ムツゴロウさんとの、かすかなご縁。
ムツゴロウさん(畑 正憲/はた まさのり)が、
2023年4月5日に他界されたという。
海を通じて知り合い、
わずかながらも接点があったので、
その思い出を書いておこう。
最初の出会いは……とは言っても、
直接は会うことはなく、
香港への取材旅行に、別々の日程で出かけた。
水中造形センターが、
『海と島の旅』という雑誌を創刊することになり、
その取材のためである。
創刊号の発行は1978年(昭和53年)4月、
創刊は私の提案による。
私は外部スタッフとして、
創刊号の構想やプロデュースを担った。
この号を飾る企画の1つは、
当時人気のムツゴロウさんを連れ出して
香港の水族館でイルカと泳いでもらう、
というものだった。
香港の現地機関とのタイアップという交渉も進んで、
万事GOだったが、
私は本業(女子栄養大学出版部勤務)との関係で
ムツゴロウさんより先に香港に入り、
ダイビング取材をして、先に帰るという
すれ違いのスケジュールとなった。
しかし、その前後にお会いすることになり、
以後、何回か、
食事をしたり、彼が宿泊中のホテルを訪ねたりした。
当時から人気者だったから、
歓談目的の食事中にも、
周囲の人からサインを求められたりしていたが、
ムツゴロウさんは快く受けていた。
ホテルのサイドテーブルで原稿を執筆中、
彼の目の前に何かのポスターが張ってある。
鏡を覆うためにご自身で張ったのだと言う。
「そこまで原稿に追われる辛さ」という話題を出したら、
こんな話をしていた。
「才能がある人は、気が向いたときに書けばいいけれど、
ボクのように才能のない者は、
ない知恵を絞って絞って、絞り出さないと
なかなか書けないものですよ。
その中に1本でも、モノになるものがあればいい。
志賀直哉みたいに、晩年になって、
ほとんど書けなくなってしまうのは、
途中で休んでしまうからですよ」
この話は、大いに参考になった。
ちなみに、「ムツゴロウ」とは、ハゼ科の魚。
海の干潟に生息し、砂地を這ったり跳ねたりする。
上目遣いに周囲を見渡す姿は、
確かに彼が自称するように
ムツゴロウに似ている。
彼は、寝床で執筆するとき、
腹ばいになり、
布団を頭までかぶった格好になる、
その姿が魚類のムツゴロウに似ている、と思ったという。
いつ、どこであったか、
ムツゴロウとしか思えない、
大きな箸置きを見つけたので、
それを買って、彼に贈った。
使ってくれたかどうか、その後、どうなったか、
想像もつかない。
次の接点は、1982年。
『マリンダイビング』(水中造形センター発行)の、
恒例の「水中写真コンテスト」でグランプリを
いただいたとき、審査員は
村上 龍(作家) 畑 正憲(作家) 舘石 昭(水中写真家)
の3氏であった。
ムツゴロウさんのコメントはこうだった。
「この人、さすがにキャッチフレーズ(タイトルのこと)の
つけ方がうまいですね。それと、この作品は、
奇をてらったものではなく、ごく平凡な風景を
さりげなく撮って表現力を持たしていますね。
だから見ていて見飽きないし、
多くの人に愛される作品ではないかと思います」
調子に乗って、作家、村上 龍氏の、
私の作品についてのコメントも。
「ひと口にいうと印象派の作品みたいですね。
ドキッとするような作品ではないけれど、
壁に貼っていつまでもながめていたくなるような作品ですね。
今回のコンテストの中では、
一番見飽きないすばらしい作品だと思います」
グランプリ受賞と同じ年の1982年、
私が編集長を務める『栄養と料理』の4月号から、
ムツゴロウさんの新連載、
「ムツゴロウの食物誌」が始まった(1年間)。
第1回のタイトルは「闇鍋」(やみなべ)。
こんな内容のエッセイである。
