上から目線で「いわゆる」とやる。

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人のコトバの癖を論う(あげつらう)のは

あまりよい趣味ではないが、

上記の事例は個人的な「クセ」というよりも、

マスメディアという公器を使っての

国語の汚染だから

環境問題として認識する意味はある。

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それでなくても、

「注目を集める」「真摯に受け止める」

「多岐にわたる」「だから戦争はいけない」

「先行きは不透明」「しっかり対処します」

「忖度する」

などなど、

マスメディアや政治家からは、

空虚で、手アカのついたコトバを

ずいぶん刷り込まれているはずである。

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マスメディアには、

正しい情報を送ることと同等に、

正しい国語を使う責任と使命がある。

「コンプライアンス」とか「ガバナンス」とかは、

組織の弱点を指摘するときの

専用用語のようになっているが、

メディア自体、

こういうコトバづかいを平然と続けるのは、

まさしく組織のガバナンスに

問題があるからだろう。

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おもにテレビ、ラジオが振りまく、

不適切国語に感染しないためには、

その大小にかかわらず、

指摘したり、警告したりすることが

今後も必要だろう。

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そうか、

この「いわゆる」関連ページが、

もう少し「記事ランキング」の上位に

いてもらう意味はあるのかもしれない。


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by rocky-road | 2019-04-25 23:42 | 大橋禄郎 文章教室  

メディア・リテラシーの磨き方。

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大人のための文章教室「ロッコム文章・編集塾」は

2003年に開講し、今年で16年目になる。
当初は、岡山県や三重県、千葉県などから

通ってくれる人もいたが、

1回のペースで東京まで通うのはご苦労が多い、

と思われたので、

2008年に、

年に4回、1日かけて集中講義を行なう

「遠距離クラス」を、

おもに横浜で会場を見つけてもらって開講した。

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講義内容は、毎月クラスと同じだが、

毎月クラスと遠距離クラスとの

両方を受講する人もいて、

そういう人によると、

メンバーが異なると、

強弱のポイントに差が出て、

雰囲気はだいぶ違うと言う。

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遠距離クラスには

「近況報告」のコーナーを設けて、

各地の話題を提供していただいている。

このコーナーは毎月クラスにはない。

近況報告も

表現力強化の演習の一環として重要だから、

毎月クラスでも行ないたいが、

2時間授業の中では時間的にキツイ。

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近況報告では、

職場の話、講演会に参加した感想、

ご自分が運営する料理教室の現状、

雪が凍ってアイスパーンになっている道を

何回か転んでやってきたなど、

鮮度の高いローカルな話には惹きつけられる。

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当初は、1人で10分以上かけて報告をする人もいたが、

「あえて何分以内」と注文はつけず、

「これくらいの人数のときは、

1人がどれくらい話せばよいか、自分で判断して」

として、時間配分を各自に任せたら、

それぞれテーマを絞って

コンパクトにまとめられるようになった。

その前進ぶりは見事。

要領のよい報告スキルは、一生の財産になるだろう。

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遠距離クラス、毎月クラスとも、

このところは、

以下の宿題に、みなさん苦労している。

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 【出題】

 最近の新聞記事、テレビ・ラジオ番組の中から

 1つをとりあげ、(情報のまとめ方などについて)論じてください。

 10行で内容の概略、残りの20行で論評を

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この宿題の前段階として、

「メディア・リテラシーのセンスアップ」

という講義を行なった。

「リテラシー」については、

『ウィキペディア』で次のように定義している。

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 (英: literacy)とは、原義では「読解記述力」を指し、

 転じて現代では「(何らかのカタチで表現されたものを)

 適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」

 という意味に使われるようになり、

 日本語の「識字率」と同じ意味で用いられている。

 ちなみに、古典的には「書き言葉を正しく読んだり

 書いたりできる能力」と言う限定的に用いられる時代もあった。

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そして「メディア・リテラシー」については、

大橋はこう定義した。

 「(おもに)テレビ、新聞、雑誌など、

 マスメディアによってもたらされる情報を正確に理解する能力。

 『正確』とは、個々の情報の理解力にとどまらず、

 情報提供者の意図、個々の情報の因果関係、

 その情報の影響、時代性などを含む。

 あえてデジタル情報は、ここでは除外する。(大橋)

