なんにもなくてもいい……。
1人でいるとき、耳の奥でBGMが流れるタイプである。
街を歩いているとき、自転車で走っているとき、
調理や食器洗いをしているときなど、などなど。
耳の奥で、歌詞つきで、いや、歌詞に曲が乗って流れてくる。
もう、80年以上前からのことである。
昔、東京でも雪がよく積もった。
そんな雪道を歩くとき、かならずと言っていいくらいに、
「♪ 雪の進軍氷をふんで、どれがなにやら道さえ知れず
馬はたおれる捨てても置けず
此処は何処(いずく)ぞ皆敵の国……♬」と演奏が始まる。
この曲、いま調べれば、
明治28年、永井建子という人の作詞・作曲とのこと。
10歳前後の子供が、
この歌を、どこで、どう覚えたか、
まったく記憶にないが、
雪道では、普通にこの曲が流れてくる。
ほかにもいろいろある。
過日(8月14日)の「ぶら パルマ」で
日本橋を歩いたときには、
いくつかの曲が流れてきた。
その1つは、『東京の屋根の下』
「♪東京の屋根の下に住む
若い僕等は 幸せ者よ
日比谷は恋のプロムナード
上野は 花のアベック……♬」
(昭和23年 佐伯孝夫作詞 服部良一作曲
唄・灰田勝彦)
この曲の3番は
「浅草 夢のパラダイス 映画にレビューにブギウギ
なつかし江戸の名残り 神田 日本橋
キャピタル 東京 世界の憧れ
楽しい夢の東京♬」
このあたりが流れてきた。
作家の山口 瞳氏は、
そのころ結婚して、狭い1部屋に住んでいた。
「なんにもなくてもいい 口笛吹いてゆこうよ」
というフレーズに泣いたと、
どこかに書いていた。
戦後の東京を歌った歌は多く、
そこには、銀座、浅草、新宿、神田までは出てくるが、
なぜか、日本橋となると、
『東京ラプソディ』にも『夢淡き東京』にも、
神田までは来ているのに、
あと1駅の日本橋までは足が延びない。
あえて空想すれば、
『夢淡き東京』の2番、
「♪ 橋にもたれつつ 二人はなにを語る
川の流れにも 嘆きをききたまえ
なつかし岸に聞こえ来る あの音は
むかしの 三味の音か
遠くに踊る 影ひとつ
川の流れさえ 淡き夢の街 東京 ♬」
(昭和22年 サトウ ハチロー作詞 古関祐而作曲
歌・藤山一郎)
しかし、三味線の音が聞こえるとなると、
そこは、浅草か築地か。
わが日本橋の出番はない。
日本橋にもたれて川面を見下ろし続けたことはあるが。
「江戸のなごり」を薄め続け、
かといって、新宿や池袋、浅草のようには若返ることもできず、
むしろ、三越、高島屋、白木屋(東急)などが
集まるデーパート街として、
あるいは証券会社街として今日に至っている。
しかし、地域というのは、
いったんはさびれることはあっても、
別のカタチで蘇る。
地域経済にとっては深刻な問題であるとしても、
従来の個性を保ちつつ、時代に適応してゆくものである。
浴衣姿で1日を楽しむことができるということは、
そして、天ぷら屋や、とんかつ屋の前に
若者が行列をつくって順番待ちをしているということは、
江戸のなごりの残り具合はどうであれ、
新世代の人々にとっても、
充分に魅力のある街であることの証明となる。
そして、人生を楽しむ〝旅派〟としては、
人のことはどうでもよい、
「知らない横丁を曲がってみよう。それが旅です」
(永 六輔)の精神を持ちつづけることであろう。
さらに作詞家にもひとこと。
なつかしい江戸のイメージを捨てて、
新しい日本橋を歌ってみろよ。
そういう風景を歌う作詞家が少なくなった。
「ボク」と「キミ」が多い。
歌の世界にも、スマホ依存症からくる
視野狭窄が始まって久しい。
しばらくは、
わが脳内BGMは
「♪ なにんもなくてもいい ♬」
「♪ なつかし江戸の名残り 神田 日本橋 ♬」
でいくしかない。
でも、ここで終わると、
「戦後の歌ばかり歌いやがって、
昭和前半生まれの若造が……」
と言われそうなので、
締めはシャキッと江戸時代(?)の歌を。
これぞお題は「お江戸日本橋」
「♪ お江戸日本橋七つ立ち
初のぼり 行列そろえてアレワイサノサ
コチャ高輪夜明けて提灯消す
コチャエ コチャエ ♬」
「行列そろえて」とは、参勤交代の行列か。
そして「コチャエ コチャエ」は、
なんとなく関西っぽいが、いいのかな?
いずれにせよ、
これもまた、わが脳内BGMの1曲である。
参勤交代時代の歌が
昭和の人間の脳内BGMに入っている。
これが日本の音楽環境の実態である。
by rocky-road | 2022-08-18 23:02 | 大橋禄郎