「いわゆる日本」は「なんか、こう……」。

わが《ロッコム文章・編集塾》では
毎月クラスと遠距離クラスで、
『引き締まった日本語表現を心がける。』をテーマに
講じている。
それはつまり、
現在の日本人の言語表現が引き締まっていないからである。

「なんか日本的というか……」
「なんていうんだろう……」
「見事というか、立派というか……」
「怖いっていうんじゃないけれど、コロナを恐れて……」
「もうそろそろ、旅行に出たいな、なんて思っています」

語尾を濁すのは日本人の特性の1つだが、
その傾向がますます強くなっている。
発言に自信がない、
一言でバチッとキメられず、
類似語を同時に掲げて分散させる、
つまり、いつも逃げ道をつくっておく。
発言の語尾が内語的(心の中の発話)であるとともに
幼児的でもある。

それが好ましいことかどうかは、
実は、もう少し様子を見ないとわからない。
言語社会学者の鈴木孝夫氏の
『日本人はなぜ英語ができないのか』(岩波新書)
によると、アメリカ人の言語行動は攻撃的だという。

「自分が物事すべての基準であって、
相手のもつ異質性をば普遍からの逸脱、
不公正なルール違反と見て、ただちに攻撃に出ます」と。

このことは、わが恩師、芳賀 綏先生(はが やすし)も
『日本人らしさの発見』(大修館書店)の中で触れている。

「凸型文化はそこが違う。<コミュニケーション>とは
『相手を変化させること』だ、というくらい、
積極的にとらえています」
「凸型文化」(とつがた)とは、牧畜をして暮らしてきた人たち、
欧米人や一部のアジア人を指す。
動物を支配し、個々人が大草原を移動する。

これに対して凹(おう)文化とは、
稲作によって生存し続けてきて、
それゆえに、協同が中心となる文化圏の人のこと。
水を中心にしているので助け合い精神が大きい。
自己主張を抑えて、集団としての調和を保つ。

「東洋」と「西洋」という地形的分類は、
人間のタイプを分けるのには適さない場合があるので、
「凸文化圏」と「凹文化圏」とに分けて
その特性を把握しよう、という視点である。

おもしろいことに、
『日本人らしさの発見』には、
いま話題のミャンマー人に対するこんな記述がある。

「日本と同じ凹型文化圏と見るべきミャンマーは、
『住んでいる人たちの顔形もわれわれに似ていれば、
物腰・動作・ものの感じ方もよく似ている』
(山口洋一・寺井融著)『アウン・サン・スーチーは
ミャンマーを救えるか』)。」

上記の本を引用して、芳賀先生はさらにこう述べる。
(ミャンマー人は)「国会で不満や不明の点があっても
飲み込んだように振る舞うのがマナーだ」
(反論などしないで、丸く収める)

いま、そのミャンマーの人たちは、
攻める側も守る側も、
日本人とは大きく変わってきている。
戦闘モードに入ったとき、
人の表情は硬くなり、コトバも引き締まってくる。

とすれば、
現在の日本人が、
「なんか、のどかなんだよね」
「なんていうのか、緩んでるんじゃないかなって、
思うっていうんじゃないけれど、なんか考えちゃんだよね」
なんていう話し方に、全国民がシフトしているとすれば、
平和の反映と見るべきで、
よい傾向なのではないか。

と考えたいところだが、
世界にはコワイ表情をして、
キツイコトバを発する人がふえてきている、
という現実がある。
これに直面しつつも、
「なんか、それって、しようがないんじゃないのかな」なんて
長湯でのぼせてしまったような話し方をしていてよいのか。

「ええ格好しい」の民主党、バイデン大統領も
最近、厳しい表情、厳しい表現をするようになった。
それは、ニコリともしない習近平のあの表情の反映だろう。
金正恩も、スターリンも、ヒットラーも、
独裁者というものは、
デスマスクのように無表情を保つことになっている。
ロッコム文章・編集塾は、
日本国の代表ではないし、政治結社でもないから、
世界のことはどうでもいいと思いたいが、
言語心理学的考察として、
こんなことを指摘しておきたい。

少なくとも日本人は、緊張感が高まると
「大和コトバ」では間に合わなくなって、
「逼迫」「緊急事態宣言」「蔓延防止」「遺憾」
「ロックダウン」「オーバーシュート」「ステイホーム」
「ソーシャルディスタンス」などと
漢語やカタカナ語に頼ることになる。
戦時中、こんな文語調のラジオ放送が、
幼少期のわが記憶にかすかに残っている。
「東部軍管区情報、東部軍管区情報、
敵B29、16機編隊が駿河湾上空を帝都に向けて侵入せり」
これも、戦闘モードに入った人間の表現のカタチである。

一方、現在、テレビの一部のニュースキャスターが、
「いわゆる都知事が……」「いわゆる飲食店が……」
「要するにこの場合」「要するに黄砂が……」のように
文語的フレーズを病的に頻発するのは、
中身のない、軽薄なトークを見破られないための
いわば防具として硬直表現をしているのである。
これが無教養のカタチとは、本人も放送局スタッフも
まったく気がついていないところが、
ぬるま湯日本の珍現象である。
この大宇宙は、プラスとマイナス、
陰と陽、上と下など、
対比的に存在していることが改めてわかる。

そして、日本人および大和コトバは、
やはり温暖、ゆるやか、穏やか、あいまいな風土に
適応してきているのである。
この「凹文化環境」を維持したいが、
一部ながらも強力な「無表情」「こわい顔」勢力が
上げ潮のように世界の国々の沿岸に打ち寄せてきている。

これに足をすくわれないようにするには、
その前に、日本の大人としては
少なくとも「なんかこう……」「……じゃないかな」
「……っていうじゃないけれど」などのフレーズを
頻発しないように自制しよう。
それも生存のための
言語環境の改善点の1つであろう。

by rocky-road | 2021-03-31 15:46 | 大橋禄郎 文章教室