会社や雑誌に必要な栄養補給とは。

「㈱水中造形センターの倒産」という情報が
地方の友人から入った。
倒産は7月だという。
不覚にも、この情報を1か月後に知ることとなった。
創設者の舘石 昭氏(たていし あきら)が他界(2012年)してからは、
同社とは、すっかり縁遠くなっていた。
「水中造形」について、私の角度から書いておくことは
なんらかの意味があると思うので、以下、記述してみよう。
舘石昭さん(1930~2012年)と出会ったのは
1960年末から70年(昭和44~45年)の初めころ。
日本で最初のダイビング専門誌『マリンダイビング』が創刊され、
その第1号か2号かの写真の扱いについて
異見を伝えるハガキを送ったところ、
「1度、お目にかかりたい」とのご返事があり、
当時、東京の大塚にあったオフィスを訪ねた。

舘石昭さんは、戦後のスクーバダイビングの
第一次期の習得者のお1人。
ダイビングは、進駐軍のレクリエーションだったものが、
近くにいた日本の青少年を通じて伝わった、とされる。
「オレが最初」という人が多いが、
輸入期を1945年から1955年までの10年間とすれば、
舘石さんは第1世代のお1人。
千葉大学工学部意匠学科に入学したこともあって、
芸術性のある被写体を求めて水中写真を始めた。
当時は、海の生物の生態を記録することが中心だったが、
舘石さんの写真は、
モデルと海洋生物という構図を基本とした。
モデルとの綿密な打ち合わせのあと、水中撮影となる。
こういう演出のある写真は、
そう簡単には他者の追随を許さない。

さて、大塚の事務所を訪ねたときの話。
いろいろと意見を言ったら、
「ダイビング雑誌といえども、ちゃんとした国語を使った、
文化財として恥ずかしくないものを創りたい」と、舘石さん。
現役編集者(私は女子栄養大学出版部勤務)にとって、
このセリフは殺し文句である。
大いに共感し、以後、月1回の編集会議をはじめ、
いろいろの用件で大塚に伺うことになった。
私の勤務先は駒込。大塚までは2駅。
自分の仕事が多いときなどは、
午後7時から予定した編集会議に間に合わず、
9時くらいまで待ってもらったこともある。
こんなふうに始まって、2000年くらいまで、
およそ30年間、外部スタッフとして
舘石さんをはじめ、
水中造形センター(海の写真のライブラリー)や
『マリンダイビング』のスタッフと
かかわりを持つようになる。
「ライブラリー」とは、貸し出し用の写真をストックしておく会社。
もともとは水中写真のプロダクションであったが、
『マリンダイビング』の発刊によって、
出版社にもなってゆく。
そのため、出版事情をお伝えしたり、
書籍の企画や編集(『ニコノスフルガイド』ほか)、
雑誌の創刊(『海と島の旅』『マリンフォト』)の企画・編集などの
お手伝いをしたりすることになる。
また、3誌ある雑誌に、順次、連載記事を書き続けた。



私自身はスノーケリングクラブや
水中アマチュアカメラマンサークルの運営に
かかわり続けていたので、
アマチュアダイバーのニーズを
雑誌や書籍に反映させることができた。

さらには、会社の運営についても
いろいろと私見を述べた。
会社運営の経験がない私の意見を
舘石さんはよく聞いてくれた。

会議のあと、車で家まで送っていただき、
そのまま車中で話しこんでいたため、
早朝、豆腐売りのラッパの音で、
翌日になってしまったことに気づいたこともある。
近くに外務大臣の自宅があったので、
警備中の警察官に声をかけられることが何回かあった。

さらに、舘石さんが海外に出張中には、
カメラマンの売り込みの対応をしたり、
入社希望者の面接などを代行したりもした。

そして、私自身の本も出していただいた。
(『ハッピーダイビング』)


スノーケリングクラブの仲間や、
女子栄養大学出版部の元スタッフを
編集者、校正マンとして紹介したり、
元『マリンダイビング』のスタッフを
『栄養と料理』のスタッフとして招いたりした。
彼は、のちに『栄養と料理』の編集長になる。

また、『マリンダイビング』のフォトコンテストの
審査員のお1人であった「ムツゴロウ」こと
畑正憲さんとの知己を得て、
のちに『栄養と料理』に1年間の連載をお願いした。


いま活躍中の水中カメラマン・中村征夫さんは、
水中造形センターのカメラマンであったし、
望月昭伸さんというカメラマンも同様。
望月さんとは『海と島の旅』の創刊前に
フィリピンや沖縄の街を取材した。
が、1999年に小笠原島で
クジラの生態を水中撮影中に事故で亡くなった。

舘石さんからは、水中写真の撮り方を
間接的に(見よう見まねで)教えていただいた。


フィリピンや香港の海で、
舘石さんの撮影の様子を観察していて、
被写体の待ち方などを学んだのである。

そのお陰で、
『マリンダイビング』の第11回フォトコンテストでは
「グランプリ」をいただき、


富士フイルム主催のネイチャーフォトコンテストでは「金賞」、


読売新聞社主催の第29回《よみうり写真大賞》テーマ部門では
「第1席」をいただいた。


舘石 昭さんは、2012年に9月に82歳で他界された。

会社はお2人のご子息に引き継がれたが、
お2人ともダイビングの経験がほとんどないままに、
父親の会社を引き継ぐことになった。
会社でも商品でも、芸術作品でも創作物でも、
コンセプトがしっかりしていないと長続きしにくい。
雑誌はもちろんのことである。

そういえば、
私が提案した雑誌(『海と島の旅』)も、
舘石さんがご存命中に廃刊になった事実がある。
私が完全に編集からも連載からも抜けたあとのことである。
連載では、海への旅の楽しさ、楽しみ方を謳い続けた。

人は「自分らしく」なんて生きられない。
カレーライスがおいしいのは、
「おいしい」という人が多いからである。
オリンピックが楽しいのは、
隣の人と肩をすり合わせながら歓声をあげるからである。

無観客のスポーツゲームは、
少なくともファンにとっては、
具が1つも入っていないカレーを
冷たくして冷や飯にかけて食べるようなものである。

海に潜ってなにをするのか、
それがどんなに楽しいかは、
人の考えや意見によって教えられる。

それができない雑誌は、
読者にとっては魅力のないものであり、
存在価値のないものである。

スキャンダルで売っている雑誌も、
いずれは廃刊の日がくる。

人間には栄養、エネルギーの補給に加えて、
「楽しさ」または「心の栄養」の補給が必要。
経済雑誌も健康雑誌も、食生活雑誌も、
この法則からは逃れられない。
『マリンダイビング』よさようなら。
水中造形センターよ、さようなら。
そして、もう一度……
「舘石さん、いろいろとありがとうございます」

by rocky-road | 2021-08-17 21:18 | マリンダイビング