長嶋茂雄さん、ありがとうございます。

同じ1936年生まれ。
彼は2月生まれの早生まれ。
学年は彼が1年上ということだろう。

追悼番組では、
彼に指導を受けた人たちのコメントを聞けたが、
彼自身、いつごろから野球を始めたのかは
聞いたことがないので、「ウイキペディア」で調べてみたら、
東急セネタースの大下弘(青バット)や
大阪タイガースの藤村富冨美男選手などに憧れた、とのこと。
大下選手は漫画雑誌のキャラクターになるほどの人気者だった。

千葉県で育った長嶋氏と、
東京都文京区で育った私とは、
野球体験がだいぶ違うことが改めてわかった。
私は後楽園球場まで歩いて30分というところで育った。


ともに戦前の野球事情は知らない世代だが、
私の場合、いつ、だれから野球を習ったのか、
思い出せない。
気がついたら広場でキャッチボールをしていた。
ボールは母親に手伝ってもらった手作り。
芯はビー玉だったかな?
軟球ボールが売りだされるのは少したってからか。

日比谷公園で進駐軍(アメリカ軍人)が
ソフトボールをやっている場面だった。
なんと、ナイターだった。
戦争中、灯火管制のために
暗闇の家でじっとしている経験のあった者には、
その明るさと華やかさは夢の世界のように見えた。

後楽園には、ただで入ることが多かった。
というのは、7回を過ぎると、帰る人もいるので、
内野と外野の堺にある通路の門が開け放たれ
通行自由になった。
それ以外にも、どこから入ったか、
ベンチの横で観戦し、選手から呼び込まれてベンチに入り、
選手の膝の上で観戦したし、
試合後、選手に誘われて風呂にも入った。
当時はまだシャワーはなかった。

折れたバットをもらって持ち帰ったことも何度かある。
釘を打って修繕したが、
子供にはプロの硬球野球のバットは重すぎた。
観客も少なく、
試合が終わると多くの人がグラウンドに降りて、
球場感覚を味わう時代だった。
そんなこんなで、
プロ野球(職業野球ともいった)の近くで育った。
長嶋氏が憧れたという藤村選手のユーモラスなパフォーマンスも
間近で見て、いまも覚えている。

たとえば、3塁ベースをオーバーランした選手にタッチするとき、
三塁手・藤村は、ボールを持った手を相手選手の肩にかけ、
仲良しのように肩を組んで2人でベンチへ引き上げてくる、
といったジョークを演じた。
一方、貧乏チームのユニフォームは、
背番号のプリントが剥げかかっていて
「これが現実かね」と、子供心に思った。

長嶋氏とは、
社会人になってから出会う機会があった。
「京映」というコマーシャルフィルムの制作会社に勤め始めたころ、
読売巨人軍が、サントリーの多摩川工場を訪ねる、
という映像スタッフとして参加した。
そのときの写真が残っている。(1960年5月6日)

これには、有名選手が多く写っている。
赤バットの川上哲治、当時の監督、水原 茂など。
そして、私のうしろには、当時、寿屋(のちにサントリー)の
宣伝部員だった山口 瞳氏が……(のちに作家)。
水原氏は、戦後、戦地から引き揚げて来て、
東京に着いたその日に、
後楽園球場にかけつけて、復員のあいさつをした。
それを私は球場で見ていた記憶がある。

さて、野球といえば、
高校野球部(大橋創設)、YMCA時代、
女子栄養大学(大橋提案)と、
30年余り、野球を楽しんだ。
その間、背番号はずっと「3」だった。
野球をやめたのは、
ダイビングクラブの活動と
バッティングすることが多くなったためである。


今度、長嶋氏の懐古動画を見ていて感心したのは、
「読売巨人軍は永久に不滅です」の引退あいさつ、
監督辞任のあいさつ、
野球引退あいさつのいずれも、
長嶋氏は「ありがとうございます。」(「ありがとうございました。」ではなく)
というところであった。


ここは、NHKのアナウンサーに
しっかり見ていただきたいところである。
とりわけ、梅津正樹アナウンサー。
かれは、コトバ関係の番組を多く担当し、
「ありがとうございます。」が本来だ、と言っていた。

仮に過日のお礼を言う場合、
「謝意はいまに至っているから」過去形にはしないで、
「ありがとうございます。」と。

そのNHKも、いまはほぼ100%、「ありがとうございました。」

梅津さんは、この現況をどう見ているか。


長嶋さん、あなたは自家製・和製英語の
「メークドラマ」で突っ込まれたけれど、
しっかり国語の強打者でもあった。

by rocky-road | 2025-06-06 22:54 | 長嶋茂雄

