人生100年時代のモチベーション。
まずは、日本句読点学会からのご報告。
新顔の缶ビール、
キリンビールの《晴れ風》の車内広告に目が止まった。
「春風」ではなく「晴れ風」、
おもしろい造語である。
「食品ヒット大賞受賞」と謳っている。

日本句読点学会員から言わせてもらえば、
ここは《晴れ風。》と、「。」を入れたいところ。
いっそう親しみがわくはずである。
「すでに、ヒットしているからいいじゃん」ではなく、
さらにヒットさせてはいかが?
新商品売り出しに際して、
社内では、そういう提案は1つもなかったのだろうか。
以前、《ビアリー》という〝微アルビール〟が出たとき、
缶に「微アル、誕生。」としてあった事例は
このページでも話題にした。
このセンス、「よし」とした。

《晴れ風》は、別の会社の製品なので、
そういう発想はなかったのかもしれないし、
あるいは、提案があっても却下されたかもしれない。


ケイタイによる〝打ちコトバ〟の世界では、
文章に句読点(。、)を入れるのは「オジサン的」と
思われるらしいが、
読み書きのできない〝お子ちゃま〟の文化に迎合するのではなく、
日本語の文章表現の多様性に
誇りと自信をもっていただきたい。

句読点は、読みやすさや誤読防止、
1センテンスの終了を示すという機能性に加えて、
「人が使ったコトバ」というニュアンスを生み出す。

だから印刷広告の世界では、
昔から、キャッチフレーズはもちろん、
屋号や商品に「。」を使う例は少なくなかった。
親しみや温かさを醸し出す。

年賀状や各種案内には「。」を省く書式が定着したが、
その理由に、「相手を子ども扱いする」「縁を切る」
「伝統的ではないから」などがあると聞く。

こういうおバカの屁理屈が一般化するということは、
社会がおバカになったということだろう。
そこまでいうなら、
「和紙を使って筆書きしろよ」と言ってやりたい。


もう1つ、おバカシリーズ。
2月18日付の『読売新聞』の「くらし 家庭」欄に
「1000枚の服 手放して気がついた!」
という記事が載っていた。
『1000枚の服を捨てたら、
人生がすごい勢いで動き出した話』
という本を書いた人をインタビューした記事である。

この本の筆者は、
キャリア20年のファッション誌の編集者だという。
たまたまフリマアプリで使いかけのマニュキアが
売れたことをきっかけに、
手持ちの衣服を売って、手持ちを50着までに減らしたという。
それで気づいたのは
服をあれこれ買い込んだのは
「自分を大きく見せたいという自信のなさの表れだった」だとか。
え、それ?

ファッション誌に20年もかかわっていたのに、
衣服をその程度にしか認識できなかったというのは、
相当に血の巡りが悪いタイプなのだろう。

念のために言うしかないが、
衣服は、自分身体を守る防具としての役割を原点とし、
続いて、もっとも身近な環境となり、
同時に、社会の環境の一部となり、
メッセージをもった媒体として、
自分自身にも、周囲にも情報を送り続ける(寝ていていても)。
もちろんアイデンティティにもステイタスにも、
チームの連帯感を生み出す……などなど。

「自分を大きく見せたい」という動機も不純ではないが、
「社会の健康環境を向上させたい」という参加意識もほしい。
この筆者は、クローゼットを覗かないと
自分の人生の方向性が見つからないらしい。

ネットで数百枚の服をさばいていては、
とても仲間と楽しむ時間はないだろう。
自分のことしか考えない
小さな世界に身を置いてきたのだろう。

「他人の視点」は不要だと言っているらしいし、
服を選ぶのに他人の意見を聞くのはよいが、
最終的には「自分軸で考えて」とも言っているらしい。
そんなこと当たり前でしょう。

捨てる話が受け入れられる社会とは、
まさしく成熟社会。
本来、捨てる話は内輪の話。
みかんの皮を捨てた、
テニスのラケットを捨てた、
枕を捨てた……
そんな話は内輪の話。
人さまに言うのも恥ずかしい。

が、いまは、そういうことを書いた本が売れる。
人生100年時代ともなると、
この先、やることが見つからない人がふえる。
「そうか、捨てることだ」
これならなんの準備性もない人間でもできる。

ところが不思議、そのお陰で、印税を稼ぎ、
講演がふえ、
ようやく「生きる喜び」を見つけることになる。
捨てることにも100に1つ、1000に1つは
生きがいにつながるモチベーションにはなる可能性はある。

とはいえ、捨てることは、自分の環境を小さくすること、
人生のサイズを小さくする側面もある。
さて「手放した本」は、
どれくらいの期間、買い手の手元にあるのだろう。
ICチップでもつけておいて、
調査をしてみたい。
by rocky-road | 2025-02-19 23:38 | 日本句読点学会

