イッペン、オッペンハイマー
影山なお子さんが主宰する映画研究会の
7回目では、
クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』を
リクエストして、鑑賞する機会を得た。

オッペンハイマーは、第2次世界大戦時、
原爆開発チームの中心的な物理学者。
個人名がタイトルになっているので、
この人の伝記または人物論かと思ったが、
内容は、戦中から戦後にかけての
アメリカ社会の重要な一端を
ドキュメンタリータッチで描く、物語というよりも
叙事的作品(叙事=事実、出来事をありのままに述べること)。

マンハッタン計画(原爆製造計画の暗号名)をなぜ急いだか、
それは、ドイツもソ連も開発中であったこと、
(一説に、日本も一部の研究者が着手していたとか)
そして、
戦時下のアメリカにも共産主義者は少なからずいたこと
(オッペンハイマーの1人目の妻も2人目の妻も共産党員)、
戦争末期から戦後にかけて、
彼らを排除するマッカーシズム(赤狩り)が吹き荒れたこと、
上院議員が、あたかも検察官のように
〝アカ〟と疑われる人物への追及が
いかにヒステリックであったか、
などなどに軸足を置いているため、
かなりテンポの速い展開ながら、
3時間にも及ぶ長編映画になっている。

これは、戦後生まれのアメリカ人にとっては、
勉強になる映画であろう。
オッペンハイマーの〝自伝〟や〝人物論〟ではないので、
彼が、自分のかかわった核爆弾が、
いかに残酷な兵器であったかを悩み、苦悩する姿などは、
ここではメインテーマにはなってはいない。
したがって、
日本人にわかりやすいタイトルをつけるとすれば、
『原爆開発の内幕』ということになるだろう。

現代に生きる日本人のヒントになるのは、
核爆弾がいかに危険な兵器であっても、
それを作った動機を考えると、
今後も、
いずれ、これを使う必然的な理由を
考え出す人間が現われることだろう、という点。

現に、ロシアのウクライナ侵略では、
原子力発電所への攻撃が懸念されているし、
日本の施設でも、テロの標的になりうることが想定されている。

映画には、
「原爆をどこに落とすか」と議論するシーンがある。
京都を文化的価値のある場所だから、と
避けようとする場面があるが、
歴史の浅いアメリカ人の歴史観の一端がうかがわれる。

もちろん、
避けるほうに選別された地域はいいが、
選別されなかった地域の不幸は言うまでもない。

一方、東京空襲などでは、
ほぼ無差別的に爆撃を行なっている。
核兵器でなければ、場所を選ぶ必要はないのか、
あとからは、なんとでも言えるが、
戦争状態に入った国の人々の思考は、
こんなふうに、時々刻々、場所や立場によって
変わるものである。

人間には、永遠に〝冷静〟でありうる判断など、
できはしない、ということか。

実際に、
中東地域の戦争やテロでは、
宗教的、文化的遺跡を、こともなく破壊してしまう現実がある。

それと比較すると、
80年余り前のアメリカには、
それなりの余裕もあった、とも言えようか。

映画では、上院議員による公聴会の様子が
これでもか、というくらいに描写されるが、
ここも学びのシーンと言えそうで、
アメリカ人の「議論力」の強さに脱帽する。

そうだ、この点は少し前に見た、
『落下の解剖学』にも通じる。

あの映画は、夫を殺したのは妻なのか、
それとも、事故か自殺かで論じ合う
いわば裁判映画でもあった。

『オッペンハイマー』でも、
公聴会のシーンに迫力があり、
ここがメインテーマか、と思わせるほど力を入れている。
欧米人は、コトバによる戦いも嫌いではないようだ。

映画界は、
アニメや特撮ものだけに向かっているわけではなく、
人間同士の、狭い空間でのやりとりを
テーマとする方向性も捨ててはいないようである。

日本の映画界はどうなっているのか不案内だが、
なにはともあれ、
こういう理屈っぽい映画を観る人が少なくないのは、
うれしいことである。

夢と希望を持つならば、
発射され核爆弾を抱えたミサイルを
完全に迎撃するか、
抑止することができるシステムを
研究し、開発する人物が、
きっと現われるはずである。

そして、そのシステムの開発秘話も、
いずれ映画化されるだろう。

タイトルは
『イッペンモ ハイラセネー』

by rocky-road | 2024-04-24 22:13 | オッペンハイマー