宗像伸子さんとのお別れ。

管理栄養士の宗像伸子さんが、
先日(2024年1月26日)、
83歳で他界された。
告別式は1月31日、
東京・品川区の西五反田にある
桐ヶ丘斎場で行なわれた。

コロナ禍と重なる時期に、
「非生活習慣病」で闘病生活をしていた頃、
彼女は言った。
「生活習慣病でなくてよかった!」
(コロナともまったく関係のない、女性の病)
大橋「わかるけど、ぜんぜんよくないよ」

宗像さんとは、
女子栄養大学時代からの、
50年を超えるおつき合いである。

彼女は女子栄養大学卒業後、
同大学の栄養クリニックの職員としてスタートし、
その後、山王病院、半蔵門病院などで職歴を重ね、
1988年に《ヘルスプランニング・ムナカタ》(有限会社)を立ち上げた。

社会背景として、
1970年代の半ばあたりからは、
栄養士が独立して仕事ができるほど
健康志向の食情報が求められるようになっていた。
それまでは、病人食は病院内のものであり、
「食餌療法」などと表記されていた。

「成人病」(のちに生活習慣病)の予防への意識が高まり、
女子栄養大学出版部からは、
エネルギーコントロールやコレステロール、
塩分制限などに関する〝料理本〟が刊行された。

それ以前、それらの料理本は、
医学書を専門とする出版社から出されていたので、
写真はモノクロ中心で、そのルックスは
まさに「食餌療法」的な書物であった。

女子栄養大学出版部は、
そこに至る前には、
『おかず12か月』『肉のおかず12か月』など
《12か月シリーズ》をヒットさせていたので、
この編集手法によって、『糖尿病の人の食事』
『動脈硬化の人の食事』『コレステロール値の高い人の食事』
『がん術後の人の食事』などを
次々と出版した。

このシリーズを担当したのが藤原眞昭氏。
のちの群羊社の社長である。
そのころ、宗像さんは20歳代の後半くらい。
原稿用紙を使って文章を書く方法などを
藤原氏から教わっていた。

こういう経過をたどって、
生活習慣病対策としての料理本が出回るようになる。
当初はドクターの氏名が大きく書かれ、
栄養士の氏名はひとまわり小さく印刷されていた。

それがやがて、ドクターの監修さえ受けることなく、
理論に基づいて、栄養士が単独で料理本や
健康法の本を出すようになる。

宗像さんは、そういう時代の流れに乗って
大活躍を始める。

自身が主宰する《ヘルスプランニング・ムナカタ》を拠点に
大学の非常勤講師や、テレビ・ラジオ出演、
講演会、雑誌掲載の料理制作および記事の執筆、
ホテル内に常設された食事相談室担当などなど。
(くわしくはネットで)

ここまで多様な仕事をこなすことになったのは、
まさに栄養士の仕事が、病院の外、
つまり、人々の生活圏へと広がる時代の幕が
開かれつつあったからである。
そう、「治療」から「予防」の時代の始まりである。

宗像さんによる著述の基本思想は、
香川 綾先生考案の「四群点数法」による食生活の栄養管理法。
それを料理や献立で示した。
すべての料理はカードに収めて保存されている。

宗像さんのお料理は、
人柄そのもの、シンプルながら美しく、
気品を感じさせる風景を描き出していた。





控えめな人柄ゆえに多くの人から慕われ、
年末には、その人脈が集まる、
忘年会的なパーティが恒例となった。

ここには、ドクター、メディア関係者、教員、著述家、
ゴルフ仲間などが集まった。
(「宗像杯」と称するゴルフコンペも続けられたという)

私との接点は、仕事に関するアドバイスや、
ときどきの旅行、そして、カラオケ仲間でもあった。
子供の頃、コーラス部に席を置いたこともあるそうで、
澄んだ声で、「里の秋」や「四季の唄」を歌ったり、
ときには「天城越え」を歌ったりした。


栄養士の何人かが、
いまもメディアで活躍しているが、
料理本を50点、100点と著わすような時代は
ふたたび来ることはないだろう。

しかし、栄養士の社会的仕事が終わったわけではない。
新しい時代、たとえば「人生100年時代」の
オピニオンリーダーとなる栄養士が、
あちらこちらでスタンバイしていることだろう。
「宗像さん、あとに続く人はいるから、ご心配なく」
by rocky-road | 2024-02-02 22:23 | 宗像伸子先生