コンニチハ 「健康さん」。

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2018年1029日の「読売新聞」に、

上の写真のような広告が載った。

舌を出した樹木希林さんである。

確か、アインシュタインにも、

舌だし写真があったと思う。

希林さんのメッセージとして、

こんなコメントが綴られている。

少し長いが、引いておこう。

広告主は宝島社。

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「サヨウナラ、地球さん。

 靴下でもシャツでも、最後は掃除道具として、

 最後まで使い切る。人間も、十分に生きて

 自分を使い切ったと思えることが、人間冥利に

 尽きるんじゃないかしら。そういう意味で、

 がんになって死ぬのがいちばん幸せなのよ。

 用意ができる。

 

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 片付けして、
 その準備ができるのは最高だと思うの。

 ひょっとしたら、
 この人は来年はいないかもしれないと思ったら、

 その人との時間は大事でしょ? 

 そうやって考えると、がんは面白いのよ。

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 いまの世の中って、ひとつ問題が起きると、

 みんなで徹底的にやっつけるじゃない。だから怖いの。

 自分が当事者になることなんて、

 だれも考えていないんでしょうね。

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 日本には「水に流す」という言葉があるけど、

 桜の花は「水に流す」といったことを表しているなと思うの。

 何もなかったように散って、
また春が来ると咲き誇る。

 桜が毎年咲き誇るうちに、
「水に流す」という考えかたを、

 もう一度日本人は見直すべきなんじゃないかしら。

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 それでは、みなさん、

 わたしは水に流されていなくなります。

 今まで、好きにさせてくれてありがとう。

 樹木希林、おしまい。」

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もちろん、ご本人がこの日を予想して書いたのではなく、

ライターが、希林さんのいろいろのコトバを

この分量にまとめたのだろう。

希林さんの口調以前に、

発想そのものを受け止めている。

段落や行替えのない追い込み表記も、

読点や句点の打ち方も、しっかり考えている

(ここではブログ用にレイアウトを変えさせていただく)。

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日本には「辞世の句」(じせいのく)の伝統があって、

死を意識して、元気なうちに書き残しておくのが

責任のある者のたしなみとなっている。

あまり文字数を増やさず、

ずばっとわが人生を言い切るのが流儀である。

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足利義隆はこう詠んだ。

「何事も夢まぼろしと思い知る 身には憂いも喜びもなし」

無常観と無我の境地である。

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西行法師は、こう詠んだ。

「願はくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃」

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高杉晋作もまた、達観する。

「おもしろきこともなき世もおもしろく」

辞世の句は、男性に多いが、

明智光秀の三女、珠(たま)、

別名、細川ガラシャのものが残っている。

「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」

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欧米には辞世の句の文化はないが、

最後のコトバを記録する点では東西は共通している。

フランスの文豪・スタンダールは

「生きた 書いた 愛した」

が、最後のコトバだったとされる。

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冒頭の希林さんの辞世の句(句でないが)は、

自身の作ではないけれど、

ライターは、

かなりの程度、希林さんを代弁している。

歴史を経て、現存する辞世の句にも、

周囲の人に代筆させたものは少なくないだろう。

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しかし、そのことは問わず、

要は、その人らしさを醸し出すこと。

靴下やシャツ同様、

自分を使い切ったと見る希林さんの思想は、

しっかり文章化されている。

「サヨウナラ 地球さん」と言いながら

内容は日本人へのメッセージになっている、

そのあたりも希林さんらしさを感じさせる

制作者の演出力だろうか。

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折しも、

来年早々、パルマローザセミナーで講じる

≪健康軸で考える 人、社会、モチベーション≫

について構想中だが(2019119)、

そのモードであの新聞広告を見ると、

さすが希林さん、健康な死に方をしたな、

と実感する。

「健康」は、科学の対象でありながら、

夢や希望とも深くかかわるロマンでもある。

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リアリティとファンタジー、

人類史は、

こんなにおもしろい思考のテーマ(哲学ではない)を

たくさんの余地を残してくれていた。

アリガトウ 昔々から今日までの、地球のみなさん

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# by rocky-road | 2018-10-31 22:54  

