休眠中にもコトバは踊る。

入院中はラジオを聴くか雑誌を読むか、
普段なら、夢に描く生活が1週間ほど続いた。
しかし、夢と現実の大違いは定番どおり。
病院生活は思った以上に多忙。
血圧、血糖値、点滴の交換、定刻の食事、トイレ……と、
2~3時間、熟睡できるような悦楽時間はない。

かつ、〝寝る〟ことにもそれなりの気力や体力を要し、
心身の疲れは娑婆並み、いやそれ以上に強く感じた。
そういう環境のせいか、
ラジオ、テレビ(無音で)、雑誌記事などに
「お空のお星さま」からのポジションで接することができた。
断片的にはなるが、
そのいくつかをあげておこう。

まず第1が、NHKアナウンサーのていねい表現の未熟、不慣れ。
「3連休という方もいると思いますが……」
と声かけをするアナウンサーや天気予報官が少なくない。
「方」と、ていねい表現を使っておきながら、
そのあとで「いる」と、粗いコトバを使う。
この場合は「いらっしゃる」が、大人のていねい表現のはず。

しかし、NHKのスタッフは、
おおむね、ていねい表現を使って育ってはいない。
小さいときからお勉強ができて、
チヤホヤされて育ったお子様が多い。

人を尊敬したり、
ていねい表現で会話をしたりする経験が
普通の子よりも少ないことだろう。
そこへもってきて、いまは天下のNHK職員。
彼らから見ると、ますます一般人が下に見えそうだ。

ていねい表現の不備は、どちらかといえば
女性のアナウンサーに多いように思える。
社会性やトレーニング不足と関係があるのだろう。
そして、局内では、
日本語の正しい使い方を特訓する
気風も習慣もなくなった……(?)。

一方、テレビのインタビューシーンで、
取材に応じている人が、
「ぜひ、みなさんにお出でいただきたいですね」
と言っているのに対して、
「みなさんに来てほしい」「来てもらいたい」
と意訳または誤訳をするケースが少なくない。

「ほしい」や「もらう」はきわめて平易な日常表現。
子供が駄々をこねるときにも
「ママ、あれがほしい。買って!!」などと言う。
取材先の現地の人が、ていねい表現を使っているのに、
それを「ほしい」や「もらう」に誤訳する。
意図して言い換えているのであれば悪意を感じる。

英語の「I want you」を耳にすると、
肉食獣に狙われている気配を感じる日本人が
少なくないのでは……(?)

とは言え、いまや日本語の「いただく」という表現は
「ほしい」に置き換わった、と見てもよいのかもしれない。
「ラジオ深夜便」(23時05分スタート)の進行を担当する
アンカー(ベテランアナウンサー)は
番組の冒頭で、
「あしたの午前4時までの番組の内容をご紹介しましょう」
とあいさつをする。
普通に聞いていればていねい表現だが、
細かいことを言うと、わずかに上から目線の表現である。

子供に対して、「一緒にお歌を歌いましょう」
「ママと、お絵かきしようね」の場合は、
相手と自分を同列に置いて、「一緒に同じことをしよう」
という、寄り添った表現になる。
が、NHKの放送の場合は、
これとは立ち位置が違う。

番組提供者は、いわば売り手(実際に有料)。
その立場の者が〝ご一緒感〟を出すのは僭越。
スーパーやコンビニの店員が、
「このプリン、買いましょうね」と言ったら
もめることだろう。
寄り添ってはいけない場面もある。

テレビショッピングのように、
「このお値段でいかがでしょうか」と問いかける、
これが謙虚な立ち位置というものだろう。
つまり、自分の企画を買ってもらう立場としては、
「……ましょう」(let’s)とは言わず、
「ご案内します」と表現したい。
現に、金曜日を担当する関西局のアンカーは、
しっかり「ご案内します」を続けている。

テレビ番組から1つ。
「所さん! 事件ですよ」番組で、
漁網にかかったクロマグロを
漁獲制限基準値を超えたために、
放流せざるを得なくなったというレポートをしていた。
このシーンでのテロップは、
「高級マグロが捨てられる」であった。
「ちょっと待てよ!!」
「捨てる」の意味はいろいろで、
「思い出を捨てたり」「名誉を捨てたり」するのだから、
とり過ぎたマグロを捨てても、国語的には問題ないが、
生きたマグロの場合はゴミや不用品ではなく、
海に還してやるだけのこと。

