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公共放送の日本語力。

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1110日の「祝賀御礼の儀」を

NHKテレビの実況放送で見ていたら、

原稿のない、フリートークをするときの

アナウンサーの日本語力の弱さを

改めて実感した。

両陛下を沿道でお迎えする人たちは、

事前に手荷物検査を受けて

沿道の歓迎スペースに入ることになるのだが、

これを実況する女子アナは、

「ここをくぐり抜けた人だけが中に入れるのです」

というような説明をしていた。

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「くぐり抜ける」とはなんだ?

『広辞苑』では、「①くぐって通り抜ける。

②危険や困難な事情をうまく処理して

生き延びる」としている。

沿道に小さなトンネルなどないから、

ここでは②の意味。

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手荷物検査をくぐり抜けるという場合、

今日の意味では、

物騒な目的を持った者(たとえばテロリスト)

警察のチェックを巧妙に突破する……

などということになるだろう。

祝賀パレードを祝う人たちに対して

なんと場違いな表現をするのだろう。

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このレポートに続いて、女子アナは

沿道の人たちの声を拾うのだが、

このときには、

「〇〇県から来たという40代の女性は……」

「〇○県から来たという家族は……」

と紹介する。

「来た」は、いかにも粗雑。

なぜ「……いらした」というコトバが

さっと出てこないのだろうか。

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その前日、夕方の天気予報では、

女性の予報士が「あしたパレードを

見に行く人もいると思いますが、

あしたは絶好のパレード日和です」と。

気象予報士に限らず、アナウンサーも

しばしば視聴者に対して

「……する人もいると思う」と表現する。

せめて「人」を「方」に、

「いる」を「いらっしゃる」のように、

ていねい表現ができないものか。

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さて、パレードが通り過ぎたあと、

沿道の人たちから感動の声を求めるのだが、

ここでもマイクを向ける女子アナは、

「お2人の表情を見ることができましたか」と

「見る」を連発する。

せめて「ご覧になれましたか」と言えないのか。

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むしろ沿道の人のほうが

整ったていねい表現をしていた。

「お姿を拝見して、来てよかったと思います」

「お2人のお姿をしっかり拝見できました」

小学生さえ「お姿をこの目に焼きつけました」と。

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沿道と二元中継をする

スタジオでの男性アナウンサーのほうは、

(皇后さまは)「左右の沿道にいる人たちに

手を振られて……」と、伝える。

「沿道にいる」はないだろう。

「いらっしゃる」が使いにくいのなら、

いっそ「いる」を省いて、

「沿道でお祝いする方々(または「人たち」)に……」

「手」は「お手」が柔らかい。

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こういうイベントは、

しばしばあることではないから、

放送関係者のほとんどが初体験だろうが、

この種のイベントについては、

こういう認識をしていただきたい。

すなわち、沿道に集う人たちは、

祝賀行事に自由意思で参加した、いわばゲスト。

事件や事故に集まった野次馬とは意味が違う。

NHKが主催したイベントではなく、

宮内省が行なう行事である。

とすれば、

そこに集う人たちは他者が招いたゲスト。

となれば、一定の敬意が求められる。

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なおかつ、その多くは、

NHKから情報を有料で買っているお得意さんである。

だから、それなりの配慮をもって語りかけるべきだが、

エリート意識の強いNHK職員には、

そういうセンスはない。

今回の放送を聞いていてわかったのは、

皇族に対する敬語は、

動詞に「れる・られる」をつけるパターンに

統一しているらしいこと。

「れる・られる」は、

ていねい表現として、敬意の低いカタチ。

「笑われる」「乗られる」(手を)「振られる」

これを「お笑いになる」「お乗りになる」

(手を)「お振りになる」とすると

ずっと敬意も親しみも増す。

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NHKの感覚では、

動詞に「お」をつけて「なる」で結ぶカタチは、

敬意過剰と感じるのかもしれない。

(お話になる)

あるいは、現場のアナウンサーに

いろいろの敬意表現を指導しにくいので、

マニュアル的に

とりあえず「れる・られる」をつけろ、となったのか。

しかし、言語表現は、

時と場合で臨機応変に対応しないと

窮屈で単調、心の通わないものになる。

NHKは、

かつての「賢くも天皇陛下にあらせられましては……」

のような表現に近づくのを恐れるあまり、

幅が狭くて抑揚のない、非個性的な表現を、

有料で日本中に広めている、

というのが現状であろう。

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ふだん、人を心から敬う生活に不慣れな人が

過半数を占めるであろう公共放送局のこと、

そのことによる悪しき環境づくりに

自分が加担していることなど、

思いもよらないことであろう。

天皇であれ、総理大臣であれ、

外国からの来賓であれ、

そして、あしたの天気を気にしている視聴者であれ、

人に対する敬意表現を狭めることは、

国民の情緒を低下させ、

品位や民度を下げることにつながる。

その可能性を認識させる職員教育や

局内の環境づくりの策はあるのか。

このケースも

「NHKから国民を守る」テーマになる。

公共放送局の品位は

内部からは改善される可能性は少ない。

とすれば、

受信者のアピールは、

なにかにつけて必要となる。

ちなみに、新聞のテレビ、ラジオ欄には、

各局の窓口となる電話番号が載っている。


by rocky-road | 2019-11-16 21:55  

コトバは乱れるものなのか。

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食ジム≫第80回で「日本語力の強化」について

話し合ったり

 (「栄養士・健康支援者は『日本語力』を

 どう強化すればよいか」 

 2019年8月25日 横浜・関内ホール)、

ロッコム文章・編集塾の毎月クラスでも、

言語センスをどう磨けばよいか。」

授業した余韻もあって、

いつもよりは日本語の現状について

敏感にならざるを得ない。

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そういう神経過敏状態にあると、

たとえば「ネグレクト」というカタカナ語が

棘のように、わが言語神経に刺さる。

「無視すること。放置すること。怠ること」

あるいは「育児放棄」「児童虐待」

などの意味があるらしいが、

これをカタカナ語によって話題にする理由がわからない。

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「児童相談所」--これを「ジソウ」と略す、

このセンスもわからない。

どうやらこの分野は、

日本語をわかりにくくすることで、

深刻な問題から目を逸らそうという

深層心理が働いているように思える。

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そして、ここで働く人は、

ほかの職場では使いモノにならない、

ややトロいタイプなのか、

いや、そうではなく、

この職場に来ることで神経が鈍くなるのか、

精神医学的な解析をしてみたい。

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所長クラスの人間が、毎度毎度、

「やることをやっていたけれどこうなった」と

無表情に言うのを見ていると、

フツーの神経ではやってはいけないほど

日々、難題に直面するのかもしれない。

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踏切内でトラックに電車が激突した事故、

電車に乗っていた人へのインタビューが

テレビで放送されていたが、

「ドカンという音がして、みんなが倒れたというか、

もうパニックですよ」

「なんていうのか、あわてて後ろから線路に降りました」


九死に一生を得た人の感想が「倒れたと言うか」

「なんていうのか」だと?