ボーっと生きてる乾物型栄養士。

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1011日だったか、

NHKテレビの「ごごナマ」という番組で

乾物と缶詰とで作る料理を紹介していた。

おもしろい着眼で、企画力を感じた。

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しかし気になったのは、

11つの料理について、

栄養士が「一品で食物繊維の1日分がとれる」

「カルシウムに富んでいる」などと

いちいち栄養素コメントを入れていくところ。

101日のごとく」どころか、

501日のごとく」

それぞれの料理の栄養評価をしていた。

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13食の中での充足という視点はゼロで、

バラバラに紹介される単品の栄養的特徴を指摘することに

どれほどの意味があるのか。

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終戦直後、

観光地のおみやげ用菓子のパッケージに、

「カロリーは卵の何倍」などと書いてあったが、

エネルギー量を菓子と卵とで比較して

「勝っている」とする素人栄養学に苦笑したことがあるが、

料理の11つの栄養価を言うセンスも、

似たようなものである。

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現在、カルシウム不足の人がいたとして

(そんな自覚がある人が日本にどの程度いるのか)、

ハッとして、その料理を作って食べたところで、

栄養状態が改善されるものではないし、

毎日、乾物と缶詰を使った料理を

食べ続けたいという人はいないだろう。

深刻なカルシウム不足であれば、

カルシウム剤を利用することになるだろう。

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栄養学には、

依然として、料理を楽しむ方向性はなく、

食材や料理から薬事効果を求め続けているのか、

……なわけはないだろう。

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知る必要のない情報を提供するのは、

企画者の勉強不足、センス不足にほかならないが、

そんな食の素人ディレクターあたりが書いたコメントを

プロの栄養士がシャアシャアとして再読する、

そんなことをいつまで続けているのか。

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この状態を

栄養学の停滞、怠慢と言わずして何と言おう。

少しは前進しろよ。

「人間栄養学」はどこへ行っちまったのか。

栄養学は、

料理を栄養剤として見ることなんぞ

目指してはいないはずである。

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料理を作る楽しさ、

みんなでいただくときの話題性、

だれに、どんなときに振る舞うか、

献立構成の考え方など、

食生活を学び、深め、楽しむ方向は

いくらでもあるはずだ。

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21世紀の日本の栄養士のオピニオンリーダーは、

次の1歩が見つけられず、

501日ごとく、

乾物のように水分を失って

秋風にカラカラと揺れているのが現状。

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方向性に迷うことなど1つもない。

栄養、運動、休養に加えて、

ライフスタイルの見直しと充足である。

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1013日のNHKテレビ・スペシャル、

「AIに聞いてみた どうすんのよニッポン」

シリーズの第3弾「健康寿命」でもやっていたが、

健康寿命にプラスに働くのは

食事や運動よりも、

読書習慣であったり、近隣の図書館の数であったり、

街の治安であったり、だという。

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関係者が、どういうキーワードをAIに与えたか、

気になることは多いが、

いずれにしろ、

ライフスタイルと健康との関係の重要性を

コンピューターさえ気づき始めているのである。

乾物化した栄養学は、

時代から置いて行かれることを

このスペシャル番組も暗示していた。

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同じNHKのテレビ番組

「チコちゃんに叱られる」風に言えば、

「全国の少なからずの栄養士に伝えます。

『ボーっと生きてんじゃねぇ~よ!!!』」

しかし、幸いなことに、

「ボーっと」生きてはいない栄養士、健康支援者も、

全国の現役栄養士、管理栄養士のうち、

0.00012%くらいはいる。

去る1014日(日)、

食コーチング・プログラムス主催の食ジムで、

『「食コーチング」のスキルを、

栄養士・健康支援者活動にどう活かしているか。』

というテーマで

20名が終日話し合ったが(座長 影山なお子さん)、

方向性を射程に入れた健康支援者が

しっかり実績をあげていることを実感させてくれた。

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「食事相談のとき、

いままでは、なにか答えなくては、

指導しなくてはいけないと焦ることがあったが、

食コーチングのスキルとして、

まずはクライアントが話したいことを引き出すことで、

自発性を引き出すことができて、

次につながる1mmの変化を感じるようになった」

(特定保健指導の仕事をしている栄養士)

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「認知症が出始めている高齢者と接するとき、

衣服の色や柄、髪形などを指摘することで(肯定的指摘)、

相手の笑顔や発話を引き出すことができるようになった」

(高齢者施設で働き始めた栄養士)

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「食コーチングのスキルを学んでの大きな思考の変化は、

身だしなみにお金をかけるようになったこと。 

以前は、身だしなみにお金をかけるより、

目的もなく貯金することだった。

人づきあい、身だしなみが苦手だった自分が

お洋服の力を理解し、味方につけられたことを

思うと感慨深い」

(給食センターに勤める栄養士)

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これらの体験が示すものは、

栄養知識や健康知識を伝える以前に、

対象者との間に表情や身だしなみ、

そのあとでコトバの橋を架けること(ラポール)が

不可欠だということ。

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これは、コミュニケーション論では

基本中の基本だが、

それを

対面コミュニケーションの場でも活かせない

という状態では、

テレビや文章(雑誌、新聞など)のような

非対面場面では、

とても生かせるはずはない。

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コミュニケーションの問題以前に、

対象者のライフスタイルを想定できない、

いわゆる「素人さん」にどう接するか、

という対人関係に不可欠なマインドがない。

そんな状態だから、

AIに「健康寿命を保つ要因は

食事や運動以外のところにある」などと言われてしまう。

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それは、笑い事ではなく

栄養士の廃業にさえつながりかねない予兆である。

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もう一度、チコちゃんにご登場願って、

全国の栄養士・健康支援者養成校の教員、

および関係者に伝えます。

「ボッーと生きてんじゃねぇーよ。

ボーっと教えてんじゃねぇーよ」

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# by rocky-road | 2018-10-18 21:42  

郵便ネットワーク、悠々。

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年賀状や暑中見舞いシーズンを除けば、

10日くらいの間に

ハガキや手紙を20通近くいただき、

同数の返事を書いたのは、

久々のことである。

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去る922日のセミナー、

ハガキ、手紙スキルのない健康支援者ってありなのか。」

の余韻がいまに至っている。

いただいたハガキや手紙には、

筆ペンを使うものが多かった。

セミナーの途中で

書道関連の文具店に寄る、

という「ゴールデン 寄り道コース」の効果だと思う。

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ハガキ、手紙の美学という点では、

「弘法も筆を選ぶ」ことは確か。

字を大きめに書く人が、

細いボールペンを使っていたり、

便箋の罫の幅に対して筆文字が大きすぎたり、

墨がだぶつき過ぎたり、

定形サイズいっぱいの封筒を使いながら、

宛名の文字が細かったり……などは、

ちょっと筆記具との相性を考えれば、

簡単に解決できることである。

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それにしても、

「ゴールデン 寄り道コース」のおかげで、

便箋や封筒のグレードがよくなった。

日本の手紙文化は、

やはり和風の伝統を引き継いでいる。

格段の能筆でなくても、

「それなりに」サマになるからありがたい。

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となると、

アタマの糊づけ部分にもこだわりが出てくる。

かつては「しめ」(〆)や「封」「緘」(かん)

などと書いて綴じたが、

いまは封緘印(ふうかんいん)や

封緘シールがどこででも手に入るようになった。

また、写真店では好みの写真でシールが作れる。

昔は、封緘印を作るのはよほどの風流人であり、

1個がかなりの高価であった。

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ここで忘れてならないのは、

のりつきの封筒は接着力が弱く、

輸送中に封が剥がれやすいこと。

今回、いただいた封書にも数葉がそうなっていた。

また、二重封筒の場合、

外側と内側の綴じ目がずれるため、

おかしなシワができたり、

ペーパーナイフで開くとき、

引っ張られて破れてしまうものなどがあって

この形式の封筒は「取扱注意」である。

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わが郵便ネットワーカーの一部の人は、

京都で住所のゴム印を風雅タッチで作った人もあって、

味わいはひとしお。

もっとも、この場合も使う人の手書き文字のタッチ、

キャラクター、文体などと相関があるので、

目的や用件などによって使い分ける必要がある。

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それやこれやのことで、

日本のごくごく一部の栄養士・健康支援者の

郵便コミュニケーション文化は向上した。

それが、いっときの夢で終わるか、

生涯の生活習慣になるかは、

それぞれの人が

どこへ向かって、どう生きるかという、

方向性の問題、つまりライフスタイルの問題である。

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文化のすべてが健康にプラスになるとは言えないが、

郵便コミュニケーションは、

健康上のメリットの1つとはなる。

少なくとも「極上の孤独」を選ぶ人よりも

活気のある人生を歩むことになるのは、

エビデンスなどなくても明らかである。

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健康行動学がもっと活性化して、

研究者がふえた暁には、

「Eメールオンリーグループと

郵便コミュニケーションを

月に2回以上行なうグループとの

健康寿命に関する比較研究」

などという研究を行なう人が出てくるかもしれない。

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いやいや、

そんな、やらなくてもわかっている研究など、

好んで行なう研究者はいないだろう。

しないですむことを祈る。

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下の書は、

毎年、写真教室に長崎から参加してくださる、

塚本初音さんの作品。

「第68回 西九州小中学生書道大会」で

応募者数3436人から最高賞の4人が

文部科学大臣賞に選ばれた。

その1点が初音作品。

力のこもった、温かい作品である。

925日「長崎新聞」による) 

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# by rocky-road | 2018-10-11 23:15  

郵便による社会参加のカタチ。

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「ハガキ、手紙スキルのない

 健康支援者って、ありなのか。」

このテーマでお話をさせていただいた。

2018922日/土 パルマローザ主催

 横浜市技能文化会館)

