愛をこめて、ご自愛ください。

わが《ロッコム文章・編集塾》では、
10月に、こんな宿題を出した。
「私が愛する日本語、気に入っている表現法
というテーマで一文を書いてください。」

この出題にそって塾生からは600字のエッセイが提出されたが、
ここでは、「わたしが愛する日本語、表現法」の
単語またはフレーズだけをご紹介しよう。
(クラス、順序などランダム)

「うららか」
「さわやか」
「紡ぐ」(つむぐ)
「ご自愛ください」
「いい夢見てね」
「とんでもないことでございます」
「おかげさまで」
「愛をこめて」
「ごめんください」
「恐れ入ります」
「かしこまりました」
「申しわけございません」
「雨」各種(春雨、梅雨、時雨、氷雨など)
などという具合に、
ていねいなあいさつコトバが多かった。
大和言葉の伝統や、相手を思いやる気づかいが
若い世代にも受け継がれ、
いまも、しっかりと生きていることがわかってほっとした。

なかには「ふんどしを締めてかかる」
なんていう、勇ましいのもあった。
確かにこれも純然たる日本語表現である。
この表現を若い女性があげたのには面食らった。
ご本人は、気合を入れるとき、
「エアふんどしを締める」のだとか。
「エアふんどし」イイネ。

ちなみにこのパソコン《ウインドウズ》では、
カギかっこ(「 」)なしで、「ふんどし」と入力すると、
赤のアンダーラインのチェックが入る。
パソコンの中では、「ふんどし」は死語になったようだ。

さて、
上記のような母国語への愛着の反映として、
戦後から今日まで、
「カタカナ語の乱用が気になる」
「日本語が危ない」「コトバが乱れている」などとして、
カタカナ語(かつては外来語といった)の
多用、乱用を嘆く声が、
昔は新聞で、いまはインターネットで公にされている。

戦後、しばらくは、
お化粧用語やファッション用語が
やり玉にあげられることが多かった。
メイクアップ、アストリンゼント、モイスチャー、
アンコンジャケット、プレタポルテ……。

なのに、スポーツ(当時は野球)用語やチーム名には
文句をいう人はほとんどいなかった。
「近畿グレートリング」「東急セネターズ」「阪急ブレーブス」
スクイズ、スチール、ランニングホームラン……。
チェックを入れる人の多くは男だった、
ということだろうか。
いまは、パソコン用語で迷う人が多いのではないか。

外来の文化や文明をとり入れるとき、
それを指すコトバがついてくるのは当然のことだが、
日本人は、国外の文化や文明を
とり入れる熱心さという点で、
類まれな国民であったため、
外来語の割合が非常に多くなった。

それ以前のこととして、
日本人は、文字そのものを輸入し、
それを土台にしてカタカナやひらがなをつくった。
以来、3種の文字を日常的に使い続けている。
その中で、カタカナは
外来語を日本語化するのに使い勝手がよいと、
フル活用されている。

当然、ものの考え方や書き表わし方が
中国の影響を受けることになり、
平安時代にはそれを「唐めく」(からめく)といった。
現代風にいえば、「中国かぶれ」か。
最初はよい意味であったそうだが、
しだいに悪い意味になったという。
「西洋かぶれ」「アメリカかぶれ」と同様だが、
漢字にしろ英語にしろ、
いまや「かぶれ」の段階を通り越して、
血となり肉となって
日本語、そして、日本人を支えている。

(楽屋の話/私は、カタカナ、コトバ、ダメなど
いくつかの日本語をカタカナ書きしている。
紙面のデザイン性、読みやすさによる。
ただし、カラダ、ハダカはなじめない)
さて、続けよう。
欧米では、外来語をどのように表記しているか、
くわしくは知らないが、
通常使う文字、たとえばアルファベットに対して
カタカナに当たる文字はないので、
外国語の表記は、「“ ”」で囲ったり、
書体を変えたりするのが現状だろう。
文章の中に、そういう部分が頻繁に出てきたら
さぞや読みにくいだろう。

しかし、その心配は無用か。
日本語のように、外来語の割合が多くはないだろうから、
〝 〟つきの語や、書体替えのスペルが
文中にやたらに多くなることはなく、
読みづらいということにはならないはず。
これに対して、わが国の場合、
日本語にカタカナ語の比率が高いのは確かだが、
だからといって、それを
「氾濫」だの「乱用」だの「日本語が危ない」だのといって
騒ぐことでもない。
むしろ、世界中の言語を
カタカナで表記すれば、
一瞬に日本語にしてしまう、
という特性をもっと喜んでいい。

社会言語学者の鈴木孝夫氏は、
漢字を「テレビ型言語」(表意文字のこと)
カタカナ、ひらがなを「ラジオ型言語」(表音文字のこと)
と呼び、それらを使い分けることは
日本人にとってたいへん有利だとしている。

「バーゲンでパソコンをゲットしたので、
古いノートパソコンはリサイクルショップに
引き取ってもらって……」などと
話したり書いたりしても、
日本語は(日本語文法は)びくともしない。

「コトバが乱れている」というとき、
その意味を深く考えて指摘する人は少ない。
外来語の使用量がふえることや、
「寝れる」「食べれる」などの「ら抜きコトバ」が
ふえることは、けっして「乱れ」とはいえない。
それは「変化」であり、表現の幅の広がりである。
コトバはコミュニケーションの道具だから、
道具は多いほうが便利であり、
つねに使いやすいように改良(?)される。

少なからずの国語学者は、
「ら抜きコトバ」は
「読める」「書ける」「歌える」「走れる」など、
「可能動詞」への移行期ではないか、と見ている。
とはいっても、「ら抜きコトバ」は
大正時代に登場したそうだから、
変化が終わるまでに、
つまり定着するまでに100年近くも
かかっていることになる。

「ヤバい」(不都合である、危険である)というコトバが、
「よい」「ステキ」という、
肯定的意味に使われるようになるのに
30年(?)もかからなかったことを考えると、
「ら抜きコトバ」への抵抗はそうとうに強いことになる。
カタカナ語を省いて
「マクド」「エアコン」「インフラ」
「エンタメ」「コスパ」などとすることにも
抵抗する人は少なくないが、
こういう流儀も日本語の包容力、底の深さと
考えればいい。

ここでも、道具としてのコトバが、
使い勝手がよいように作り替えられ、
時代とともに摩耗し、
角が取れてくるという現象が見られる。
しかし、その一方で、
「おいしい」「違和感を抱く」「うれしい」
と言い切ればよいところを、
「おいしいというか……。」
「違和感というか……。」
「うれしいというんじゃないけれど。」と、
手間のかかる表現をする人が
圧倒的に多くなっている。

こうした多様性のある国民性、
言語表現力を、
安易に「乱れだ」「氾濫だ」
と決めつけないで、
言語現象として観察し、分析する探究心を養いたい。
ただし、
新しいコトバや言い回しを
無防備に取り入れることまでは、すすめられない。

いま、氾濫中の新表現の一部に
「……そんな中」「……こんな中」
「あしたにかけて……」「北海道から東京にかけて」
(NHKのテレビの天気予報)
「違和感」「安心・安全」などがある。

使用する道具には、
その人のセンスが現われる。
ブランド品を選ぶときの慎重さをもって、
きょう使うコトバ、いま使うコトバを選びたい。
ここは「フンドシを締め直して」行こう。
「愛をこめて」「ご自愛ください」
by rocky-road | 2021-12-01 13:21 | 大橋禄郎 文章教室