倒れたんでしょ? 

「あわてた」というコトバが

さっと出てこないの?

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これは、

インタビューを受けた人が若いから、

言語能力がまだ未完成だから、

と思いたいが、

ラジオでは、

経済関係の専門家らしきゲストが、

「なんて言うのか」を1分間に5回も続けた。

昔、レコード針がレコードの溝にハマったとき、

こんな状態になった。

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そんな話を綴っていたら、

けさ(9月10)の『読売新聞』に

言葉が運ぶ あなたの物語」と題する、

日本語検定 受検者100万人記念対談」の記事。

梶田叡一/日本語検定委員会理事長と、

シンガーソングライターの松任谷由実との対談なのだが、

なんとも抽象的でポイントのない内容。

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梶田「長い間に、日本語は変わってきています。

 乱れと言わざるを得ないのは、

 例えば、若い世代の間のみで通じて、

 ほかの世代には全然通じない言葉遣いでしょうね。

 誤解を生むことになれば、

 変化と言うよりは乱れといった方がいいのかな。」

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松任谷「むしろ積極的に仲間内だけで通じる言葉を

 作っているところがありますね。」

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梶田「例えば『やばい』。昔は『危ない』という意味でした。

 今は感動しても『やばい』、

 非常に注意しなければならない状況も『やばい』で

 多義的になっています。

 仲間内で通じいると思っていても、

 実は誤解を生み出すもとになるのであれば、

 考えものでしょう。」

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松任谷「どういう不快さかを言語化できないと、

 大人になって社会で壁にぶち当たる。子どもの頃は

 『ヤバ』や『キモ』、『ウザ』だけで表現してきたことも、

 そこには複雑な要素がある。自分の中で感情などを

 細かく丁寧に言語化することは、豊かな時間を

 大人になって過ごすための大事な修練だと思います。」

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日本語検定の最高責任者が、

この程度の常識的な見解しか示せないのかと

案じられる。

日本語に限らず、コトバは年月を経て変わるものである。

人間の思考だって、骨格だって、表情だって、

変わるのが当たり前。それが適応である。

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「コトバの乱れ」とはなにか。

若者のコトバと、そうではない者のコトバは昔から違う。

ユーミンが言うように、

「むしろ積極的に仲間内だけで通じる言葉を

 作っている」のである。

人がアイデンティティを獲得する過程では、

仲間意識の確認が必要。

そのようにして、

「違いのわかる人間」に育ってゆくのである。

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「ヤバい」の意味が変わるのを「ことばの乱れ」

などと言っていたら、

われわれはいまも大和時代、奈良時代のコトバを

使い続けねばならない。

「言う」を「言ふ」と書き、

「チョウチョウ」を「てふてふ」と書かねばならない。

いや、それ以前に、

文章は万葉仮名で綴らなければならない。

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ヒトはコトバを「乱す」ことによって

コトバの使い勝手をよくしてきた。

「乱す」動機の多くは「最適化」(カスタマイズ)である。

虹を「きれい」「美しい」としか形容できなかった人が、

あるとき「ヤバい」と言ったとき、

本人にとって、虹の美しさは、

より深く認識されたことになる。

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コトバの「乱れ」とは、

多様性への試行であり挑戦である。

新しい概念を認識し、新しい感性や知性を磨いてきた。

日本語検定に深くかかわる者に求められるのは、

「コトバの乱れ」とは何かを、まず定義することである。

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笑えるのは、こんな発言をしているところ。

梶田そういう意味で、

   言葉にセンシティブでなければいけない

そこでカタカナ語を使う必要ある

敏感であってほしい」「美意識をもってほしい

などと言うほうが伝わりやすくない

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対談の中で「仲間内で通じると思っていても、

実は誤解を生み出すもとになる」と

発言しているではないですか。

「センシティブ」って、一般的日本語?

このコトバ、読者に伝わるのかしら

コトバ、乱していない


つけ加えれば、

この対談は、企画の失敗。

「受検者100万人記念」なのであれば、

記者か、コトバの専門家が

日本語検定委員会理事長にインタビューすればよかった。

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「……とすると、『ヤバい』は本来の意味で使うべき、

ということですか」

「今後、『ヤバい』はどう変わっていくと思いますか」

「日本語のセンスをよくするには、

 どのような勉強をすればよいのでしようか」

などと問いかける。

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あるいは、
ユーミンに、だれかがインタビューをする。

コトバのプロのユーミンと、

名誉職にある心理学者とでは

互いにエラ過ぎてミスマッチ。

「相殺」(そうさい)という日本語、

こういうときに使うのだろうか。

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さてさて、
前述の「……というか」や「なんて言うか」
という流行りコトバの話に戻ろう。
この表現形式、つまりは一発で決めない、
余韻を残しておいて話を引っ張る。
電車が線路上で止まっているトラックに激突したら、
「倒れたというか」なんていう程度の衝撃ではなく、
「吹っ飛びました」でしかなかろう。

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社会環境として見れば、
この国全体が弛緩状態。
平和ボケが言語表現にも現われている、
ということだろう。

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しかし、平和にもストレスはあって、
家庭内暴力とか、いじめとか、あおり運転とか、
身近な弱い者への攻撃とかと、
成果のない、
内部へと向かうモチベーションばかりが高まる。

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精神医学的には、
リスやネズミのように
つねに退路を考えていて、おどおどしている。
1つのことを言うのにコトバを2パターン用意しておいて、
相手によるコトバの適切度チェックから逃れようとする。

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タコやイカのスミのことを
昔は煙幕と言ったが、
海で観察していると、
スミは煙のように広がらず、
むしろ黒いカタマリになって漂う。
そこにだれかがいるように見える。

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それに相手が気を取られているうちに、
自分は姿をくらます。
「……というか」も同様。
2つコトバを並べて、相手の注意力を分散させる。


もう1つの見方は、
モノには多様性があるから、
1つのコトバでは表現しきれないところがある。
科学や深い思考の結果を表わすとき、
「その点は演繹的思考とも言えるし、
帰納法的論法とも言える」
なんという表現をする場合がある。

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「って言うか」のルーツには、このカタチがあるかもしれない。
知ったかぶり、偉そうぶりのことを
「衒学的」(げんがくてき=ひけらかし野郎)