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健康支援者、とくに栄養士にとって、

ハガキや手紙を発信、受信の習慣のないことは

「あり」なのか。

言うまでもなく「ありではない」だ。

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仕事のうえでは、

特定保健指導などの場合、

手紙やメールでの支援が最初から設定されている。

そういう仕事をしていない栄養士といえども、

公私の組織に所属しているときには、

公的な連絡を文書で行なうことは珍しくない。

この点は、栄養士に限らず、

勤め人すべてに言えることである。

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お勤め仕事でなくても、

自主サークルに所属していれば、

ここでも、文書コミュニケーションは必要になる。

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わがダイビング50余年歴の中でも、

宿泊先の民宿への予約やお礼、

地元の漁業協同組合への交渉などで

出した手紙やハガキは数百通。

いくつかのダイビング雑誌に

30年近く、連載エッセイを持ったのも、

編集部に出したハガキがきっかけである。

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なのに、

東京を含め各地の栄養士会から来た文書は、

ついこのあいだまでは、

横書きのとき、

宛先の氏名を行末に、つまり末尾に書いてあった。

縦書きの書式を、ただ横にするだけだと、そうなる。

が、欧米の手紙や文書を見ればあきらかなように、

相手の氏名は左上に置く。

私的な手紙でも、

Dear Rocky」などとやる。

Eメールでも、

上にある「件名欄」に相手の氏名と件名を書くのが

好ましい形式とされている。

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しかし、この書式さえ、

日本全国に行きわたっているとは言えず、

以前、このページでも取り上げたが、

グリーティングカードで知られる

日本フォールマークの市販便箋でも、

わざわざお手本書式を表紙に入れて

相手の名を行末に書く形式を示していた。

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毛筆家や日本風のマナー師範は

横書きの手紙など書いてこなかったから、

縦書きの書式を、ただ横にしただけの書式をよしとする。

フォールマークも、こちらの指摘に対して

自信をもって「それでいいんだ」と返信してきた。

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それはさておき、

今回のセミナーは

ハガキや手紙のルールをおさらいするのが目的ではなく、

「郵便コミュニケーション」の習慣が

どういう意味を持つのか、

そのことを伝えたかった。

郵便コミュニケーションは、

マナーの問題として考えられがちだが、

それ以前の問題として、

より大きな、個人の生き方の問題がある。

コミュニケーションにハガキや手紙を使うということは、

社会的活動を活性化する意味を持つ。

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その点が電話やデジタルコミュニケーションとは

大きく異なる。

郵便コミュニケーションの特徴は、

用紙や筆記具、文字の色や大きさ、

そして巧拙などがそのまま相手に伝わる。

しかも、それらは人間の手よって集められ、配達される。

つまり人間の社会の中を

右に左に通り抜けていくのである。

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デジタル機器の発達と普及によって、

郵便コミュニケーションのアナログ性、

非効率性がますます際立つばかりだが、

本人が書いたものが、地球上のあちこちに、

手間暇かけて運ばれる、

というところに、

本来的な、人間味のある社会性を感じさせる。

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社会とは、

「人間が集まって共同生活を営む際に、

人々の関係の総体が一つの輪郭をもって現われる場合の、

その集団。

諸集団の総和から成る包括的連合体をもいう。

自然的に発生したものと、利害・目的などに基づいて

人為的に作られたものとがある。

家族・村落・ギルト・教会、会社・

政党・階級・国家などが主要な形態」(広辞苑)である。

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最近は「ネット社会」などというコトバも使われるが、

いずれにしても、ネットの先にも人間がいる。

ただし、デジタルコミュニケーションの場合は、

文字の選び方、コトバの使い方、

どうかすると文章のフレーズまで

「マシーン秘書」に任せたりするので、

「その人らしさ」は薄まる。

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不思議なもので、

社会への参加意識の高い人は、

郵便コミュニケーションを好む傾向がある。

年賀状や暑中見舞いはもちろんとして、

そのときどきに一筆を書く。

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旅行先から、

贈答のお礼に、

イベントのあとに、

書物や雑誌記事の感想、

人と会ったあと、その感想や感動、

病気回復のお礼、

以前、話題となった店に入った感想、

新聞や雑誌、書物の感想を著者や筆者に、

ときにはクレームも、など。

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アメリカの元大統領、ケネディは、

道ですれ違った著名人と

あいさつを交わすことができず(有権者に囲まれていて)、

すぐにお詫びの手紙をスタッフに届けさせたという。

(『ケネディの道』による)

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社会参加意識とは、

要は人的ネットワークに参加する意思表示。

そのモチベーションはどこからくるのか。

仕事を発展させるため、

相手に親近感を感じるため、

著名人に近づきたいため、

自分を慰めてもらいため、

借金を申し込むため……など、

多種多様。

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ここにもプラスのモチベーションあり、

マイナスのモチベーションありだが、

「自己中」でない郵便コミュニケーションは、

社会チームの一員としてエントリーすることになり、

そのネットワークに迎えられる。

結果として、自分のモチベーションは高くなる。

それはまた、

教養や知力をも高めることにもなり、

自分がこの社会で、この人生で

なにをすべきかを意識することにもなる。

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今回のセミナーでは、

ハガキ、手紙のルールについても

いろいろの事例を示してお話しした。

 *少女っぽい便箋や封筒はやめたら?

 *便箋や原稿を小さな封筒にそんなに押し込めてどうするの?

 *便箋が何枚かになったらページを打とうよ。

 *縦書き封筒の宛名、

 *なぜ、相手の名を左右中央に書けないのだろう?

などなど。

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でも、こういうことは

人のものを見ているうちに

是正されていくから、案じることはない。

続けること、10年とか20年とかではなく、

もちろん、一生続く生活習慣でしょう。

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栄養士、健康支援者が

公私にわたって、

もっともっと郵便コミュニケーションを続ければ、

個々人の生活は活性化し、

そのよき反映として

国民の健康度はあがるはずだし、

なによりも、

本人の人生が豊かになる。

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栄養士、健康支援者が

だれからも教養人、文化人と思われる日が、

100年もすれば、

来るかもしれないし、

来ないかもしれない……し。

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そんなことはどうでもいい。

自身の日々に、

もっと起伏があってもいいのではなかろうか。


# by rocky-road | 2018-09-25 15:54  

「論理」は空気なんですよ。

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2018年9月2日に、

≪コミュニケーション研究会 ひろしま≫開催の

定期セミナーで行なった

『栄養士として「論理性」をどう強化するか。』

という講義を受講していただいた何人かから

「むずかしかった」という感想をいただいた。

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「むずかしさ」の意味は未確認だが、

講義内容がむずかしかったとすれば、

講師の説明能力の問題として自省の要がある。

講義では、

論理とは

「なぜそうなのかを解釈すること、人に説明すること」

であることを伝えたから、

それが「わからない」と言われてしまうと、

講師としてはお手あげである。

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「食べ過ぎると太るよ」というのも論理、

「雨が降りそうだから、早めに洗濯物を取り込んでおこう」

というのも論理。

つまりは理屈であり、

神羅万象の因果関係などを

自分や他者に説明すること。

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空気と同じで、

この世には論理があふれているので、

かえってとらえようのないものになっている。

みなさんが「むずかしい感」を抱くのは、

「論理」というのは哲学的テーマである

という先入観を持ったり、

男性が女性に対して「論理的でない」と

高飛車に突っ込んだりするときのアレだと

思い込んでいるためではなかろうか。

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先日、『極上の孤独』という本の何回目かの新聞広告を見たが、

