引き締まった日本語を。

2021年7月から数回、
わがロッコム文章・編集塾の各クラスで、
「引き締まった日本語表現を心がける。」
という講義を行なった。
そのあとの宿題は
コトバウォッチング――気になる「引き締まらないコトバや表現」
とした。
各クラスから宿題が提出されたが、
その中に、テレビコマーシャルにある表現が
「引き締まらない表現」の例としてあげられていた。
それは、洗口液《リステリン》のCMで、
マスクをかけて活動している女性が
自分の口臭を気にすると、
擬人化されたマスクがしゃべり出す。

マスク君は言う、
「口内には手の40万倍もの雑菌がいる」と。
リステリンは、それを除去する商品だとのアピールである。
マスク君は、なぜか大阪弁で、それを言ったあと、
「知らんけど……」で結ぶ。

塾生の提出評論では、
「つけ足しのこの一言は、引き締まらない表現」とした。
大阪弁のニュアンスはわからないが、
講師・大橋としては、
この「知らんけど」のギャグを肯定的に受け取っていたので、
提出者に、「これはギャグとして、よいのではないか」と述べた。

自分のメッセージを減ずるような「知らんけど」の一言を
あえてCMに使いたいと考えた起案者や
それをチェックする係、さらにはスポンサーの度量とユーモアセンスを
東京人は「粋」ととらえた。
一歩引くことで、むしろ親近感や信頼性を高める、
なかなかのテクニックではないか。
以来、このクラスでは「知らんけど」が流行っている。
(「流行る」という当て字だけは「ひらがな」表記がしにくい)

かくするうちに、年が明けて、
元旦の読売新聞「よみうり歌壇」欄に、
俵万智さんの、この歌が載った。
「知らんけど」はツッコミ防御するための
便利な言葉です、知らんけど

万智ちゃんが、リステリンのCMを見たかどうかは知らんけど、
「知らんけど」は、それなりにユーモラスな表現である。
信憑性のうすい耳情報であることを前提とした、
それなりに誠実な表現でもある。

そういえば、世の中には、
少なからずの「ツッコミ防御」表現が〝蔓延〟している。
いや、すでに日本語の標準的言語表現として定着しつつある。
*「オミクロンの収束は当分ないんじゃないかな、と思います」
*「自殺を憐れみすぎることは、
自殺を容認、促進することになるんじゃないかなと言いたい」

この場合の「……かな」も、語尾をぼかすことで
確信度を弱め、仮に反論されることがあれば、
「疑問を述べただけ」「言い切ってはいない」と
逃げることができる。
実際には、けして反論を予想しているわけではないし、
ギャグとして使っているわけでもない。

子供は、こういう表現を好む。
「早く学校へ行けるようにならないかな」
「サンタさん、うちにも来ないかな」
これは脳内にある願望(内語)の表出。
内語をつい口に出してしまう。
大人がこれを使うと、幼く見える。
もっとも、昔は新聞などを音読する大人が多かった。
電車の中でさえ。

社会が社会性を強め、いわば「おすまし」に、
あるいはクールになると、
内語はしっかり脳内にとどめておく習慣が身につく。
そして、表現をするときには、
思い切り婉曲表現になる。
「お茶とかしない?」
「なんか、違うと思う」

かつて日本人は、
「……当分、ないと思う」「……促進することになると言いたい」
として、自分の発言に責任を持った。
が、それは人生50年時代であったかもしれない。
「言語表現に幼さがあったほうが
健康寿命の延伸に有利」
なんていう考えに基づいて使っているはずはないが、
結果として、この場合は、
幼い〝ふり〟をすることは、成熟を遅らせる効果がある。

社会心理学的に見れば
日本人の社会意識、世界観が
内向きになっていることの反映とも言える。
ヒトは外的ストレスが弱まると
身近なところにストレス因子を見つけたくなる。
身近なところに外敵を想定して、
警戒心を育て、対策を講ずる。
まさに「杞憂」の世界である。

天変地異や空襲で命が脅かされている時代には、
沈黙するか、端的なコトバで意志を伝えるかして、
自分を守った。
人の悪口を言っているヒマや、
婉曲表現で自分を守る必要もなかった。

「ツッコミ防御」心理や、
人との接触を過度に和らげようとする心理は、
一種の内的ストレス因子の緩和である。
いずれにしろ、人はストレスを必要とし、
それを緩和するモチベーションで動く。
インターネットの世界における「炎上」なども、
やることが見つからない当事者のストレス緩和法である。

現実には、外的ストレスが高まっているのだが
(日本の近環境を見よ)、
そこに目を向けようとしない、
「一億総認知低下症」状態にある。
もともと日本は外圧によって
重い腰をあげる傾向がある。
それを「他律的」という。
鎖国好きは、地政学的な必然なのかもしれない。

そういう国では、
政府のリーダーシップは低く、
国会議員は無気力、
マスメディアは〝事なかれ主義〟の報道を続ける。
それらによる相乗効果によって、
言語表現は幼児化、軟弱化する。

言語文化は、
おもに親など、年代の上の者から年少者に継承されるが、
「ツッコミ防御」表現の場合、
若年層から上へと昇ってゆくものも少なくない。
たとえば、こんな表現。
「不安って言うんじゃないけれど、なんだかこわい」
「懐疑的じゃないけれど、信じられないよ」
「渋滞じゃないけれど、車で5時間かかりました」

自分のコトバを自分で打ち消しておきながら、
実は、「発言のとおり」、ということになる。
このややっこしい表現、
まともな神経とは思えないが、
こんな表現を、毎日、数千万人がしているのが現実。
「よう知らんけど、どっちやねん?」

言語コミュニケーションの世界にも
「悪貨が良貨を駆逐する」法則があるから、
こういう表現を駆逐することはできない。

言ってもムダだが、
少なくとも自分は使わない、
そう誓い、それを実行するのがセンスのある者、
教養のある者の責務であろう。
感染させないことも、
社会人としての務めであろう。

by rocky-road | 2022-02-02 22:33 | 大橋禄郎 文章教室