と言うが、「いわゆる」と同様、
「国民総衒学化」現象とでも言ったらよいのか。


しかし、ヒラの「日本語非検定協会」会員は、
これをも「コトバの乱れ」とは言わない。
あえていうなら「コトバの揺れ」かな?
揺れは、しばらくすると収まるものである。

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しかし、コトバには品位がある。
短パンにサンダルをつっかけて
飛行機に乗り込んでくる人間の服装に品位がないように、
「社長、それってヤバくないすか」や
「なんて言ったらいいのか、コトバって言うか、
言語っていうか、ボキャブラリーっていうか、
そのあたりに人間の品格って、出る的に考えます」
には品位はない。

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日本語検定には、
もちろん品位度チェックの審査は

入っているのでしようね。



by rocky-road | 2019-09-11 01:01  

「お笑い系作家」の孤独ジョーク。

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作家にも「お笑い系」というタイプがあって、

大いに笑わせてくれる。

ちなみに「お笑い系作家」は、

ユーモア小説の作家とは違う。

ユーモア作家は

静かな語り口ながら

読者をにゃりと笑わせようと、

こちらの反応を読んで仕かけてくる。

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クァレスキの『ドン・カミロの小さな世界』や

ジェロ―ム・K・ジェロームの『ボートの三人男』

北 杜夫の『ドクトル・マンボウ航海記』

山口 瞳の『江分利満氏の優雅な生活』

畑 正憲の『われら動物みな兄弟』

などには、

かつて大いに笑わせてもらった。

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「ドクトル・マンボウ」にはこんな一文がある。

(以下、記憶による大意)

「目には眼力というものがあるから、

じっと見ていると、その部分になんらかの変化が生じる。

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そのため、フランスのルーブル美術館には、

眼力によって名画から剥離する絵の具の粉を

チリ取りで掃き取る専門の係員がいる。

とくに剥離が多いのは裸体画の床である」と。

では、お笑い系作家とはどういうタイプか。

最近では、「孤独」を人にすすめて儲けている作家。

そのご仁が、新聞社が主催する講演会に登場するという。

いわく「孤独を楽しむ極意を語る」

先着500人、受講料1,800円也。

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大真面目に、やや憂いを含んで

孤独を売りまくっている現実に、

思わず笑いがこみあげてくる。

孤独を人にすすめる人が、

500人もの人を集めてはいけないし、

そんな話を聞くために

孤独好きの人は、そんなところへ出かけてはいけない。

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この作家、雑誌やラジオなどでも

しきりに孤独をすすめている。

「〝孤独〟と〝孤立〟は違います」と言う。

では、『広辞苑』はどう定義しているか。

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「孤独=①みなし子と老いて子なき者。(太平記)

 ②仲間のないこと。ひとりぽっち。」

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「孤立=他とかけはなれてそれだけであること。

 ただひとりで助けのないこと。」

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どこが違う? 同じようなものではないか。

さらに言う。

「孤独は、人と交わらないことではない。

でも、人と会うとき、

この人たちとは自分がどう違うのか、

それを確認するとよい」(大意)と。

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なんていやな奴だろう。

仲間というのは心を開いて打ち解けるから

仲間意識が生まれるもの。

人を見て、自分の特徴を確認するような奴と

親しくなろう、などと思う者はいない。

したがって、

そんな奴は、確かに孤立して、孤独になる。

そういうのを「極意」というのか。

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それにしても、

作家とは思えないほど、

コトバの使い方や解釈がラフである。

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この作家、超多忙で、その理由を

近著『作家のおしごと』という本で公開している。

小説、作詞、講演会、対談、インタビュー、

連載、推薦文、解説、紀行文、ロシア文学。

とても孤独を楽しんでいる余裕などない。

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念のために言うが、

1人でするデスクワークは孤独とは言わない。

読書をする状態を孤独とは言わない。

1人暮らしをしていても、

数百万のファンを持つ作家を孤独とは言わない。

1人旅も、1人での入浴も、

それだけでは孤独とは言わない。

この作家、なんでもこなすので、

孤独の経験など、ほとんどないはずである。

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心配なのは、

そういう「思いつき孤独」「ご商売孤独」によって

ミスリードされる人がふえる可能性。

件の講演会に集まる人は、

孤独でないような気がする。

「知的孤独」(思考の対象とする)

「孤独ぶり愛好家」と言うべき人が

過半数を占めるのではないか。

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ヘルスプロモーション(健康促進行動)の観点から言えば

孤独のすすめは、喫煙のすすめ、深酒のすすめ、

塩分多量摂取のすすめ、肥満のすすめ、

粗食のすすめなどと同じくらい、

反健康的、反社会的な誘導である。

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各地域で、

健康寿命を延ばすために、

または認知症の発症を遅らせるために、

地域の人たちに

人と交流させたり、

頭を使わせたり、

運動量を増やしたり、

動物と過ごさせたりしている現状を

この作家は考えたことがあるだろうか。

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しかし、このご仁は、

今後、ますます調子づいて

「孤独をすすめ」を拡散させるだろう。

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こうした事例から学ぶべきは、

人は齢をとれば分別がつく、

見えないものが見えてくる、

などということはない、という事実である。

この作家、80歳代半ばという。

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なのに、自他の区別がつかない。

毎日、執筆や講演の依頼があり、

生きている間には使いきれないほどの収入があり、

さすがに、「作家のおしごと」に

少々うんざりしている自分と、

身寄りがなく、天涯孤独の人や、

気質的に人と交われない人との区別がつかない。

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これは高齢による認知機能の低下などではなく、

どんなに見当違いの思いつきであっても

そこそこ商売になることを

50余年の作家業によって刷り込んできた、

特異なキャラクターの思い上がり以外の何物でもない。

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講演会の当日、

別の集まりがあって、会場に行けないのが残念。

いや、講演を聞く気などまったくない。

そうではなくて、

入場者を観察したい。

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性別、年代、

連れ立ってくる人、

1人で来る人の割合、

表情などを観察したい。

主催者にお願いしたいのは、

入場者の「孤独度」「ライフスタイル」などを

推測できるアンケートの実施である。

いやいや、

ひょっとしたら、

そういう情報集めのための企画なのかもしれない。



by rocky-road | 2019-03-02 23:37  

大きな声で、ゆったりと。

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2013年1月27日に始まった

パルマローザ主催の「輪読会」(りんどくかい)は、

この回(2019年2月17)で14回を数えるに至った。

輪読は、大学などでは、

少数のゼミなどで行なうことがあるし、

自主グループが、それぞれの本を持ち寄って、

読み合うこともある。

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「輪読」とは、

1人ずつ、リレー式に数ページを読むこと。

「輪」は、「回る」「回す」という意味。

そのメリットは、「一所懸命」に集中できること、

いま読んでいるところを「見失ってはならじ」と、

懸命に目で追うことになる。

指導者または参加者のコメントや問いかけによって、

行間や背景まで読み込むことができること、など。

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今回のテーマは「食文化の前後左右」。

食文化関係の本を読むのはこれで3回目。

1回目は「食文化に視点を持つ。」(201610)