それには「37万部突破!」とあった(826日)。

この著者は、

「友達や知人は少ない方がいい」という論理を持っており、

「孤独を噛みしめながら自分のホンネに向き合い、

あれこれ考えるからこそ、人間は成長できる」

という論理を持っている。

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こういう、私的な思い込み論理でも

37万人もの人が関心を持つ、というところがおもしろい。

そう、むずかしいのは「論理というコトバの意味」ではなく、

論理の内容を吟味したり評価したりすることである。

「孤独を噛みしめながら自分のホンネと向き合い、

あれこれ考えるからこそ、人間は成長できる」

と著者はいう。

実際にそのようにして成長してきたのか。

そうではなく、義務教育を受け、さらに高校、大学で学んだのち、

日本を代表する放送局のアナウンサーになり、

その能力と知名度によって、

講演やら執筆やらで、多くのファンを得てきて、

いまもそれは続いている。

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このようにして得た現在の地位を、

孤独を噛みしめて成長した結果であると言うのにはムリがある。

「偽善」ではなく「偽独」だろう。

100にも届かんとする著書があるが(あるいは超えているか)、

それを執筆する能力は、

友達や知人を意識的に少なくして得たものでもない。

仕事を通して知り合った人々、

少なからずの書物などを読んで、

多種多様な刺激を受けているはずで、

それなりの勉強もしてきたことだろう。

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もっとも、発想の幼さ、論理の未熟さは、

確かに孤独ぎみの上に、

よい読書の仕方を知らず、

友人からも有効なアドバイスを受けなかったか、

または自分から受けつけなかった、

という可能性もゼロではなさそうだ。

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広告には、内容の一部として、

「集団の中でほんとうの自分でいることはむずかしい」

などというフレーズを掲げているが、

当たり前だろう。

人間の社会というものは、それで数十万年もやってきている。

そんな当たり前のことを小学校を卒業した人が言うかね?

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さらに言う。

「素敵な人はみな孤独」

ここでは、飲みかけのお茶を吹き出さないこと。

本人の顔写真が出ているが、

それを見ていると5分間は笑える。

どこが「素敵」なの?

意地が悪く、独りよがりの人間にしか見えないけれど。

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「年をとると品性が顔に出る」では、「一同爆笑」でしょう。

たれ目のこの顔に「品性」を感じる人がいたら、

2人に並んでもらって2ショットの写真を撮らせてもらう。

「人間の顔は生き方の履歴書」--おっしゃるとおり。

1カットで2点の履歴書を得ることができる。

動物行動学研究のよい標本になる。

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世の中には、

これくらいハチャメチャな論理を展開する高齢者がいることを

健康支援者としては銘記しておく必要がある。

ある作家は「健康という病」だと説き、

「孤独のすすめ」だという。

一方、「極上の……」ほうの、たれ目孤独は、

「一人好きは自分のペースを崩さないから健康になる」
とのたまう。


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ここにはトリックがあることを見落としてはいけない。

37万部ものベストセラー作家が孤独だなんて、

それは論理の破綻でしょう。

それだけの人たちから数千万円の印税をいただいて、

「他人に合わせるくらいなら孤独を選ぶ」だと。

稼いだ金を施設に寄付でもしたら、

ますます孤独が保てなくなる。

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もし、お宅および隣家の郵便受けに

10万円入りの封筒が入れられていたら、

ひょっとして、孤独で、たれ目で、素敵な人が、

夜陰に紛れて、印税収入を捨てて歩いているのかもしれない。

うっかり出会っても、声をかけたりするのは野暮というもの。

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かくのごとく、

論理は、正しいか正しくないかではなく、

まずは、いかに相手を説得するかである。

騙されないためには、

相手の論理の粗さや欠落を見抜くこと。

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振り込み詐欺は論理の商売。

政治家も論理の商売。

新聞も雑誌も、テレビもラジオも、

つまるところは論理を売り物にしている。

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健康支援者は「論理はむずかしい」と

言っている場合ではない。

健康は食卓の上に置いてあるものではなく、

不健康や孤独を売りにする作家の周辺にもある。

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完璧な健康などというものはないように、

完璧な論理などというものもない。

だから人生はおもしろい。

「考えしろ」(余地)は、生きている限り、

なくならない、そんな論理、

受け入れてもらえるかしら?

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# by rocky-road | 2018-09-12 23:37  

栄養学を終わらせない論理。

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コミュニケーション研究会 ひろしま≫主催の
定期セミナーのために、

広島県三原市にある会場で終日、講義をした。(9月2日)

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講義は2つ、

1つめは

『栄養士にとっての「コーディネート力」と「編集力」。』

前回のテキストの後半部分。

2つめは『栄養士として「論理性」をどう強化するか。』

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いずれも、従来の考え方からすれば、

「栄養士向け」のテーマではないと思われるだろう。

実際、こういうテーマのセミナーは

これまでなかったはずである(国内、海外とも?)。

しかし、このテーマは、

今後はニーズが出てくると思う。

「栄養学」は、どこへ向かうのか、

という大きな問題にかかわっている。

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ヒトには、どんな栄養素が、どれくらい必要かは

今日までの研究によって、おおむね把握することができた。

必須栄養素の研究は、

ほぼ頂上にまで来た、といえるのではないか。

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ときどき、残り火のように、

微量成分の効用を見つけ出す研究者がいるが、

ビタミンやミネラルの発見に比べれば、

寿命を左右するほどの重要性はなさそうで、

今後、世紀の大発見はないだろう。

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食品に含まれる微量成分や、

一般性のない、特定の食品を見つけ出して、

(または外国の文献から見つけて出してきて)

それが長寿や認知症予防に有効とする学者

(おもに医師)が現われるが、

残り火のような弱い火力だから、

放っておけば、やがては消える。

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医学知識や医学的論理はあっても、

栄養学の知識が不足している医師の場合、

食や栄養に関する論理的基盤がないので、

ヒトの食行動そのものが見えず、

いまだに微量成分によって

加齢を遅らせたり、

認知症を抑制したりすることができると、

本気で思ってしまう。

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彼らは、悪い人ではなく、

けっして人をだまそうなどとは思っていない。

しかし、昔から言われるように、

「病気を診て、人を見ない」職業だから、

食品やそれに含まれる微量成分の薬事的効果を

真剣に考えてしまう。

真剣だからなお困る。

職業的権威をバックにして、

マスメディアを通じて、自信満々に

フードファディズムを振りまいている。

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こういう現象を見ているうち、

ある図式が見えてきた。

これは、軽薄なドクターが、浮かれて踊り出したのではなく、

栄養士によるヘルスプロモーションが低調なゾーンに

やむなくドクターの一部が流れ込んできた、

というところである。

一種の浸透圧が働いて、

うすい部分に濃い要素がにじんできた可能性がある。

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ヒトの健康を保つ栄養素の研究が頂上に達したからと言って、