日本政府の要請で夫について来日したアメリカ人女性。
しばらくして夫は他界。
奥さんは1人日本に残って、
関西のある海辺に住んだ。
日本に骨を埋めるつもりで、
料理教室を始めたりして、
地元の若者たちと仲よくなった。
ときには、酒の肴にと、
ラム(子羊)だのメンヨウだのを持ち込むと、
夫人は、難なくさばいてステーキにしてくれた。
しかし、ある青年が、カスミ網で
スズメを捕獲して(いまは法律違反の捕獲法)持ってきたときには
強い拒否反応を示す。
「これ、いけないネ。ダメ。ああ 神さま」
漁村のこと、クジラも食べる。
これについても、彼女は拒否。
「いけないネ。ツヨークいけないこと。
あつーい血が、鯨には流れてるネ。
それ殺す、いけないネ」
青年が反論する。
「そんじゃ訊くけど、ミセス・ナンシーは、
よくまあ牛肉を食べるね。
牛には、その、あつーい血は流れていないのかな」
「それ、違いますネ。牛、神が許した食べものネ」
あるとき、漁師の青年が、
時化(しけ)に遭って亡くなった。
彼女は大粒の涙を流して泣き続ける。
青年たちは、彼女を慰めるために、
「闇鍋」の会を催す。
「ヒジョーにおいしいですネ」と、彼女は喜ぶ。
彼女がトイレに立ったとき、
1人の青年が小声で話す。
なべには、時化で打ち上げられたウミガメを入れたんだ、と。
ふだん、ウミガメはダメと言っているのに、おいしいと言った。
別の1人が、それについて論じる。
「なにせ人を食ったババアだよ」
親しみをこめた言い方だったが、
手を洗っていたナンシー夫人、
それを耳にしてしまった。
この話は、
ムツゴロウさんが、ナンシーさんから直接聞いたという。
「お墓に持っていきたい秘密の話だけど」と前置きして、
人肉を食べた罪を告白する。
彼女は、闇鍋に入っていたウミガメの肉を
人間の肉だと、思い込んでいたのである。
アメリカ人には、
日本語の「人を食ったババア」の意味はわからない
(「人を人とも思わない」という意味)。
ムツゴロウさんは、このエッセイを、こうしめくくる。
「何十年も信じてきた彼女の罪の意識を
笑いとばしていいかどうか分からず、私はクククと
笑いを噛み殺すだけで精一杯であった。」
連載エッセイ「ムツゴロウの食物誌」は、
その後、1年続くが、
ムツゴロウさんは、動物愛好者として
ますます人気者になっていった。
ダイビング雑誌との縁もなくなっていった。
ムツゴロウさんとの縁は、
その程度のものだが、
後日、こんな縁も知った。
北 杜夫の『どくとるマンボウ航海記』だとか。
それを書写して、
ユーモアタッチの文章のトレーニングをしたという。
これは私も同じである。
軽妙な文体を身につけようと、
私の場合は、北杜夫のほか、
小田 実の『何でも見てやろう』、
山口 瞳の『江分利満氏の優雅な生活』
(えぶりまん)、
フランスのユーモア小説などを書写した。
書写は、
スポーツ選手にとってのランニングのようなもの。
動物王国の盟主・ムツゴロウ氏も、
しっかり足腰を鍛えていたのである。
87歳の訃報を知って、
わずかながら、楽しい人と接点があったことを
うれしく思う。
今度、『栄養と料理』の現役スタッフから聞いたのだが、
私が退職後、
『栄養と料理』の2015年11月号にも
ムツゴロウさんは、インタビュー記事で登場していた。
私の最初の企画と関係があるのか、
まったくの偶然なのか。
動物好きの作家と『栄養と料理』、
海の旅と動物作家、
どれも、ほとんど縁がないが、
無縁を有縁に変えるのが
編集という仕事の大事に点である。
そしていま、こうしてムツゴロウさんとの縁を
温めている。
さて次は、いつ、どこで?
by rocky-road | 2023-04-07 23:14 | ムツゴロウさん