2回目は「日本人の食文化史を振り返る。」(20178)

そして今回。

この回では初めて海外の食文化の記述を読んだ。

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「手食をめぐる作法」は、

『アジアの食文化』という本の一部で、

スリランカの人たちが

手で粥やおかずを食べる様子を細かく記述している。

民族学や民俗学、文化人類学、動物行動学などなどでは

「フィールドワーク」(学術的な現地密着調査)

基本中の基本と位置づけ、

現地の人(ときには動物)と生活を共にして

長期間、観察記録をする。

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今回、テキストに選んだのは、

上記のスリランカ人の手食文化、

もう1冊はタイの北西部に居住する

「首長族」(通称「カレンニー」)

かれらは、ミャンマーでの紛争を避けて

長期的な「難民」となってそこで暮らしている。

そんな不安定な地域にも、

「フィールドワーカー」は入り込んでいる。

ちなみに「首長族」とは、

首に金属のリングを幾重にも巻きつけるので、

首のつけ根や肩が沈み、首が長く見えるから、とか。

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日本の食文化に関するテキストは、

「幕末京都町人のくらしと食」

呉服屋である水口屋の主が

2代にわたって38年間、日記を書き続けた。

この日記から食関係の記録に注目した

島崎とみ子氏の論文である。

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もう1冊は、社会学の世界から

「外食産業」の歴史を

各種の資料からたどったレポート

(加島 卓氏執筆)

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そして、

健康支援者や栄養士が

日常的に視野に入る『フードファディズム』

(食と健康との関係を過大に結びつける考え方)

著者の高橋久仁子氏は、

日本で最初にこの概念を紹介した人。

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高橋氏がそこまでのいきさつを述べた

冒頭部分を輪読した。

それによると、

1991年に『Nutritionand Behavior』という本に出会い、

それを和訳して『栄養と行動 新たななる展望』

というタイトルで出版した。

これが「フードファディズム」という概念が

日本に広まるきっかけになったという。

behavior」は態度、習性、生態などの意味。

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原著のタイトルも、訳本のタイトルも

けっして見事とは言えないが、

それでも内容がよかったのと、

高橋氏が粘り強く発言したことによって

日本で知られるようになった。

(とはいっても、まだまだ知る人は少ない)

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原著者の名は示されていないが、

1章 序章の書き出しの部分なかなかシビれる

(高橋氏訳)

「ネアンデルタールの狩人と

20世紀のアメリカ人のように

異なる集団にあっても、

人々は自分達が食べる食物は行動に強力な影響を与えると、

一貫して信じている」

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フードファディズムの本質が

軽妙なフレーズでバシッと示されている。

こういうフレーズがさらりと出てくるところが

アメリカ人(? または欧米人)って、すごい。

こんなタッチで序文を書いてみたい。

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ところで、

輪読会のよいところとして、

前述のように、

多様な種類の書物に出会える、

深読みができるなど、メリットが大きいが、

忘れてならないのは、

音読による一体感や

音読を聞く者にとっての癒やし効果。

スラスラと読むことが

「うまい読み方」ではない。

内容に沿った、

耳に入りやすい速さで、

穏やかに、温かく、わかりやすく……。

音読力は、本人および人類の健康度をあげるはず。

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お経も、音読することで、ありがたさが増し、

その意味もわかりやすくなる。

次回には、

音読理論をまとめて、

前置きに講話でもしようか、と思う。

「けっして判決文や差し押さえの通告書のように

冷たく読んではいけません」

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すべての小中学校の先生に申しあけます。

「けっして、スラスラ読んだ子を

ほめすぎないようにしてください。

つっかい、つっかいでも、

味わいのある読み方をする子をほめてください」と。

次回は、小学生のように、

または法事ののときのように

全員で音読するのもいいかもしれない。

困るのは、会場を選ばないと、

近隣からクレームが出る可能性。

いずれにしても、

輪読文化は

もっと大事に持続したければならない読書法である。

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by rocky-road | 2019-02-24 00:08  

あなたの5年後は?

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ロッコム文章・編集塾の毎月クラスでは、

「私の5年後」を構想する宿題や、

「私にとっての平成時代」をまとめる宿題を出すなど、

前を見たり、うしろを振り返ったりする機会が続く。

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「私にとっての平成時代」の課題を発表したら、

いくつかのクラスから「わぁッ~!」と

声があがった。

過去と未来を巧妙に組み合わせた宿題に

感動してくれたのではなくて、

難儀そうな出題に嘆息しただけのこと。

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平成の30年という歴史を600字にまとめる、

そこには手際のよい要約力と

その人らしい視点が求められる。

「わぁッ~!」には、

実のところ「いっちょ、やたるわ!!」という

気合いや雄たけびも籠っているのかもしれない。

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提出の早いクラスの原稿を見ると、

これがなかなか泣かせる。

未提出クラスもあるので、

くわしくは書けないが、

塾生の多くにとっては

社会へのデビュー時代であったり、

人生の大半を占める

波乱万丈の時代でもあったりする。

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ちなみに、私にとっての平成の30年は

勤めを退職したあとの「あっ」という期間である。

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出題される側にとっては、

「これまで生きてきた全人生を語れ」

といわれてもまとめにくいが、

「平成時代」と期間を限定されると

いくらいかは、まとめやすいはずである。

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近年は「70年代」「80年代」などという

西暦に従う言い方が主流になりつつあるが、

和歴(元号)のほうがイメージをまとめやすい……と思うのは

昭和初期以前生まれの人の感覚なのか、な?