「栄養学は終わった」というわけではない。

確かに、「終わった学問」はゴマンとある。

哲学は諸科学に、心理学は脳科学に、

言語心理学は認知言語学に、

という具合に、

後発の研究にお株を奪われることはある。

それが進歩というものである。

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栄養学が停滞しているように見えるのは、

研究者、関係者のパワー不足、アイディア不足、

論理性不足、言語能力不足などなどによるものである。

栄養士、健康支援者に、

論理性があれば、この状況をいくぶんは改善できる。

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いま、多くの人は、

「栄養士から食品に含まれる栄養素について
 教えてもらいたい」

と思っているわけではない。

そういう状況は、〝多くの人〟と接すればわかるし、

「では、なにを求めているか」は、

論理的に推論すれば見えてくる。

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サン・テクジュペリのコトバとされるように、

「心で見なくちゃ、ものはよく見えない。

かんじんなことは目では見えないんだよ」である。

この場合の「心」とは、直観もあるが、

コトバであり、論理である。

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論理とは「理屈」であり、「説明の仕方」であり、

だからつまり「考え方」であり、

モノを見るときのフィルターである。

人との約束時刻に遅れた人が、

「人身事故で電車がストップしたから」と説明する場合は、

責任を鉄道会社に置く論理であり、

「私が時間ギリギリに出たのが悪かった」は、

自分に責任があるとする論理である。

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広島のセミナーでは、

「論理」や「理論」とは何か、

どうすれば論理性を強化できるかについて、

いろいろの事例を使って説明した。

その目的は、

1にも2にも「栄養学を終わらせない」ためであり、

栄養士の個々人が、

魅力ある栄養士であり続けるためである。

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「論理」の話はここまでにして、

このブログに使ったアウトドアの写真の多くは、

尾道市瀬戸田町にある
「耕三寺博物館」(こうさんじ)に属する

寺と博物館と「未来心の丘」(みらいしん)で撮ったもの。

「未来心の丘」は、

イタリア在住の彫刻家・杭谷一東という人が設計し、

制作したものだという。5,000平方メートルの敷地に

3,000トンの大理石を敷き詰めたもの。

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この不思議な空間に魅せられて、

再度、リクエストして、連れて行っていただいた。

傘は、コミュニケーション研究会 ひろしまの
リーダー、
長谷 泉さんが用意してくださった。

雨のためというよりも、撮影の小道具として。

この演出力はさすが。

こういうパフォーマンスも、

もちろん論理的演出である。

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# by rocky-road | 2018-09-04 20:24  

わが8月15日。

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写真は、学童疎開先の宮城県の鳴子温泉で撮られたもの。

昭和19年か20年の撮影と思われる。

撮られた記憶もないから撮影者(当時はプロの仕事)も不明。

昭和193月の東京大空襲後、

いよいよ東京も危ないというので、

小学3年生になるのを待たずに、

まずは宮城県松島に疎開し、

そこも軍隊が駐屯していて狙われるというので、

山間の温泉地にある旅館に学校単位で転居した。

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「疎開」(そかい)とは、

「空襲・火災などの被害を少なくするため、

集中している人口や建造物を分散すること」(広辞苑)