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講義では、メディアを通じて伝えられる情報は、

無限にある「真実」のごく一部であり、

厳密に言えば、

「真実」は、

11人の認識以外のところにはない。

したがって、

メディアで「真実」を伝えることは最初から不可能。

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かと思えば、意図的にある情報を

伝えないことをもって

情報発信者の意図を示す報道姿勢もある……

という話もした。

自分たちが好まない情報は、

ほかのメディアが報じても、

自分のところでは無視する、

などということは普通にある。

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こういう講義に沿った宿題だから、

論評はメディアの情報提供の仕方について

問うものであった。

が、課題では、

前述の( )内の「情報のまとめ方などについて」

を入れておかなかったので、

メディアの情報提供についての論評ではなく、

中身そのもの(記事に登場する論者の意見や

施策の是非など)に入り込んでしまい、

情報提供のあり方について論ずるものは、

1割にも達しなかった。

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最初のクラスの反応を見て、

あくまでも「情報の提供の仕方」

についての論評であることを補足したが、

2回目も惨敗だった。

出題内容がうまく伝わらなかった責任を感ずるが、

メディアのあり方について論ずるという

経験も情報もほとんどない、

というのが、

現在の日本の状況であることを

認めざるを得なかった。

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つまりは、

テレビ、ラジオの視聴者、

新聞、雑誌の読者の大半は、

内容について楽しんだり、

うんざりしたりはするものの、

制作者または編集者の思想、センス、

姿勢などに視線を向ける習慣がなく、

寛容に受け入れる傾向がある。

われわれは、そういう風土の住人ということだ。

とは言え、

メディアのあり方を論ずる雑誌は少なからずあるし、

新聞でも、月々の雑誌の論調を紹介する記事はある。

しかし、

それを読むのは「専門家」と思われがちなのだろう。

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メディアの利点・弱点を見抜く能力の強化は、

メディアにミスリードされないため、

または、

自己防衛のためというばかりではなく、

けっきょくは、

自分の立ち位置、

これから向かう道への選択眼を磨くことに有利。

メディア・リテラシーは、

つまるところ、

自分の人生の方向を読み解く能力にもなる。

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現在、宿題の再提出待ちのタイミングだが、

あえて、

テレビ番組を論ずる一例として、

NHKテレビの「鶴瓶の家族に乾杯」

という番組について、

ゆる~く論評してみよう。

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 【番組の概略】

 1995年から始まった、笑福亭鶴瓶主演の

 「ぶっつけ本番」番組。

 おもに芸能人がゲスト出演し、

 そのゲストが望む地域を訪ね、

 鶴瓶とゲストが最初は一緒に、

 途中から分かれて、

 それぞれが出会った家族と語り合う。


 【論評】(肯定的に論ずる例)

 芸人鶴瓶による、出会った人への話しかけ、問いかけ、

 インタビューは、プロのアナウンサーや記者でも

 かなわないほどの超一級。

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 テレビでは、事前に準備しておいて、

 いかにも「ぶっつけ本番」に見せる細工が大半だが、

 この番組では、ときに収録を断られる場面、

 放送には不適切な発言、

 訪問を受けた人たちの狼狽、 

 ガラスなどに反射する取材風景などを

 あえて写すことなどから推測して、

 「やらせ度」は比較的低いと見る。

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 とは言え、ゲスト出演の芸能人に

 インタビュー力を求めるのはムリで、

 2人が現地で別々の行動をとるとき、

 ゲストのほうの言動にじれったさを感じる。

 制作者は、それもたぶん読み込み済みで、

 鶴瓶の老練ぶりと、芸能人のドギマギぶりの対比で

 むしろ視聴者を引きつけるのかもしれない。 

などとするのかな?

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ともあれ、

大人の文章教室は、

句読点の打ち方や

敬語の正しい使い方などのところで

足踏みしているわけにはいかない。

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「人は文章で考える」であり、

「編集は豊かな人生のプログラムづくり」である。

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by rocky-road | 2019-03-31 22:40 | 大橋禄郎 文章教室  

「健康」が見えてきた、かな?