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西暦のように

10年刻みのほうがコンパクトだし、

計算もしやすい。

欧米人は2000年もの間、

それで不自由なくやってきているのだから、

慣れの違いだけかもしれない。

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しかし、である。

『言語の脳科学』(酒井邦嘉著 中公新書)

という本によると、「失読失書」という障害があるそうで、

それは、生まれつきや、一定の年齢に達してから、

覚えている字が読めなくなったり、

書けなくなったりする障害だという。

欧米では人口の510%もの患者がいて、

学校教育の問題になるという。

その要因の1つとして、

表音文字が疑われているらしい。

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そういえば、『日本人の品格』で知られる藤原正彦さんは、

アメリカの若者には、

night」を「nite」と書く者がいる、

と雑誌で書いていた。

日本人でも「灰皿」は読めても

「はいざら」は読めなくなる障害があるという。

漢字は、覚えにくい反面、

一度覚えると忘れにくいという。

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メリハリのない1990年、2000

といった数字に愛着を抱くためには、

60年=小学校入学、

70年=転居、

80年=結婚……のように、

なんらかのイベントや記号と

結びつけて記憶することになるだろう。

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少し寄り道をしたが、

わがロッコム文章・編集塾では、

開塾(平成15年 2003年)以来15年間に

1本計算で、

少なくとも180本の宿題を課したことになる。

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長期に通っている人は、

100本以上の宿題を書いたことになる。

「大人は勉強しなすぎる」

という思いから始まった当塾としては、

塾生各位の潜在ニーズに少なからず

応えてきたと思っている。

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ときどき、

「講義(テキスト)のテーマがよく尽きない」と

指摘されるが、

みなさんの宿題の文章の中に

課題がぎっしり詰まっている。

たとえば、

「私の5年後」を構想する宿題では、

将来、本を出したい、という人が何人かいる。

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これを夢に終わらせないためには、

そのための考え方やアクションプランを

テキストにして講義することになる。

社会人は、大学生と違って、

すでに「将来」へ足を1歩も2歩も踏み入れているので、

すぐにでも着手したいことが多い。

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お笑い芸人(にしておくのは惜しい人)「パックン」こと

パトリック・ハーラン氏が

ラジオでいいことを言っていた。(要旨)

「夢を持つということは、野球の試合みたいのもの。

夢は、9イニングで結果が出るにしても、

1イニングから攻撃が始まる。

点を取ったり取られたりしつつも、

それは9イニングまでの、

試合に決着がつくまでのプロセス」だと。

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多くの人にとっては、

試合はすでに始まっている。

とにかく打席には立たねばならない。

「野球はゲタを履くまでわからない」と、

昔の人はよく言った。

つまりは、9回裏の最後の打者が

ボールカウント「ツースリー」(いまは「スリー ツー」の順)

になっても、まだ勝敗は決まらないものだ、と。

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当塾としては、

ゲームセットになるまでは、

講義や宿題においてはビシビシ投げ込んで、

塾生を追い込んでいこうと、しきりに思う。

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5年後に、だれが、どんな本を

出版していることだろう。

そのためには、

すでにでもプロットを立て始めなければならない。

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by rocky-road | 2019-02-03 22:22  

「健康」のリテラシー。

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恒例のパルマローザ

新春ブラッシュアップセミナー」が終わった。

2019119日/日曜日)

演題「『健康軸』で考える、人、社会、モチベーション。」

(横浜市技能文化会館)


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このところ、「健康」の環境性、思想性、

モチベーションとしての意味などについて

考えることが多い。

食生活雑誌時代の仕事は

「健康」がメインテーマであったが、

故・豊川裕之先生の講演で、

「健康は目的ではなく手段ではないか」という

予期せぬ目標を示していただくことになった。

以来、「健康とは何か」は、

私にとっての哲学的テーマとなった。

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セミナーでは、

健康環境とはどこまでを言うのか、

それをみなさんに問いかけた。

結論を先に言えば、

宇宙が膨張を続けている限り、

健康環境もまた無限である。

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少なくとも、

WHOが1946年に提示したような、

「単に病気がないとか、虚弱でないとかというだけでなく、

身体的にも、精神的にも、社会的にも完全な状態」

なんていう狭いものではないことは確かである。

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今回は、健康環境のほんの一部に過ぎない

日本という国の健康度、非健康度や、

思想の健康度、マスメディアの健康度

という尺度を示してみた。

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たとえば、資本主義と社会主義との健康度、

右翼と左翼の健康度、

愛国的日本人のメンタリティと

反日的日本人のメンタリティの健康度、

新聞の健康度、テレビの健康度、雑誌の健康度、

一神教の健康度、多神教の健康度、

極上の孤独愛好者の健康度、

極上の組織プレーを楽しむ人の健康度などなど。

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もちろん、

どちらかに軍配をあげるような野暮は避けた。

健康は、けっきょくは個体差。

人それぞれである。

平均寿命が短い国、貧しい生活の連続、

言論の自由が許されない国にいても、

自分の健康度を良好と感じている人は

少なからずいるはずである。

ハングリー精神には

それなりの健康性はある。

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セミナーで、

健康環境というものが

いかに広く、いかに流動的で、

いかに不確定であるかをお伝えできたとすれば、

それで充分だと思う。

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いまは、もっぱら医療的チェックが

健康度を測るスタンダードになっているが、

そこにとどまるのではなく、

いろいろの基準を設定して、

健康度を複合的に見てゆく必要がある。

体重や食事の内容だけで

健康度を評価することは、

うっかりすると、

その他の「健康の芽」を摘んでしまうことにもなる。

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「健康のリテラシー」を深めることが、

このセミナーでのメインテーマであった。

『健康という病』とか、

『極上の孤独』とかの、

いわば「健康無知」の本が売れる国では、

少なくとも健康支援者が、

「健康」を読み解く能力を

もっともっと高めていく必要がある。

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「健康」のうれしいことは、

人の健康を促すことは、

自分の健康度があがるという点であり、

健康が生きる目的ではなく、

人生を楽しく、有意義に送るための

手段であることを

心から理解することになる点である。

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by rocky-road | 2019-01-23 12:59  