「縁故疎開」と「集団(または学童)疎開」とがあって、

親戚などに預けられるのが「縁故疎開」。

私は最初は新潟の親戚に兄と2人で預けられたが、

先方が嫌がったか、こちらが居づらかったのか

いったん東京に戻り、

すぐに学童疎開に替えた。

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疎開経験のある学童の多くが体験し、

それを文集などに収める、

ということがはやった時期もあったが、

わが小学校ではそういうことをやらなかった。

疎開体験で語られるのは、

食事が1日2食の日もあったという飢餓体験や、

夏はノミ、冬はシラミに苦しめられたこと、

地元の子どもたちには疎外されたことなどだった。

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「東京っ子」は、疎開先でしばしばいじめられた。

私の場合は、地元の子たちにウルシの木の枝を

顔や全身に押しつけられ、

翌日には顔や手がアレルギーで真っ赤になり、

目があけられないくらいになった。

しかし、こういういじめに耐えられなくなったことはなく、

むしろ、その仕返しとして

一派の1人の顔に馬糞を押しつけたことが

縁故疎開をやめる一因になった可能性がある。

叔母には「こんな子は家には置けない」と、

すごい剣幕で叱責されたことを覚えている。

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あるいは、

食事は、先方の家族とはお膳が別で、

寄宿している兄と私とは向き合って2人で食べた。

ナイーブな兄は、

そういう冷たい生活が辛くて、

それを親に訴えた可能性がある。

疎開の変更の理由を

なぜ親には確かめておかなかったのか、

いま思えば不覚である。

終戦は、鳴子温泉で迎えた。

815日の玉音放送を感度の悪いラジオで聞いたが、

内容は理解できなかった。

しかし、大人たちの反応などから、

戦争が終わったことを知った。

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どういう順番だったか覚えていないが、

その日の午後、上級生たちと山に入り、

竹を切って竹やりを作った。

その理由は、

「アメリカ人は地球上から日本人を消し去る」

と言っているから、

それを待つことなく、戦って死のう、ということだった。

そこへ先生がやってきて、

そんなことは絶対にないから、

竹やりを捨てなさい、と武装解除を言い渡された。

気分が高揚していたことは覚えているが、

その場面や心境などは、まったく覚えていない。

小学3年生に決死の覚悟など、あったとは思えず、

おそらく、上級生に従っただけだったのだろう。

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進駐軍のアメリカ兵を最初に見たのは、

鳴子温泉の街であった。

ジープに乗って通り過ぎた。

フレンドリーな表情で私たちを見た。

竹槍の相手になるような「鬼畜米英」ではなかったことに

強い安堵感を持った。

8月15日に終戦になったが、

東京へ戻る輸送列車のやりくりがつかず、

2か月後の10月に、

焼け野原の多い東京に戻った。

そんな経験から27年後、

30歳を過ぎてから、

学童疎開先の松島ホテルと、

鳴子の高友旅館を訪ねた。

それぞれのオーナーに会い、

話を聞き、資料などをもらった。

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また、役場にも行き、「町史」をたどって

戦時中の記録なども調べた。

「指ケ谷小学校生徒を学童疎開受け入れ」

という程度の記録しかなかった。

最初に掲げた写真は、

以下の経過から見つかった。

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旅館の女将に会って、戦時中の話を聞いたが、

いろいろの地域の学童を受け入れたり、

傷痍軍人(前線で負傷したり病気になったりした兵隊)を

受け入れたりしたので、

小学校の名称など、まったく覚えていないとのこと。

そのとき、女将は思いついて、

棚から越中富山の薬箱を下ろしてきて

中にぎっしり詰まっているプリント写真を

1枚1枚畳の上に置いてくれた。

10枚目にも行かないうちに、

1枚の写真に目が留まった。

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最前列に座っている自分の姿がすぐにわかった。

撮られたことも覚えていないし、

生徒に写真をくれるなどという習慣も

なかった時代だから、

写真を見たことはない。

なのに、100枚以上はある写真の中から

ほんの10分もかからないうちに、

自分の写っている写真を見つけ出すとは、

人間の記憶力の不思議さを感じた。

「この写真、コピーを取りたいので

貸していただけませんか」と頼んだら、

「いいですよ、差しあげますから、どうぞ」と女将。

100人以上いた疎開組のうち、

このプリント写真を手にしたのはいないか、

いても、ほんのわずかと思う。

こういう経過があって、

学童疎開中の写真が手に入った。

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この写真には、

もう1人、気になる人が写っていた。

うしろの列ににいる寮母さんたちの中に

忘れられない顔があった。

「この人はどういう人ですか」と女将に聞いた。

「その子はNちゃん、

いま、町のボウリング場で働いていますよ」

彼女は、当時18歳くらい、

空腹の私に、焼きおにぎりを手渡してくれて、

「人に見つからないように食べなさい」と

支えてくれたり、やさしく声をかけたりしてくれた。

おにぎりは、深夜、ふとんの中で食べた。

この人には会わないわけにはいかない。

女将は電話をかけてくれて

アポをとってくれた。

その後の経緯は、

交通公社発行の『旅』という雑誌の

紀行文学賞の応募作品に書いた。

候補作として掲載されたので、

いまも活字として残してある。

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わが戦争体験は、この程度のものである。

8月15日の終戦記念日(異説に「敗戦記念日」)には

メディアがそれにちなんで特集を組む。

近年は、100歳を越えて「語り継ぐ」人も

珍しくなくなった。

凄惨な負け戦から生還しただけでも奇跡なのに、

その体験を、百寿者となっていま語ることができる、

そういう日が来たことに驚く。

もっとも、戦禍や戦争の悲惨さだけを

語り継ぐことにどれほどの意味があるのか。

「だから戦争はいけない」「平和がいちばん」

で終わるコメントの反復では、

その意味は半減する。

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大事なのは、

「では、その戦争を防ぐには、どうすればよいのか」である。

そこまで言ってもらわないと、

この語り継ぎは「祈り」で終わってしまう。

もし祈りで戦争が防げるなら、

人類は、とっくの昔に「平和教」を生み出していたはず。

信仰で戦争が防げるのなら、

どこの国でも、ムダな軍事予算など組む必要はない。

いま考えられる戦争の防ぎ方について、

もっと議論をしておく必要があるが、

メディアは「いい子」でいたいから、

「だから平和がいちばん」でまとめる。

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仕方がないから、

いくつかの選択肢を想定するしかない。

①世界一の国力、軍事力を持って、

 他国の干渉を受けないようにする。

②自分ではそうしないで、

 そういう国にぴったり寄りそって、

 太鼓持ち同様に「あなたさまのおっしゃるとおりでげす」

 と追従に徹する(え? いまやっている?)

③どんな国が、どんな要求をしたり、

 キツイことを言ったりしてきても、

 「おっしゃるとおり」と同調する。

④議論では絶対に負けない言語能力を高め、

 すべて交渉によって有利な条件を引き出す。

⑤世界に向けて「平和教」を「国教」と定めたことを伝え、

 永世中立国を宣言する。

 (え? いまがそれでしょ?)

 ぶりっこは嫌われるから、商売に支障が出ることもあるが、

 平和教徒として赤貧に耐える。

⑥どこかの国が攻めてきたり、

 どこかの国を攻める気配が出てきたら

 (たとえば徴兵制が制度化されたりしたら)

 難民となって強い国になだれ込むか、

 信仰に殉じて潔く自決する。(平和のためなら死んでもいい)

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などなど、語り継ぐときの「オチ」として、

「だから平和が大事」を実現するための対策案をつけることにする。

「オチ」のない話は却下。

いまは現実味がないものもあるが、

73年間も考えずにきたのだから、

数年も考えれば、1001000のアイディアは出るはず。

ここでも頭を使えば、

思考力も認知能力も強化され、

少しは論理性のある国民だと、

評価される日がくるかもしれない。


# by rocky-road | 2018-08-16 21:55  

メリケン粉か粉ミルクか。

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女性誌からの依頼で、

近藤正二先生(18931977年、当時・東北大学名誉教授)の

以前撮ったポートレートを貸し出すことになった。

20138月に、このブログに書いた記事をたどって

私にたどりついたらしい。

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ブログにも写真を使っていたので、

元データ(プリント写真からデジタル化)は手元にある。

振り返れば、

昭和46年(1971)か47年かに、

先生をインタビューするために

仙台にある東北大学医学部の研究室を訪ね、

2日間にわたってお話を伺った。

それを基にして『長寿村ニッポン紀行』という本にまとめた。

いま、この本を開いてみて、

自分がまとめた本でありながら

貴重なエピソードにあふれていることに驚く。

敗戦の翌年の昭和21年の秋に

東北大学医学部に

近藤先生を訪ねてアメリカ人将校が現われる。

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日本の学童の栄養不足を緩和するには

どうすればよいか、相談に来たという。

文部省に行ったところ、

「ここには資料がないが、仙台の近藤教授を訪ねれば

しかるべき資料が得られるはず」と言われた、と。

先生は、昭和の初期に、

学童の体格は遺伝ではなく、

家庭の経済状態と関係があることを推測し、

一部のクラスには、各自の弁当のおかずとは別に

魚または納豆など、良質たんぱく質源を与えてみた。

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当時は、仙台では学校給食はなく、弁当持参だった。

それらの弁当には肉は論外として、

魚や卵などのおかずを入れることはなかった。

生きるのが精いっぱいの低栄養時代に、

特定のクラスに魚や納豆を与える(提供業者がいた)

