知らない横丁、知っている横丁。

7月8日(月)22時に、
NHK総合テレビで放送された
『映像の世紀 バタフライフェクト』に見入った。
日本の敗戦日、1945年8月15日、
その日からの東京都内(当時は東京府)の
スナップ写真が次々と現われた。

きのうまで空襲を受けていたその時点で、
すでに写真を撮っている人がいたのだ。
報道関係者の写真がほとんどだと思うが、
個人でも撮っている人がきっといたはず。
その人たちは、なんらかの方法で
フィルムの備蓄をしていたのだろう。
そのレベルの人は、もちろんわが家で現像をする経験を持っていた。

8月15日の数日後には、
もう、進駐軍が日本の各地を撮り始める。

なかには、すでにカラー撮影のものもある。
この差が国力の違いというもの。
この1点を見ても、
とても日本が、敵う(かなう)相手ではなかった。

終戦直後の写真はない。
カメラはあったが、フィルムがなかったのだろう。
(焼死体が散らばっていた本所緑町の親戚探しには、
兄はカメラを持ってはいなかった。
持っていれば、警官に没収されただろう)
終戦の当日、宮城県鳴子に学童疎開をしていた私が、
東京の焼け野原を目にするのは、
8月15日から2が月後の10月末である。
そして、写真を始めるのは、その3年後、
小学6年の正月である(お年玉で小型カメラを購入)。

それでも、焼け野原や新橋の闇市(やみいち)、
当時の上野、銀座、日本橋の写真をいま見ると、
自分がそこにいたことを反射的に思い出す。

不思議なのは、
その人混みの中に、自分が写っているのではないかと、
探そうとする、反応が起こることである。
撮られる可能性も、その記憶もないが、
それゆえなのか、
知らない子が自分のように見えたりするから不思議である。
ところで、番組のタイトル、「バタフライエフェクト」とはなんぞや。
調べてみると、
原意は「1羽のチョウ(蝶)の羽ばたきが、嵐を起こすこともある」という、
英語圏での比喩らしい。

小さなきっかけが、
想像を絶する重大な結果をもたらすことがある、
という意味のようである。
確かに、世界はチョウの羽ばたきほどのささやかなことから、
思いもかけない大騒乱が起こる。
良くも悪くも、昔も今も、これからも……。

さて、テレビ番組の話はここまでとして、
このところ、確たる意図もなく撮ったパソコン内の「街」の写真を
整理して、「街」や、各地域別のホルダーに保存しつつある。
そんな作業を進めているタイミングで、
前述のテレビ番組を見ることになった。
焼け野原の東京の風景を見ながら、
ますます「街ホルダー」の編集を急がねば、
と思った。

いまは見慣れている街の風景も、
一瞬のうちに「そんな時代もあった風景に変わる」ことを
何度も経験してきているので、
この作業には、われなりの責任がかかる。
懐古感情というよりも、
人間の生活軌跡の記録としての興味である。

都内に限らず、いや、むしろ近隣の県のほうに、
〝古き東京〟を感じさせる風景が残っていて、
それを映像に残したい気持ちが高まっている。

家の造り、道の幅、看板、植木……などなどには、
人々がどう生ききたか、どう生きているかという、
流動的で、長期的・継続的な行動心理が
〝ライフスタイルの標本〟として投影されているから。

永六輔氏が言っていた、
「知らない横丁に曲がってみよう、それが旅です」に
大共感しているから、
いまも、あちこちで小さな旅を楽しんでいる。

「デジカメの撮影容量の大きさを活用せずして、
現代に生きていると言えるのか」と、
自分に言い聞かせつつ。

とは言え、
横丁でもなんでもない、
日比谷に、いまもあるマッカーサー司令部は、
乾いた気持では見られない場所の1つである。
ここから、ダグラス・マッカーサー元帥
(連合国軍最高司令官)が出かけるところを見ようと、
その前で待った。
速足でジープだったか乗用車に乗り込む姿を何回か見た。

第一生命ビルは、いまもその頃の姿で存在している。
(過日、その玄関の柱に寄りかかって撮ってもらった写真が、
もう、どこかに紛失して見つからないのが悔しい)

などということがないように、
新設した「街」ホルダーには、
古き東京、いまの東京、東京各地の写真を
蓄積していきたい。







ふたたび東京が、焼け野原になることはないと
信じつつ……。

(食ジム131回報告は次回に)
by rocky-road | 2024-07-17 21:10 | 大橋禄郎