白い水仙と灯台の物語。

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水仙には思い出がある。

ある年の正月、

見知らぬ女性から絵ハガキが届いた。

そのハガキの写真は爪木崎である。

読むと、

私が連載中の雑誌に書いた

「白い爪木崎」という文章に共感して、

伊豆半島の先端にある爪木崎に来た、

いま、そこで絵ハガキを書いている、と。

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関西在住の人とかで、

『海の世界』という、その雑誌を読んだという。

船員向け、船好きの人向けの雑誌であった。

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連載記事について

少し前置きをしておくと、

当時、私が所属していたスノーケリングクラブでは、

毎年、正月はどこかの海に出かけた。

爪木崎には何回か訪れている。

そこには灯台があって

海の中からそれを見るのは、

なかなかの風情であった。

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もう1つの見どころは、

灯台の下の海岸に自生している水仙である。

正月前後のシーズンには開花し、

周辺を白い花と香りとで華やがせた。

連載記事は、そこを訪れたときの話である。

その年は開花が遅れていて、

私たちが灯台下で潜ったときには

まだほとんど開花していなかった。

旅から帰って数週間後、

弁当箱よりやや大きめの段ボール箱が届いた。

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あけると水仙の花の部分約20センチのものが

20本ほど入っていた。

爪木崎の民宿の娘、小学6年生の弘美ちゃんが

水仙を摘んで送ってくれたのである。

当時は宅配便はなく、小包だった。

「おいでになったときは咲いていなくて

残念でした。

いまごろ、ようやく咲いたのでお送りします」

という手紙が入っていた。

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水仙は、しおれてしまっていた。

しかし、コップに水を張って挿すと、

すぐに、あの水仙の表情になった。

写真に撮って、礼状と一緒に送った。

冗談に「今度は白い灯台を送ってください」

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この話を読んだ、関西在住のK嬢が、

同地を訪れて、そこからハガキを書いてくれた。

当時は、版元に電話をすれば、

筆者の住所などあっさりと教えてくれた。

彼女は、私の住所と、

そこから絵ハガキを書くというプランを持って

「白い爪木崎」への旅に出た。

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この連載は「ニッポン海底散歩」というシリーズで、

1回ごとに1か所の旅先をエッセイタッチで書いた。

1年12回の予定であったが、

継続の依頼をいただいて18回の連載となった。

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これにも後日談があって、

宮城県在住の読者が、

私の全連載をコピーして

1冊の冊子にして送ってくれた。

自分の連載記事は、その1冊に収まって

いまも書棚の貴重資料となっている。



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「白い爪木崎」のKさんとは、

いまも年賀状のやりとりが続いている。

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そうか、

今年は新年早々、2回の水仙への旅が続いた。

(葛西臨海公園、千葉県岩井の富山=とみやま)

このブログに使った写真をプリントして、

Kさんに送ってあげることにしよう。

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by rocky-road | 2019-01-14 22:01  

100人の「句読点派」に乾杯!!

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まず、以下の文章に目を通していただきたい。

 第四条 此の小説は、句読点無くしては

  読めるものに非ず、乃ち(すなわち)

  「、」「?(白点「、」の白抜き)「。」の三通りの

  句読を設けたり。一生懸命之に便る可き事。

 第五条 此の小説には、--(ダッシュ)

  ……(リーダー)多く、***(スター)や

  ( )(クワツコ)を用ひて、

  大いに妙味を助けたる処なり。

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この前書きは、

明治22年(1889年)8月に発表された

小説家で、のちに児童文学作者ともなる、

巌谷小波(いわや さざなみ)の小説

妹背貝』の序文の一節である。

(『言語生活1962年2月号

「小説での補助符号」 大橋禄郎執筆から)

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西洋文学の影響や、言文一致運動の考え方から

「補助符号」(ほじょふごう/くぎり符号とも)を使って、

文章を読みやすく、かつ、文章を活性化しようと、

このころの作家や詩人は

いろいろと試行錯誤を行なった。

「?」「!」≪≫など、

欧米の符号が積極的に輸入されるのもこのころである。

明治の小学生の国語の教科書には

句読点を打ってあり、

その使用をすすめたが、

意外なほど一般には受け入れられなかった。

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補助符号を活用するのは

もっぱら小説家や詩人など、狭い範囲であった。

公文書や新聞記事には

句読点は省かれることが多かった。

戦争の記事には、今日の傍点(、)の位置に

「■」や「◎」「●」などを

長いセンテンスにべったり付して

戦意高揚を図るため、

文面を活気づかせたりしていたが、

新聞の全文章に句点「。」が打たれるようになるのは、

戦後も5年もたった昭和25年7月1日とされる。

(朝日新聞が最初。『日本語 使い方 考え方辞典

 岩波書店発行による)

日本語の文章は、漢字、ひらがな、カタカナ、

ルビ(かな振り)、アルファベットを使って表記し、

そのうえ、縦書き、横書きが自由となっているので、

表記や文書の規範となる「正書法」が定まりにくい。

「言葉」「ことば」「コトバ」のどれが正しい書き方かを

統一することができない。

つまりルールがゆるいのである。

それは、日本人が多様性を好む表われかもしれない。 

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ところが、

これほどゆるい正書法しか持っていない国民が、

まるで独裁者から厳命を受けたかのように、

「喪中につき」のあいさつハガキと年賀状、

その他の「ご案内」から、

句読点、とくに「句点」(。)を省く書式を

全員そろって〝厳守〟する様子は、

文化現象として特筆すべきことである。

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「個々の表現力をパソコンに奪われた状態」
ハガキ印刷業者に自己表現力を奪われた状態」

「手紙、ハガキを書かない階層はこんなもの」

「カタチだけの儀礼主義を好む日本人」

など、いろいろの見方ができるが、

日本人全体として見れば、

要するに自分のコトバで

話したり書いたりするのが得手でない、

などの結果、と言うに尽きるだろう。

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もともと、結婚、転職、離・退職、転居などのご案内は

町の印刷屋任せが一般で、

民間人は、こういう文章を書けなかった。

義務教育の国語でも、

この種の文章の書き方を教えることはなかった。

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言語学的興味としては、

普通の文章からも

句読点を省く風潮が広がるかだろうか、

というところであるが、

それはまずないだろう。

そういう判断さえできず、

とりあえず、だれかの音頭取りについていく、

というのが現状である。

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現代の音頭取りとは、

印刷業に代わって

パソコンソフト会社や

多量ハガキ印刷会社、

郵便会社というところであろうか。

かれらのミスリードから逃れられない、

というのが現実である。

なにが「言論の自由」だ。

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明治以来、

表記法にかかわる人たちが、

一所懸命に正書法を求めて、

いろいろのルールをつくってきたが、

百数十年たったところで、

案内ハガキからは句読点を省く、

という現象が

この世にはほんとうにある、

これを言語学はどう解釈するか。

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「昔の人は、句読点はうたなかった」

「点で区切ると縁が切れる」

などと、もっともらしい理由をつける見当違いの者がいるが、

「句読点省き型案内文」の底流には

案外、こうした俗説があるのかもしれない。

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筆記具は筆しかなく、

文机(ふみづくえ)もなく、

手紙は手に持つか、

畳や縁側に置いて書いていた時代

(書ける人は、ごくごくわずか)の表記法と、

1世紀に入って普及したパソコンとが、

見事にマッチングした稀有な事例として、

研究対象とするとおもしろい。

「やっぱり句読点は入れようよ」と

Uターンが始まるのは早くても50年後、

ひょっとしたら、

100年先まで持続するかもしれない。

そこまで待てない人は、

自分に対しては

「♪ わたし バカよネ おバカさんよね ♪」

と笑って許すか、

「国語の汚染はゆるさんぞ」と突っ張るか。

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そして、他人のご案内ハガキに対しては

「ブルータス お前もか!!」と嘆息するか、

日本人の知力、文章力向上への決意を高めるか、

選択肢はあまりないが、

幸いなことに、

この現象にストレスを感じる人は

100万人に1人、

つまり日本には100人いるかどうか、

というオーダーだから、

そう心配はいらないのかもしれない。

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「句読法」を誇りに思う人には、

こう言いたい。

文末に「。」をうつことは、

自分の文章に責任を持つことであり、

「自分が表現した」ということのアカシであり、

温かさの表現である、と。

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最後の「喪中につき」ハガキは、

2018年末の20通分の1通、

文化財として永久保存したい

句読点のついたハガキである。

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by rocky-road | 2018-12-10 12:44  