という実験、いまだったら差別や人権問題に

なること必至の研究である。

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このような調査によって、

動物性のたんぱく質は身長の伸びに深く関与すること、

植物性たんぱく質は、さほど関与しない、

などのデータを得ていた。

また、身長が伸びるとは、足が伸びることを意味し、

座高にはあまり個人差は現われない、

などという考察もされていた。

そんな研究が文部省にも伝わっていたため、

戦後、進駐軍が日本の子どもたちの栄養改善に

どう対処すべきかを考えるのに役立つのである。

東北大学まで訪ねてきた軍人、ハウ大佐は

もともとは医師であったので

近藤先生の研究を認め、

学校給食に小麦粉を提供するか

スキムミルクにするかで話し合ったという。

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ハウ大佐は言う。

「実は、今まではメリケン粉を与えることを

おもに考えていたんだけれども、あなたの説明を聞いてみると、

どうやら動物性タンパク質(ママ)を与えたほうが

発育の低下を救うには効果がありそうだ。

メリケン粉はやめにしましょう。来年の春から、

日本全国の都市の小学校に、

粉ミルクの給食をすることになるだろう」

近藤先生の述懐……。

「彼はこう言ってから、同行した役人に

仙台に来てよかったと何回も話していました」

こうして始まったスキムミルク給食を

私は小学校5年から受けることになった。

日本の子どもの健康向上に大いに貢献した近藤先生と、

その給食の恩恵を被った小学生とが、

1971年に、仙台で出会うのである。

当時の近藤先生は78歳、私は35歳。

倍以上の年齢差である。

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この本の序章で、先生はこんなことをおっしゃっている。

「私は100歳まで生きたいと言う人に、

『おやめなさい』と言うつもりはありませんが、

まあ、そこまでむりをしなくてもいいのではないか

と思います。そのかわり、

少なくとも70歳を越えるくらいまでは、

健康に過ごしていただきたい。

百何十歳まで生きる努力をするよりも、

70歳以前に若死にする人をへらすほうが

意義のあることだと思います」

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わずか50年で、

日本人の寿命はずいぶん延び、

したがって健康観もずいぶん変わった。

昭和も40年くらいまでは、

若死にする人が多かった。

だから、近藤先生のいう「長寿70歳」を越えるには

確かに「努力」が必要だった。

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近藤先生ご自身は1977年に他界された。

84歳だった。

ご旅行のときには、

にんじんなどを擦り下ろすために

おろし器をリュックにぶら下げていた。

食事には気をつかっておられたようだが、

いまにして思えば、

先生の健康を支えた一番は

研究へのモチベーションであろう。

先生を迎えたり見送ったりするために

上野駅~駒込間を何度かご一緒したが、

歩く速さ、階段の昇り降りの速さには驚いた。

先生を追いかけるようにして歩いたことを覚えている。
(香川 綾先生と交流があり、
 女子栄養大学にはご縁があった)

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女性誌からのお声かけのおかげで、

『長寿村ニッポン紀行』を再読することになり、

近藤先生を偲びつつ、

「健康の6大要素」を改めて確認することにもなった。

(健康の6大要素--①栄養、②運動、③休養、

④ストレスコントロール、⑤よい人間関係、⑥生きがい)

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# by rocky-road | 2018-08-07 22:38  

「編集力」を人生に生かす。

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2018年7月22日、

第39回めの遠距離クラスの講義は

『「編集力」を日々の生活にどう生かすか』であった。

(横浜市技能文化会館 11時~18時)

