日本句読点学会から、各種事例のご報告。

メディアの伝える「紅麹」情報には、
「麹」という字の表記には、
バラエティがあることを教えてくれるという側面がある。

読売新聞は旧漢字(麴)を使用中。
NHKは新漢字の「麹」を使う。
知人からの情報によると、
毎日新聞は「こうじ」とひらがな書きをしているとのこと。
「紅麹」の商品パッケージ本体は新字体のようである。

読売新聞に電話をして、なぜ旧字体なのかを尋ねた。
回答は「商品の最初の登録は旧字体だったので、
それに従っている」と。

新聞(ニュースペーパー)は、
〝現在〟を伝えるのだから、現状に従っては?
とすすめたが、しかるべき返事はない。
ならば、『文藝春秋』の「藝」は旧字体だが、
紙上では「芸」にしているではないか、
と指摘したが、これにも、しっかりした回答なし。

さて、ここからは句読点および、用語、表記法の話題。
過日のJR電車内の広告に、こんなのがあった。
「なんで、私が……」「早大に。」と列挙するおなじみの広告。
ここでは、各キャッチに「。」が打ってあるが、
本文のほうには「。」はなし。「、」も少なめ。
話しコトバのつもりなら、句読点をしっかり打ちたい。
それに、「なんで、私が」……「医学部に。」という場合、
自問しているフレーズなのだろうから、
「(なんで、私が)医学部に?」のように「?」で締めたほうがよい。
なんで予備校なのに、句読点をしっかり使えないの?

同じく車内広告。
松下幸之助さんの長期にわたるベストセラー。
いまさら、なんですが、ここも願わくば「道をひらく。」と
したいところ。
読者からの「声」にも、もちろん「。」を入れたい。
もう1つ、注目したいのは、
「何度も何度も読み返してほしい座右の書」というフレーズ。
売り手側の押しつけがましい、尊大な表現。
バックに松下さんがいると、こうも上から目線になるものか。
そして、「ほしい」は、
いまや、日本語のていねい表現として定着したようである。

しかし一方では、しっかり表現している人はいる。
銀座で見かけた酒場ののれん。
「ぎん天。」と、きた。
店は混んでいたのでインタビューはできなかったが、
ただ者ではない経営者の言語センス。
近々、改めて訪ねてみたい。

いやいや、黙って入って、一杯飲めば、
いくらでもコンセプトを尋ねられるではないか。

世の中、当学会から表彰したい「アニマル」(兄マル)は少なくない。
以前、ビールの缶に《微アル、誕生。》と表示して
わが学会から絶賛された(?)《アサヒ》は健在で、
新聞の全面広告で、
「アルコール分が、0.00%が、面白くなる。」とやった。

「面白く」は気に入らないが、
しっかり「マルってる」のがうれしい。
メーカー自身なのか、デザイナーなのか、
そうとうな「アニマル」と見ている。

やはり新聞広告で〝マルってる〟のはアリナミン製薬。
「5つの効く」をアピールする新聞広告で、
カギカッコの下にも「。」をつけている。(「効く」。)
変則的だが、その心意気を買いたい。

新聞ではないが、
西松建設は、建設中の現場を覆う仮の塀ながら、
しっかりマルっている。
そこにこだわるのは看板屋さんなのか、
西松建設なのか、
なぜか、関係者の誠意が伝わってくるから不思議である。
地盤固めはバッチリ、か。

そうやって、みなさんがんばっているのに、
文章を売っている新聞社の表記は旧態依然。
とにかく「。」や補助符号を使いたがらない。

見出しに「。」を使わない主義なので、
語尾が、とかく体言止めになる。
こんなことを100年以上も続けているのである。

一部の雑誌が、
見出しやタイトルに「。」をつけ始めたのは
1980年代の後半ではないか。
当時、広告では普通に「。」を使っていた。

『栄養と料理』で〝さえ〟(?!)
タイトルに「。」を入れていた時期がある。
「マルを入れたい」と言ったら、
校正担当の、その道00年のベテラン女性から
「私も永年、校正の仕事をしてきたけど、
タイトルにマルを入れるなんて聞いたこともない。
そんなことできません!!」

編集長としては困ったが、
何回も頭を下げてお許しを乞うた。
すんなりとはいかなかったが、
なんとかマルく収まった。

あれから40年余り。
いまだに新聞はタイトルに「。」をつけない。
ようやく、ときどき補助符号を使うようになったが、
不慣れというのは悲しいもので、
リーダー罫(……)のカタチがなんともショボイ。

「お母さんとお父さん どこ」
とするこの見出しでは、
当然、末尾に「?」を入れて、
「お母さんとお父さん どこ?」と
すべきだろう。
それを、ノーチェックで通してしまうとは、
恐ろしい習性と言うしかない。

「恐ろしい」というのは、けっして誇張表現ではなく、
新聞の将来を考えての懸念である。
文字にもセンテンスにも〝表情〟がある。
1行が12~14字と短いのも、
新聞が考えた、読み手の負担を減らすための表情である。

見出しに「。」を使わない表現法も
新聞が選んだ伝統的な〝表情〟である。
が、時代は変わって、
句読点のない見出しは人間味にも、温かみにも欠ける。
(ネット上の句点省きの風潮には、ここでは触れない)

紙面の視覚的冷たさは、
記事制作者との〝合わせ鏡〟の関係となって、
書き手の冷たさを誘発する。
新聞記者に偉ぶった、冷たさを感じることと、
見出しの句点を使わない流儀とは、
遠く、遠く、しかし、確実につながっている。

新聞が、部数を減らすことなく存続し続ける気なら、
もっと、話題、コトバづかい、発想などに
人間味、温かさを滲ませることに
真剣に取り組む必要があるだろう。
「マルを軽視する者は、マルっきりダメ」

句読点、および各種補助符号は、
明治以降、欧米の影響で生み出し、使い始めたものだが、
そここにも、
日本人の文章表現に関しての心づかい、人へのやさしさ、
そして合理性の反映がある。
この文化に誇りと喜びを持たずにどうするか。

蛇足ながら、
パソコンには、補助符号があまりにも少ない。
責任の所在はわからないが、
かつて印刷時に自由に使っていた
膨大な文字や記号のバリエーシンが
跡形もなく消えた。


そのことを、雑誌や出版が指摘しないのは不思議。
文字表現の幅の狭さは、
50年前に戻ってしまったのである。
「!」(感嘆符、びっくり記号)のカタチが悪すぎるし、
縦書きのとき、「!」右に傾けることができないのである。
だれだ、表現の自由なんて言っているヤツは?
「もう、表現の自由なんて、とっくに失われているよ」

by rocky-road | 2024-04-10 17:52 | 日本句読点学会