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コミュニケーション研究会 ひろしま≫開催のセミナー、

.「食コーチング」提唱から16年。

  いま想うこと

  (講師 影山なお子さん)

  20193月9日() 終日

2.記号としてのモノ、衣服、スタイル

  --その意味と活用--

  (講師 大橋禄郎

  同年3月10() 終日

  (ともに広島県三原市 市民福祉会館)

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この2つのセミナーが終わった。
ここでは、2日目のセミナーについて

少し補足しておこう。

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この世に存在するものすべてに記号性がある、

という講義をした。

地球に人間がいなくても、

動・植物はもちろん、鉱物も、

昔っから記号性を持って存在している。

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それは大宇宙のデザインにほかならない。

植物は、色や形、香りや発光性などを

記号として使って動物を惹きつけ、

地球上に分布している。

チョー後発の人類は、

こうした豊かなデザインに囲まれれることによって、

知性や感性を発達させてきた。

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モノがそこにある、ということは

「記号性を持つ」ということと同義である。

空気もアミノ酸も、

裸眼では見えないが、

それでも人間は「ある」ことに気づいて、

それを記号化し、共有物とした。

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衣服は、記号そのものである。

人類の一部は、

いまもって裸体をさらして生活をしているが、

それでも、鼻や首、手首や足首にリングを巻いて

なにかをアピールしている。

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衣服の第一目的は、

かならずしも身体を外界から守ることではなく、

時と場合によっては、

記号による情報発信こそがおもな目的となる、

ということか。

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健康支援者が

なぜ記号について学ぶ必要があるのか。

それは、「健康」という、目には見えない、

いやもともと実体のないものを

扱うことで商売をする仕事人だからである。

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健康も病気も、

元気も強気も弱気も、

指さすことができない現象である。

それらが見えるのは、

それぞれを記号化して、

つまりコトバに置き換えて認識するからである。

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健康支援とは、

見えないものをコトバにしてゆく作業である。

生きがい、希望、健康、協調、寛容、友好……。

それらのコトバを多く持っている者、

適切に使うことができる者には、

好ましい健康支援を行なう可能性がある。

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その一方で、

あえて言語記号にしないままに、

健康情報を発信して効果をあげる時と場合もある。

それが表情であり、微笑であり、

姿勢であり、歩き方であり、仕草であり、衣服である。

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今回、強調したのは、

自分が発信する記号情報の発信先は、

他者とは限らず、自分自身でもある、ということ。

「自分とのコミュニケーション」は、

記号をたくさん作り出した人間ともなると、

その頻度はハンパない。

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「あしたは5時に起きよう」

「あの渋い顔、この会議を低調にしているようだ」

「母に、あそこまで言うべきではなかったかも」

などなどの自問自答は、

自分とのコミュニケーションそのもの。

脳内にプログラムを生み出すこと(アウトプット)にほかならない。

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無表情、地味過ぎる衣服で

人に健康の大切さを説く者は

自分とのコミュニケーションが不完全である。

「地味過ぎる」とは、

たとえば、灰色、茶、カーキ色、

あるいは迷彩色系などのアウターを着ること。

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聞けば、「カーキ」とは、

ヒンディー語で「土ぼこり」のことだというではないか。

別名「枯草色」、

戦時経験者に言わせると「国防色」、

当時の定義では「帯青茶褐色」だとか。

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ついでに言えば、日本語には

灰色、茶色、カーキ色などの固有の語はない。

赤や白、黒のように、独自の名称は持たず、

「灰」や「茶」(お茶)、「土ぼこり」などの名を借りた、

仮の名である。

これって、幸いなことかも。

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いずれにしろ、

21世紀の先進国で、

こんな色を身につけることは、

ほこりっぽい、冴えないライフスタイルを

自分に刷り込むことにほかならない。

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≪コミュニケーション研究会 ひろしま≫の

次回の講義は今年7月21日である。

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このとき、

彼女たちの衣服記号がグレードアップしていなかったら、

今回の講義は失敗ということになるだろう。

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by rocky-road | 2019-03-22 23:19 | 大橋禄郎 文章教室