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このクラスでは、

各地から人が集まるので、

最初に全員から近況報告をしてもらうことにしている。

各地の気候やローカルな話題などが聞けるので

貴重な情報源となる。

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今回は、広島のお2人から、

大雨による大水害の報告に耳を傾けた。

被害情報というよりも、

保健師や栄養士などに対して

行政から、どういう要請があったか、

などを聞くことができた。

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また、地域の被害だけでなく

知人の被災などの困難もあったものの、

横浜でのセミナーや遠距離クラスへの出席は

予定どおり行なうことにした、

それが日常性の持続であり、

心の平静を保つことにもなる、

という報告もあった。

災害への対処の方法として、

傾聴すべき報告である。

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このあとの講義では、

「編集」について講じたが、

スピーチも1つの情報体であり、

ここにも「編集力」が役立つことを指摘した。

パソコンの普及は、

万人に編集力強化を求めることを意味するが、

編集は、プロの仕事と思われているのが現状。

この点では、

遠距離クラスでの講義や発言は、

編集とは何かを学び、

実践する数少ない機会となっているはずである。

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編集がらみで、

話題を以下のように広げよう。

去る7月18日、午前0時10分、

トランプ大統領とプーチン大統領の対談を

報じるラジオニュースの中で

担当アナウンサーが「世界の注目が注がれている」と

発言した。

「目が注がれている」ではなく

「注目が注がれている」と言ったのである。

私にしてみれば、「やったぁ!!」「やっちまったぁ!!」

という思う瞬間である。

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NHKは、ここ10年あまり、

「注目」というコトバを

「集める」というコトバとセットで使い続けている。

「注目される」ですむところを

あえて「注目」というコトバを使うときは

ほぼ90%は「注目を集める」と表現する。

言うまでもなく、「二重表現」である。

「重言」(じゅうげん)とも「重複表現」ともいう。

「二重表現」とは

「今現在」や「挙式をあげる」「必ず必要」「永遠に不滅」

「いまだに未解決」「外国人の方々」など、

同じ意味のコトバを重ねるもの。

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「注目」は読んで字の如しで、

「目を注ぐ」「目をそこに集める」こと。

「目を注ぐ」ことを「集める」とは、

「注目する人を多数集める」という意味ではなく、

「注目」の重複に加えて、誇張表現でもある。

NHKには2度ほど指摘したが、

まったく聞く耳を持たない。

ときには「大きな注目を集める」のように、

文法を無視した、意味のわからない放送をする。

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どうやら、なにかの意図があって、

この不適切かつ誇大、かつ低教養な表現を

日本中に広めようとしているらしく、

1日に数十回、

アナウンサーや解説員などが口にする。

その効果があってか、

新聞や雑誌にも、

この表現が普通に見られるようになった。

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これについて補足しておくと、

「注目」は、日本語では名詞だが、

漢語的には動詞である。

だから「注目」といっただけで

「目を注ぐ」「視線を1点に集める」という

動作を表わす。

わざわざ集めなくても、すでに「目が集まって」いる。

こういう動詞的名詞には、

「する」をつければ完結する。

「勉強する」「研究する」「奉仕する」「キャッチする」

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「注目を集める」の場合、

「関心を集める」「関心を寄せる」「注目を浴びる」

などがすでにあるから、

「注目を集める」もセーフではないか、

という弁解の余地はあるが、

分別のある人は使わないほうがよい。

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さらにまた、

「大きな注目を集める」が不自然に感じるのはなぜか。

「大きな」という連体詞は名詞を修飾することになっている。

「大きな目」「大きな雲」「大きな事件」などと。

「注目」は名詞だから、

連体詞の「大きな」を冠しても文法的には誤りではない。

しかし、動詞的ニュアンスを残している「注目」とは

相性がよくない。

「あの注目」「あらゆる注目」「いわゆる注目」という

表現法がしっくりしないように、

「大きな注目を集める」も、日本語として定着しにくい。

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動詞のニュアンスが残る

「接客」「調達」「施錠」などの名詞には、

「大きな」や「あの」「いわゆる」(連体詞)が

ぴったりとくっつかないものが少なくない。

「大きな接客」「あの調達」「いわゆる施錠」などと

表現することはまずない。

したがって、

「大きな注目」と言われると、

目が大きいのか、集まった目のあるスペースが大きいのか、

なんだか気味が悪くなる。

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ここで「編集」の話に戻るが、

ニュースは、言うまでもなく「編集物」。

すでにある情報素材を集めて、

順序よくまとめ、発信する、そこまでが仕事。

編集は、創作ではないから、

あまりに私的な思想や用語はしにくいが、

それでも流行語には

編集作業の結果、流布されるものが多い。

「忖度」や「モリカケ」などが一例。

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しかし、

受信料を取る公共放送としては、

国語を無神経にたるませてほしくはない。

そんな権限はないし、

慎重に国語を使う使命があるはず。

たとえば、

出演者に対して「きょうはありがとうございました」

と、あいさつするのは、僭越。

謝意は、あしたも残るのだから、

「ありがとうございました」と、

過去形にしてはいけない。

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「先日は、ありがとうございます」と、

過去の好意に対するお礼も、

「ました」にしないのが、

日本語の美しい表現。

番組がそろそろ終わることを

出演者に伝えるための「ありがとうございました」は、

放送局内部の事情であって、

それを日本語として定着させようとされては困る。

「きょうは、ご出演、ありがとうございます」でも、

なんら不都合はないはずである。

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同様に、動物の「熊」を

目の下にできる「くま」と同じアクセントにするのも

現状に即していない。

NHKは、アクセント辞典に則っているというが、

日本人の、現在の「熊」のアクセントに対応しているのか。

話が戻るが、

去る7月18日、午前0時10分の

トランプ大統領とプーチン大統領対談を

伝えるニュース。

「注目が注がれる」は、

正真正銘の二重表現だが、

驚くのが、このときのアナウンサーが、

U氏であったこと。

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すでにNHKを定年退職しているが、

いまもNHKニュースを、

手堅く、さわやかに読んでいる。

現役時代は「ことばおじさん」の別名がある、

コトバに通じたアナウンサー。

関連の著書もいくつかある。

そういう名アナウンサーが、

「注目が注がれています」とやってしまったのは

まさにニュースである。

そのときの雰囲気から判断して、

原稿をそのまま読んだのではなく、

アドリブ的な語尾ではなかったかと思う。

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その部分は、いわば未編集の、個人的ミス。

だから原稿を正確に読まなくてはいけないが、

もともと「注目を集める」は

放送記者の原稿だろうから、

ミスを生み出すお膳立てをしたのは記者のほう。

たぶんUアナウンサーは、

その表現に違和感を感じていて、

なんとか言い換えようと反射的に思い、

結果として、

「注目が注がれる」と、

恥の上塗りをしたのかもしれない。

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成熟社会とは、

人間を穏やかにする側面があるようで、

日本人の言語表現にもパンチがなくなった。

「……ていうか」(一発で決めろよ)

「正直、ヤバいと思った」(いつもは正直じゃないのか?)

「感動っていうのじゃないけれど、

けっこう泣きました」(それ、感動だろうが!!)

などという、ボヤけたコトバを使っていると

ボヤけた人生を送ることになりますぞ。


# by rocky-road | 2018-07-25 00:10  

ここにも「創る旅」が……。

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みなさんからのプレゼントによって

楽しませていただいた、

ハウステンボス、深川製磁アウトレット

(チャイナ・オン・ザ・パーク)の旅の

ご報告が遅れてしまったが、

以下に記させていただこう。

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ハウステンボスは5回目になるが、

「もうたくさん」という気分にならないのは、

ディズニーシーと同じである。

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自然保護に関係する人の言として、

「日本人が自然観察会に支出する金額は

13,000円が限度。

しかし、ボートとかソリとか車とかの乗り物が加わると

10,000円くらいまでは出す」

というのを聞いたことがある。

10年以上も前の話だから、

相場は少しはあがっているかもしれない。

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自然の中を自分のペースで歩くから楽しいはずだが、

車やボートに押し込められて、

ほんの数十分を過ごすほうに高い金を払う。

自然観察のポイントを解説してくれる

ガイドの話さえじっとして聞けない。

すぐに先走った質問をしたり、私語をしたり。

残念だが、認知能力にも問題がありそうだ。

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遊園地をはじめ、

ディズランドやユニバーサルスタジオなどは、

そうしたニーズに応えるプランニングをしている。

つまり「遊んでくれるテーマパーク」である。

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それに比べるとハウステンボスは、

オランダの街が中心で、

ジェットコースターや落下系の乗り物など、

スリルを楽しむものはあまりない。

(遠くに観覧車は見えたが)

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初代の経営者が収益難で手放したのはわかる。

日本人には、

こういう施設を愛用するだけの好奇心や主体性はない。

そんなことは素人でもわかるが、

そこにあえて挑戦した発案者には頭が下がる。

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遊園地やテーマパークは別として、

旅行先というのは、

大自然であったり海底であったり、

名所旧跡であったり、美術館や博物館であったり、

人が暮らす村や街であったり。

いずれにしろ、

向こうからは遊んでくれないエリアで

自分なりの発見をする、

それが旅の味わい方であり、旅の創り方である。

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長崎にオランダの風景があるというのもヘンな話だが

(開国以前のことは別として)、

身近なところで、そういう異質な体験ができるのはありがたい。

京都の太秦(うずまさ)の映画村や日光江戸村も、

一種のタイムスリップの世界である。

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今回は、半分は遊んでくれる

「トリックアート」で楽しんだ。

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これも各地にできていて、いまや流行しているが、

被写体としてはおもしろい。

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ただし、美術館をイメージして、

額の中の名画がこちらに働きかけてくる、

というトリックは、

いまや時代に抜かれつつある。

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スマホによる「インスタ映え」の時代だから、

美術館イメージをやめて、

「トリック スタジオ」にしたほうが

よほどニーズに適合する。

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いかにリアルな写真が撮れるかに徹する。
その場合、額はまったく不要、というより邪魔。
額のない大きな背景を用意しておいて、
どこを、どう切り取るかは撮影者に任せればよい。

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リッチな旅を実感したのは、
ハウステンボス内にある《ホテル ヨーロッパ》から
佐賀県の有田町にある名店≪深川製磁≫の
アウトレットで買い物をして、
ふたたび、ホテルヨーロッパに戻るという経験である。

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このくらいA点、B点が離れていると、
宿泊場所を移動することになりがちだが、
「旅行コーディネーター」力をつけた
栄養士さんたちのおかげで、
上手に移動をして、有効な時間を過ごすことができた。

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小さな旅になりがちな日本人の旅は、
34日でも毎日、宿替えに迫られる。
が、今度の旅は全日、
高級ホテルで過ごすことができた。

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アウトレットでは、
毎月クラスの方から、
お中元として深川製磁の食器をいただいた。
製造元の食器を現地でいただくとは、
このうえないぜいたくなタイミングである。

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愛用している「ふくらすずめ」シリーズが
またまた充実することになった。
旅の余韻が
食卓の上にきょうも響き続けている。

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この旅のプレゼントしてくださった方々に
深く深く感謝をし、
心からのお礼を申しあげたい。

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# by rocky-road | 2018-07-12 23:45