遠路、はるばる哲学しちょる。
2008年に開設した「ロッコム文章・編集塾」の遠距離クラスが
この10月16日で56回を数えるに至った。
3か月の1回のペースなので、
ようやく56回となるが、
遠路を通ってくださる塾生の意欲に敬意を示し、
感謝を述べたい。
毎月クラスには通えない遠方の方のための教室である。
広島、山口、大阪、岡山、石川、秋田、岩手、千葉、神奈川などなどから、
少なくとも1泊2日で横浜まで通うことになる。
終日の授業なので、時間にはあまり追われない。
そのため、各自に近況報告をしていただく。
各地のローカルな話題を耳にするのは有意義。
みなさん、数分間の近況報告スピーチがうまくなった。
「ご報告は3つあります」と、
最初に話題の数を提示する発話形式が定着した。
このスピーチ力は、一生ものとして有効活用できるだろう。
(昼休みに、近くでよさこい祭りをやっていたので、
翌日の「食ジム」のときのものと合わせて
ここで使わせていただく)
いま、遠距離クラス、毎月クラスの塾生を悩ませているのが、
「人生とは……」「若さとは……」
「私を支えるコトバ 原動力となるコトバ」といった、
哲学的思考を試みる宿題。
健康支援者、栄養士に限らず、
こういう文章を書く機会は一生に1度もない、
というのが現状ではないだろうか。
「ボッーと生きる」のではなく、
「私ってなんなのか」
「どこへ向かっているのか」
「人生とはなんなのか」
「若さとはなんなのか」
などということを、1回でも考えておくと、
人生の味わいが違ってくるはずだ。
現在から未来までの、
見えないものを見る視力と洞察力を
磨いておく必要もある。
あしたの天候を予測するのは科学だが、
あしたの世の中の動向、
自分のあしたの行動方針、
人生の方向性……などは、
科学では予測できない。
哲学的思考が苦手な者、
たとえばロシアのプーチンとか、
中国の習近平とかは、
自分が悪名高き独裁者として
歴史に名を残すことを考えられない。
けっきょく、自分も非業の死を遂げ、
一族郎党が世を憚って生きていくことになる
という必然を予測できない。
若いときに、
「生きるとはどういうことか」
「自分の人生をどんなカタチにするか」
という哲学をする機会がなく、
成り行き任せに生きてしまうと、
こういう極悪の犯罪者となって
末代まで悪名を残すことになる。
宿題に戻るが、
こういう文章には、通常「私」は登場しない。
(私は)「こんなことがあった」「こんなことをした」
というエピソードも原則としていらない、邪魔。
そこにつづられることは、すべて「私」が考えたことだから、
あえて、「私」は必要ないし、
「こう思う」「こう考える」などのフレーズも必要ない。
せいぜい「であろう」「といえるだろう」どまり。
みなさんがつまずくのは、
ヒントを得ようと、
ネットで哲学者や著名人の「言」に当たってしまうこと。
いや、検索するまではいいが、
軸足がそちらに移ってしまって
自説が分散してしまう(もともと自説などないのだが)。
辞書や文献、ネットに当たることは悪くはないが、
学術論文とは違うので、
「そんな人知らない」という表情で
自論を進めることである(パクリはすぐにバレるが)。
もっとも、その説に反論するために
アリストテレスやデカルトをあげるのは大いによろしい。
「生きるとはなにか」を考えることなく、
ボーっと生きている人間は、
無免許で「人生」という公道を
地図もナビもなく、自動車で走るようなものである。
哲学の文体とは、上記4行、
こんな感じである。
by rocky-road | 2022-10-23 22:58 | 大橋禄郎 文章教室