いつか、また網にかかるかもしれないし、
個体の1尾1尾に対しては、
「今回は命拾いしたね」とでも言ってやりたい。
それを「捨てる」と表現するとは、
なんともデリカシーのない、無粋なセンス。
人生は、最後の最後まで、
チャンスを信じなければいけない。
こういう無粋さまでも、
NHK職員のお育ちに関係あり、としたら、
こちらが無粋になるかもしれないが、
それでもやはり、「関係ない」とは言いきれない。
一定の世界観を持った、
豊かな大人の表現力を強化してほしい……
おっと、「大人の表現力を強化していただきたい」
最後に雑誌から1つ。

『文藝春秋』2025年12月号に載った
「大衆よ、ファシズムに呑まれるな」
という記事が目にとまった。

保坂正康氏(昭和史研究家)による
「日本の地下水脈」という各月の連載記事の最終回である。
安倍路線を引きつくであろう高市早苗総理になったことで、
表題のようなタイトルを掲げたことは言うまでもない。
「ファシズム」はやっかいなコトバで、
語源的には古代ローマの儀式用の「装束」にあるが、
政治用語としては、
イタリアのファシスト党の政治体制から、
保守的で強い支配体制を選び、
国民の自由度には抑制的な政治体制。
共産主義には対抗的。

中身は、時代や国によって大きく異なるため、
いまとなっては、
このコトバを使う者は、最初に、どういう意味で使うのか、
まずは定義をしてから始めないと、
人それぞれに異なるイメージを与えることになる。
『文藝春秋』の記事のタイトルに従えば、
高市政権については、
「大衆」(これもだれを指すか、あいまいだが)
ファシズム(言論統制的?)に気をつけろ」と言いたいのだろう。

その件についてはパスすることにして、
人間の資質について、つねづね感じていることを
この記事で強化されたことを書いておこう。
記事の中で、
筆者(保坂)が、
前総理、石破茂氏は「八十年所感」のあとの
記者会見の中で「猪瀬直樹、半藤一利、保坂正康の本を
読んできたと発言しており、それは私にとって
光栄なことであるが……」と述べている。

この件(くだり)で、
政治的信条、
あるいは社会人としてのライフスタイルは、
幼少期から、
着々と形づくられるものであろうことを実感した。
石破氏といえば、
私の人間観からすると、
リーダーシップが身についてはおらず、
それは人望のなさとして現われる。
一見、もっともらしい御託を並べるが、
実行力、決断力はなく、
それどころか、
自分のチームのリーダー的人物を、
離れたところから批判する。

石破氏は「党内野党」「仲間を後ろから撃つ」ヤツと
しばしば言われた。
仮に、こういう人間に自著を評価されたら、
私だったら大々迷惑というものだが、
シンパシー(共感、共鳴)というのは理屈ではなく、
それを光栄に思うのだろう。
「野党的タイプ」の人間というものは、
幼少期から成人するまで、
たとえば、校庭で、みんなと遊ぶことは好まず、
教室で本を読んだり、勉強のおさらいをしていたりする。

体育もスポーツも不得手、
したがって、チームの団結や、
リーダーの存在意義を実感したことがない。
保坂氏は、〝ファシズム〟体制下では
言論の自由が抑圧される危険を述べているが、
民主主義の時代でも、
スポーツのチーム、職場、家庭、
予暇活動組織においても、
かならずしも言論の自由度は100%ではない。
その場で言ってよいこと、控えたほうがよいことは、
民主主義の普及程度とは無関係に存在する。
試合中のスポーツ選手が
プレー中に、監督やコーチにクレームを出したら、
チームとしては最悪の状態になる。

高市体制に関して「ファシズムに呑まれるな」には、
まさに、背後から銃撃するような
冷たさと、〝高見の見物〟的無責任さを感じる。
子供時代のグループ活動のときには、
遊んでいるとき、ブツブツ異を唱える子がいると
リーダー役は「それならお前やってみろ」
と言ったものである。
言われた〝野党派〟は、
「よし、オレに任せろ」などとは絶対に言わず、
コソコソと輪から外れるのが定番である。

「昭和史研究家」と言えば、
日本を長い歴史的視点で冷静に見つめている人と思いたいが、
司馬遼太郎は言った。
「歴史というものはないんですよ。あるのは史実です」
(関ヶ原の戦いは1600年10月21日)
「歴史は、史実についての人それぞれの解釈です」
さあ、日本は、敵意を示す周辺国からのいちゃもんに
どう対処するか。
それを考えるのは、歴史研究家ではなく、
大小いろいろのネットワークのリーダーであり、
その成員(チームメンバー)である。
by rocky-road | 2025-11-28 19:57 | 大橋禄郎

