カナカナゼミの鳴く季節。

「1.動詞の連用形に付いて『…たり…たり』のカタチで、
動作の平行・継起することを表す。前が撥音のときは
『だり』」となる。」(以下、略)
(「だり」型例=「飲んだり、噛んだり」/大橋)

このほか、「笑ったりしてはだめ」や
「さあ、どいたりどいたり」などの用法もあるとする。
また、江戸時代の人情本には、こんな用例もあると。
「力になったり、なられたり」

1つの動詞を普通形と受け身形に使う用法は
現代社会でも普通にある。
「買い物に誘ったり誘われたり」
「親切をしたり、されたり」
「ほめたり、ほめられたり」

ところが、現代日本語の日常表現では、
江戸時代の用法とは異なる。
普通名詞の1つ1つに「たり」をつける。
伝統のある用法というよりも、
比較的、いや、かなり新しい、そして普及度の著しい用法である。
「コロナであったり、ウクライナであったり」
「スーパーであったり、駅ビルであったり」
「玉ねぎであったり、キャベツであったり」

文法は、人が歩いたあとにできる「地図」だから、
人やケモノの歩いたあとに「道」として登録される。
このことは、すでにこのブログでも何回か書いた。
辞書は、国語の模範的使用法を示すのではなく、
これまでに辿ってきた道のりを示す。
辞書に登録されていようが、いまいが、
話したいように話し、書きたいように書く。
それがのちに「辞書」に登録される。

しかし、それでも、
「たり」が動詞につくという文法までは変えることができず、
「コロナ」(名詞)のあとに「ある」という動詞をくっつけて
「コロナであったり(「ある」という動詞の連用形)、
ウクライナであったり」というカタチにする。

従来の名詞をそのままで言えば「コロナやウクライナ」
「スーパーや駅ビル」などとシンプルに、
端的に表現できる。
そこをわざわざ「であったり」とする言語心理とはなにか。

それは、名詞を2つ並べるだけではインパクトが弱い、
そこで「であったり」と、動詞の連用形をつける。
こうすることで、1語1語の印象が強くなる。
江戸時代の「力になったりなられたり」や、
たとえば、「自粛を求めたり求められたり」
「水をかけたり、かけられたり」
とは使い方が異なる。

用語のインパクトを強める、この話し方からは、
控えめ表現を好む日本人には珍しく
表現への意欲が感じられる。
すでにスラング(卑語)から引っぱり出して、
完全に日常語にした「ヤバい」にも、
よくも悪くも、この攻めの姿勢が感じられる。
(昔は世を憚る商売や不良が使うコトバだった)

しかし、こうした攻め表現は、
割合からすればごく一部で、
日本人の日常会話は、
全体としてみれば、いよいよゆるくなってきている。
自分の感情を表わすのにも、
「とても、うれしいかな、と思う」
「大いに名誉と思えるんじゃないかな、と……」
「ちょっといやかな」
などと、確信をボカして、あいまい表現をする。

専門家が、自分の得意分野のことを語るのにも
「感染のリスクを徹底的に
抑え込む努力をすることじゃないかなと思います」
「高齢者のたんぱく質不足は、体力低下にとどまらず、
認知機能の低下の要因にもなる、
と言えるんじゃないかなと……」

このほか、
「好きっていうんじゃないけれど、毎日食べています」
「それは人を侮辱するというか、とても傷ついています」
自分の使ったコトバを自分で打ち消す、
この度し難い、腰の引けた表現。
もはや謙虚というよりも狡猾な煙幕表現にほかならない。

日本各地で、
地面や道路の陥没、山崩れなどが起こっているが、
かつて小松左京が描いた地質的な「日本沈没」ではなく、
信念やモチベーション低下による
「日本陥没」が、すでに日本中で始まっている。

過日の参議院員選挙における各党のスローガンを見ると、
「決断と実行」(自民党)
「日本を、前に。」(公明党)
「自由と平和。まっすぐ、つらぬく。」(日本共産党)
などで、これらも、モヤモヤとしている。
(平和が話し合いで維持できるのなら、
ロシアとウクライナへ行って、戦争を止めてこいよ)

