「エッセイ」は続く、どこまでも……。

わが「ロッコム文章・編集塾」では、
エッセイのトレーニングによって塾生を悩ませている。
有名人や著述家でもなければ、
エッセイなど書く機会は「一生ない」
と言いたいところだが、
現実は、そうではない。

しばらくはエッセイ攻めをすることにした。
フランスを発祥とする「エッセイ」の定義はむずかしいが、
ここでは日本国向きに、以下のようにしておこう。

「自由な話題(身近なものから深淵なものまで)
を選び、軽妙、ときにユーモラスなタッチで書き進める、
比較的短い形式の文章。
しかし内容は、深い知識や思考に裏打ちされていて、
たとえば、人間や人生、社会や宇宙内に起こる諸現象などに
触れることが求められる」

かつては「哲学がある」などと言ったが、
いまは哲学そのものが正体不明の存在なので、
「深い知識や思考がある」と言ったほうがわかりやすい。

むずかしいのは、
「エッセイ」「随筆」と「雑文」との識別。
「エッセイ」と「随筆」とは
厳密に言えば別物だが、
日本ではほぼ同じものと考えてよい。
これに対して「雑文」は、
これと言ったテーマが感じられない、
どうでもいいような文章。

作家の林 望氏に言わせると、
「エッセイスト」と名乗る人の文章の多くは
「雑文」ということになる。

私として、雑文に加えたいのは
新聞の社説や匿名記者が書くコラムなど。
言いたいことがわかりにくかったり、
奥歯にモノが挟まったような言い方だったり、
決定的なのは筆者名がないこと。
「私」を隠した匿名の文章は、
雑文の典型である。

おおむね雑文であろう。
文章が軽妙であったとしても、
人を不健康に導いたり、寿命を縮めたりする
非道徳的な発想だから、
雑文であり、「公害的文章」でもある。

さて、
なぜ塾生にエッセイを書かせるのか。
それは思考力のある大人になってもらいたいからである。
戦争体験や災害体験を語る大半の大人(超高齢者も多い)が
「戦争は絶対にいけない。若い人にそう言い続けたい」
「2度とこんな悲劇をくり返してはいけない」
と、何十年間も言い続けている、
そういう「雑文的コメント」を繰り返す、
考えない大人には
なってもらいたくないからである。

「右を見て、左を見て! クルマは急に止まれない」
というリズムのある標語は、
覚えやすいが実効性は低い。
耳に快いと、むしろコトバの意味は忘れられる。
そこで都内の警察が
道をまたぐ横断幕に
「コラッ スピード出しちゃいかん!!」とやった。
オリジナリティが必要である。

自分の経験は、
自分の解釈、自分のコトバで語ってもらいたい。
10人10様の内容を、10人10様のコトバ語ってほしい。
空襲を防ぐ方法、災害から助かる方法にも
100人100様があるはず。

ロッコム文章・編集塾
塾生にエッセイを書かせるのも、
自分の思考を育ててほしいからである。

「人はなぜ生きるのか」
「人はなぜ笑うのか」
そんなことを600字のエッセイによって
考えることは、
災害対策であり、戦争対策であり、
幸福への道のりである。






by rocky-road | 2020-03-13 00:06 | 大橋禄郎 文章教室