心にも栄養を与えられる人に。

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過日、大学の健康栄養学科の3年生に

「特別講義を」とのご依頼をいただいた。

50人。

受講態度がよく、気持ちよくお話しすることができた。

演題は「文章力で支える生きがいと健康

「文章力」とはいえ、メインテーマは「健康」である。

全員に課せられる、

講義受講後の提出レポートについて、

担当の先生からその概要を聞いた。

その限りでは、

学生たちは、

こちらの話を充分に吸収してくれたようである。

受講姿勢の印象どおりであった。

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「肯定的指摘をして、

相手のモチベーションを

高めるという話が印象に残った

『今日のネクタイ、今日の青空みたいですね』

『そのブラウス、うちの庭のヒマワリの色です』

のように、ことさらほめなくても、

相手のモチベーションを高められることを話したが、

そこにも共感してくれる学生がいたらしい。

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個人的に参加したインターンシップの

『コミュニケーション講座』で

人と目を合わせることで心が通じ合えるという

講習を受けた学生は、

私の講演のときに実践してみたという。

その結果、講師の私と何度か目が合った。

そして、何回か、

その人に問いかけをした、とか。

講義の冒頭で、

大学卒業について、

履歴書には「最終学歴」として記入するが、

むしろ「社会人入門」の最初の講義と考えたほうがよい、

大学で学んだことの多くは

社会に出てすぐに役に立つことがある、

だから、

ノートは、すぐ出せるようにしておくとよい、

などという話もした。

これにも反応してくれる学生がいたようである。

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文章力についての講義ではあったが、

非言語コミュニケーションについても

少なからず話した。

TPOに合わせた表情、服の色、デザインなど。

この部分についても

理解してくれた学生があったようである。

「栄養素士」についても話しておいた。

「食事」ではなく「栄養素」中心の話をする栄養士が

なんと多いことか。

これが「栄養素士」である。

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現状を知って辛い思いをした学生も

いたようである。

学校で学んでいることは人体や栄養学だが、

健康について、

心理面や行動面を見ることも

忘れないようにと説いた。

「栄養士として、食だけでなく、

心にも栄養を与えられる人に

なりたいという夢を持った」

という学生のコメントが耳に残る。

「心にも栄養を与えられる人に

 なりたい」人がいたとすれば、

こちらがシビレる。

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学生たちは、

しっかりポイントをつかんでいる。

現役栄養士に負けてはいない。

人生100年時代を念頭に

栄養学を見直せば、

新しいセンスをもった栄養士は

いくらでも育ってくるだろう。

ところが、社会の第一線で働く栄養士たちは、

501日ごとし」の賞味期限切れ栄養学を

社会に拡散しているのが現状である。

新聞を見ていたら、

『食べれば食べるほど若くなる法』

なる本を平然として出している管理栄養士がいる。

このいやらしい書名は

版元の発想なのか、

(まさかとは思うが)本人の売り込みなのか、

いずれにせよ、絶望的な現状である。

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栄養学以前に、日本語がうまく使えない。

「食べるほど若くなる」なんていうことは、

論理的にありえない。

一方、

要介護認定を受けた高齢者の家を訪問する

管理栄養士を紹介する記事では、

その担当者が、

13回の食事のうち、

2回はご飯などの主食と主菜、副菜の3品が

そろった食事をとるように、

と指導しているという。

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さらに「1日の食事に肉、魚、卵などの

たんぱく質を含む食品5種類と、

野菜、イモ類、果物などのビタミンやミネラルが

とれる食品5種類の計10種類がそろっていることが

バランス良い食事の目安」と。

言うのは簡単だが、

これを通院できない要介護の高齢者、

または家族がどう認識するのか。

栄養素と食品の数と、料理の品数と、

頻度とが入り混じっていて

カテゴライズが完全に分裂。

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これでは、健常者でも頭に入らない。

かつての「130食品を」を想起させる。

それでいて量の目安がまったくないので、

ゴールのないマラソンレースに

無理やり出場させられた選手状態。

栄養学は、それなりに進歩しているはずだが、

その恩恵を受けるべき人間が

対象から外されている。

「病気を診て人を見ない」の道を

たどっている。

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この状態は、

災害で孤立した集落に、

ヘリコプターで物資を投げ落とすのに等しい。

そこにどんな人が、

何人くらい住んでいるか、

どんな物資を優先して提供するのか、

それらを確かめることなく

過剰な物資を放り投げている感じ。

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寸断されている道路を修復して、

適量の物資を搬入する手段を

真っ先に考えるべきだが、

栄養学は、その知識を伝えるための

コミュニケーション力の強化について

ほとんど考えることなく

物資の調達ばかりを続けている。

5種類だ」「10種類だ」と、

認知能力が低下している人に、

健常者でも覚えきれない数値を示すのではなく、

朝食から夕食まで、

とるべき食材または料理の絵を

図表にして持っていって、

冷蔵庫にでも貼ってもらえば、

ずっと実践しやすくなる。

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場合によっては、

1か月ごとのチェック表を配布することも可能。

かつて、私が担当した食生活雑誌では

毎年1月号に「365日 献立カレンダー」を

付録としてつけていた。

数種類の薬を

正確に飲むことができない高齢者に

13食のメニューを伝えるのは至難の業。

いよいよ栄養学も

流通サービス業に当たる

「健康コミュニケーション学」を

新設する必要が出てきたのではないか。

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「ヘルスコミュニケーション学会」は

すでにあるが、

さて、どの程度の実績をあげているのか、

学会員に聞いてみたい。

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栄養士の卵たちの

「栄養士として、食だけでなく、

心にも栄養を与えられる人に

なりたいという夢が出来ました」

との願望に、

栄養士教育は応えられていない。

まずは、教員たちの再教育に

すぐにでもかかるほかに道はない。

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それに当たる「教員の教員」の養成には

どうすればよいか。

いつでも相談に乗る準備はある。

以上は理想論ではない。

できもしない空論を述べるのは大嫌い。

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さあ、「♪ あなたなら どうする?

