私のサロンにいらっしゃいませんか。

食ジム「食ジム」第139回
「料理教室などを『サロン』としての楽しい場にするには、
講師にはどんなアクションが求められるか。」は
いろいろと考えることの多い話し合いであった。
(開港記念会館 座長/甲斐和恵さん
アドバイザー 影山なお子さん 大橋)

進行のプロットは、以下のとおり。
1.「街の教室」参加体験。(お茶、お花、お料理、語学、書道、
ピアノ、楽器、合唱、ソロバン、絵画、その他)に参加した
ときの記憶に残る、あの場面、講師の言動、雰囲気など。
2.料理教室(その他)に参加して「習う・学ぶ」ことのほかに、
そこで得られたこと、人との出会い――あれやこれや。
3.料理教室その他の教室を「サロン」としての楽しい場にする
ことには、どんな意味があるのだろうか。
(受講者として運営者・講師として)
4.料理教室を「サロン」として楽しい場にするための
アクションプランをあげてみると……。

まず、「サロン」とは何か。
進行プロットには、こう示された。

「*「サロン」とは「①客間、応接室、応接セット
②上流階級が催す社交的な集まり ③社交界(の人々)
④室、店 ⑤喫茶店、パーラー ⑥定期的な美術展、見本市
⑦ホテル・客船などの談話室
⑧美容や飲食などの接客を主とする業種・店舗」 (広辞苑 第七版)
*ここでいう「サロン」とは、一定の方向性やテーマのある会話を楽しむ場のこと。」

「サロン」のルーツはイタリア発祥、フランス経由のコトバらしいが、
今日の日本では、上記のように喫茶店から美容院、
最近では、日焼けサロンやネールサロンなども、そう名乗っている。
ちなみに、インドネシアでは、腰に巻く衣類や、ガムラン音楽の楽器を指す。
ともあれ、もともとは「客間」を指していたものが、
上流階級の、おもに女性の集まりになったり、
さらに芸術家の集まりとなったり、
ヨーロッパでも、いろいろのカタチに変貌したらしい。

これらを踏まえて、こんな解釈をすればいいのだろう。
「形式にとらわれず、しかし、一定の方向性をもった
生産性のある懇談(打ち解けた話し合い)の場」
雑談や井戸端会議のように、
各自が思い思いの発言をするのではなく、
暗黙の目的に向けて話題をつなぎ、発展させる。
同時進行で、〝和やかさ〟の隠し味にも気を配る。
……かなり難度の高い話力だが、
日本人なら、きっとできる。

「食ジム」139回でこのテーマを選んだ目的は、
食関係者が担当することが多い料理教室、健康教室、
食育イベントなどの講師が、
ともすれば上から目線の話し方になったり、
カタくなりすぎたり、教えることに精いっぱいになりすぎたりする傾向があるので、
その点に気をつけよう、という点である。

楽しい食生活、健康生活のすすめの話が、
そんなに〝シャッチョコバッテ〟どうするか、
ということである。

その原因は、1にも2にも準備性のなさ。
料理にしろ、お茶にしろ、お花にしろ、
かつては「花嫁修業」の要素が多かったので、
先生側には〝しつける〟という自負があった。
その伝統は、いまも尾を引いている。

それに、〝教える〟という行為と
〝和やかな話し合い〟という目的とは
共存しにくいところがある。

「食ジム」参加者には、
ご自身の〝習い事体験〟を語っていただいたが、
いろいろと〝訳アリ事例〟があげられた。

*チェーン展開で人気の料理教室に通っていたけれど、
先生が「教えること」に手一杯でおもしろみがなかったからすぐにやめた。
*先生が有名なことで知られている料理教室。
実際にはお弟子さんが教えており、
その有名な先生は、
「最初と最後にしか来ない」というスタイルだったのでやめた。
*「字をきれいに書きたい」と思い、どこででも学べるという
書道教室に通ったけれど、先生が厳しいうえ、毎回課題があり、
その課題を提出しなくてはならないというプレッシャーからやめた。

こういう歴史をいったん清算して、
民間の各種教室では、
「サロン」としての雰囲気づくりをすべきではないか、
これを日本中に広めていけないものだろうか。
それが今回の食ジムのコンセプトである。

そして、「食ジム」は、まさに〝サロン型話し合い〟の
トレーニングジムにほかならない。
このスキルに天井はない。
パルマローザ発で、
「新型サロン」を広めようではないか。

さて、ここからは次の話に移る。
このブログ「ロッキーロード」は
2008年にスタートして17年が経った、と指摘していただいた。

雑誌での連載は何年も続けてきたが、
ブログの経験はなかったので、
文体がわからず戸惑った。

いろいろのブログをのぞいてみたが、
まさに「日記」そのもので、日常の「あったこと」
(「どこどこで、こんな料理を食べておいしかった」
「飼っているペットが熱を出して心配」など)を
ただ書き出すだけのものであった。

社会の共有財産としての文章と、
私的な日記とは、目的も話題も文体も違う。
いまはどうなっているのかと思って
ネットで検索してみると、
「テンプレート」(型紙)などが用意されていて、
それに従って書く方法なども示されていた。

よい時代だが、
自分の文章は型紙があってもまとめられない。

感性や思想のパターンは、
「万」や「億」の単位を超えるし、
そもそも「どう思うか」「だから〇〇だ」という着地点を
イメージできない人には、
文章はまとめられない。

それでも、始めたい人は少なくない。


食ジムが〝サロン〟のトレーニングジムであるように、
ブログは、社会の情報環境となる文章の語り口と
思想を強化するトレーニングジムとなるはずである。

by rocky-road | 2025-04-05 22:53 | 「食ジム」