こういうあいまいなスローガンを掲げる政党を
「弱腰」「あいまい」と指摘することはできるが、
それ以前の問題として、
こういうスローガンを受け入れる国民がふえている。
これぞ国民の精神的地盤沈下が進行している実態である。

この現象は、
コトバから地盤沈下が始まるというよりも、
モチベーションが低下した国民の心が、
「コトバづかいの、ゆるさに現われる」という順序になる。

ゆるいといえば、
先日、月刊誌『婦人公論』の新聞広告に、
ある雑文家の「転倒騒ぎで友のありがたさに気づいた」
という記事のタイトルが載っていた。

「おやっ?」と思ったのは、
この人物、2018年に『極上の孤独』という本を出し、
「友達や知人は少ない方がいい。」と言っていたからである。
ところが今度は、
その少ない友達に助けられたという話らしい。
たまたまスーパーで雑誌を開いたら、
夫が転倒し、このとき友人に助けられた、
というレポートである。
そこでまた、「おやっ?」である。

彼女は、同じ年に『夫婦という他人』という本も出しているし、
それ以前には、
『家族という病』という本を出しているらしい。
『夫婦という他人』では、
「分かち合えない」「分かり合えない」のが夫婦、だと言っている。
そこまで冷たい考え方をするのであれば、
「他人」の夫が、転倒しようがなにしようが、
知ったことか、と応じるのかと思ったら、
なんと「少ない方がいい友達」に助けてもらったという。

だから軽々しく孤独をすすめたり、
家族や夫婦を病気の原因にしたりなど、
他人呼ばわりするものではない。

チヤホヤして育てられ、
仲間と交わる機会が少ないままに成長すると、
世間知らず、人間知らずの未熟な大人ができあがる。
年を重ねても分別は身につかず、
言いたい放題の、やっかいな、ただのオバサンになる。
そういうご仁がベストセラー作家だという。
笑うしかないが、そんな本がヒットする社会こそ、
まさに「極悪の悲劇」「極悪の地盤沈下」である。

モチベーションが下がっている国民というのは、
事程左様に弛緩度が高まるばかり。
国というものは、人間がつくるものだから、
1個人と同じような行動をとる。
若いときは、さんざんバカをやって(近隣を威嚇したり侵略したり)
迷惑をかけたりするが、
そのモチベーションが治まると、
にわかにおとなしくなる。

もともと控えめな凹文化圏の日本国は、
元のあいまいタイプに戻って、
「かな?」「かな?」と、カナカナゼミ(ヒグラシ)となって、
〝ひがな〟むなしく鳴き続ける。
凸文化圏のアメリカの場合は、
モチベーションの向け先を失って、
「ミートゥー」だ「分断」だ、といって、
内部や過去から「敵」を見つけ出している。

いま、国として青年期を迎えているのは
中国、ロシア、韓国などなどである。
モチベーションの高い人間は、
いろいろの意味で表情が輝く。
中国やロシアの政府関係者の表情というものは
「闘う人間の輝き」を放っている。
二コリともしない。まさに無表情。
「輝き」は「笑顔」とは限らず、戦闘モードの輝きともなる。
あの顔が、ほほえみに変わるには、
あと100年は、かかるだろう。
その間には、かならず「バカをやる」
あちこちに迷惑をかけて、
そののち、自滅するか、勝者となって
温厚な大人の顔というものを知るのか。

では、
モチベーションの落ちた国のそれを
アップする方法はあるのか。
ある。
ずいぶん遠回りにはなるが、
個人のモチベーションを高めるしかない。
「人は、自分は、なんのために生きているのか」
その答えを得るためには、
とにかくいろいろの刺激を与えることである。

1日の中でも、居場所を変える、
インドアからアウトドアへ、そして公共の場へ。
出会って向き合う対象を多くする。
人間以前に、植物、動物とコミュニケーションをとる
(水やり、なでる、スケッチ、撮影もその1例)、
そして、行動は「動」と「静」(たとえば読書や執筆)のミックス。
要は、動きながら考え、考えながら動く、
そういうことであろう。

by rocky-road | 2022-08-01 13:05 | 大橋禄郎 文章教室