泣くの 歩くの 死んじゃうの?♪ 

あなたなら あな~たな~ら……♪」

(なかにし 礼 作詞)

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by rocky-road | 2018-12-05 10:50  

ローマとヒロシマの物語。

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コミュニケーション研究会 ひろしま≫が主催する

コミュニケーション力強化のためのセミナーは

5年目を迎え、年4回シリーズの1回目が始まった。

2018114日 広島県三原市)

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今回は『一冊まるごと 渡部昇一』

(致知出版 20184月発行)

という本をテキストに使い、

渡部先生と塩野七生(ななみ)さんの対談部分を読んだ。

この対談ページのタイトルは

「『ローマ人の物語』に学ぶ将の条件」

「将」は「将軍」の将、

ここではリーダーのことである。

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渡部昇一氏(わたなべ しょういち/

山形県鶴岡市生まれ。19302017年)は

上智大学文学部英文科を卒業後、

同大学の教授を長らく務めた学者であり著述家。

海外生活期間もあり、

学識が深く、腰の据わったリアリストでもあった。

私は1980年代から、氏の雑誌論文を愛読し続けている。

テキストに使った本は、

渡部氏が4人の学者や論客と行なった対談をまとめたもの。

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1日で全部を読むのはムリなので、

今回は、塩野七生氏との対談部分。

(月刊誌『致知』の20082月号に

掲載されたものの再掲載分)

塩野さんが登場するページを選んだのは、

旧来の日本的、女性的な論法ではなく、

リアリティのある、切れ味のよい発言を

女性たちに知っていただきたいから。

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塩野さんは、1937年、東京生まれ。

学習院大学文学部哲学科卒業。

イタリアのフィレンツェへ留学して以降、

イタリア関連の著作を続けている。

大作『ローマ人の物語』は、

1992年から年1冊のペースで発表し始め、

2006年に全15巻を完結した。

対談は、その2年後に行なわれたもの。

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大作を書きあげたばかりだったので、

対談の冒頭、こんな発言をしている。

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塩野 「長年2000年以上前の人たちとばかり

 付き合ってきたから、

 生きている人とお付き合いするのが下手になっちゃって、

 うまく話せるかどうか心配ですが(笑)」

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こういうジョークがさらっと出るところに

知性と大人を感じる。

一方、別のところでは、

『ローマ人の物語』には

戦争の叙述もしっかり描かれていることを

渡部先生から指摘されると、

こう応じている。

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「もともとチャンチャンバラバラが大好きなので(笑)。

ローマの歴史というのは、大半は軍事の歴史ですよ。

ただ、その戦況の進展を示す図ですが、

司馬遼太郎先生は印刷までは

させていらっしゃらないようですね。

やはり戦争は悪だというのは私も賛成です。

しかし、もろもろの事情で、

仕方なく突入してしまう。

その時、名将が指揮した戦争は

味方の犠牲が少ないだけでなく、

敵の犠牲も少ないんですよね」

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こういうことをさらっと言える人が

女性に限らず、日本にどれくらいいるのだろうか。

「戦争は絶対いけない」というところで

思考が止まってしまう、というより、

平和志向をポーズすることにすり替えてしまう人が

圧倒的多数のこの国では、

どうすれば戦争を防げるかを

理論的に考えることを放棄してしまう。

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スポーツチームが強くなるには、

「メンタルとフィジカルが大事」という。

ここまでの思考はできても、

オールジャパンを強化するには何が必要か、

を考えようとしない。

うっかり考えると、

与党議員や公的立場の人の場合は

野党から吊るしあけられたり、

軟弱メディア(ほぼすべて)からは叩かれたりする。

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これほど人為的に思考を止めてしまうと、

モノの道理も世の中の動きも見えなくなってしまう。

おバカに生きることを強要されるのは、

食事を与えられないのと同じくらい

人間にとっては辛いことである。

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その辛さを忘れるには、

家の中でも食事中でも、

歩きながらでも、スマホをのぞき込んで

視線や思考を狭めないと、

ストレスを緩和できないのかもしれない。

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きょうの新聞(1113日 読売)には、

女性雑誌の広告が出ていたが、

著名な作家が

「誰にも邪魔されない『私の時間』」というテーマで

書いているか話しているのか、しているらしい。

特集は、その作家に「学ぶ」だとか。

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邪魔の入らない「私の時間」が作れないなんて、

大人の言うことではない。

そんなことすらできないとは、

警察か税務署に尾行でもされているのか。

恥ずかしげもなく、

メディアでそういうことを公言する

女性作家の視野の狭さ、社会性のなさは、

「極上の孤独」を提案する作家にも通じる。

5歳のチコちゃんに叱ってほしい。

「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」

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そんなカマトト女性論者にはならないためには、

塩野さんのような、スケールの大きな論説に

触れておくことは意味があるだろう。

いや、バカ予防のためというよりも、

論理的思考のできる自分づくりのために、

2000年間、ローマ暮らしをしてきた

骨太の日本人から学ぶことは意味がある。

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渡部/塩野対談では、

「知力」(インテリジェンス)の大切さを

しきりに語り合っている。

「知力」は「知識」ではないこと、

「知力のある人は他の人が見えないものが見えるんです」

などなど。

そして言う。

「日本のリーダーには(説得力が)

一番欠けているんではないでしょうか」

「なぜスピーチが大切かというと、

やっぱり人間はみんな希望を持ちたいんです」

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(セネカ/ローマの哲学者)のコトバとして

「人間にとつて最後まで残るのは希望なんだと。

だから希望を与えること、つまり我々はやれるよ、

と思わせることがリーダーの

一番大切な仕事なんです」

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さあ、人の健康を支える

健康支援者というリーダーとして、

知力をどう強化するか、説得力をどう磨くか、

希望をどう与えるか。

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人の行動に「ダメ出し」しかできない人間には

縁のない話である。

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1日セミナーの最中、

45分間休みを取って、

地元のお祭りを見物した。

主催者のスケジュールである。

夏の水害のため、予定していたお祭りが

114日に延期開催になったのだという。

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邪魔がめいっぱい入る雑踏の、

なんと楽しいことか。

これぞ「極上の人混み」である。

ここでも知力は磨かれるのである。

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by rocky-road | 2018-11-13 21:10