その服、似合っているか。

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さる9月16日(月/祝)に行なわれた

「栄養士・健康支援者のための

 ≪身だしなみセミナー≫in 銀座」に

今回も参加させていただいた。

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女性服の一流店内(ジュン・アシダ)で

女性服について語るキャリアも心臓もないので、

衣服の記号性について

短いコメントをさせていただいた。

要点を文字にしておくほうがよいと思うので、

少し補足して以下のようにまとめてみた。

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ポイントは2つ。

1つは「衣服という環境の意味」

もう1つは「衣服が似合うとはどういうことか」

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衣服の記号性については、

昔から、多くの論者によって指摘されている。
記号性とは、

意味を内包するメディア(媒体)でもある、ということ。

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衣服の本来的な目的は、

素肌を寒暖や日射、風雨、

他者の視線から守るためにある、

と考えたいところだが、

発達順序からすると、

それが一番の理由ではなさそうである。

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その証拠に、

現在でも裸で生活する人が

地球上に少なからず存在する。

彼らは、この世に衣服というものがあることを

とうの昔から知っているが、

それでも裸の生活を続けている。

都市暮らしのわれわれが考えるほど、

外界から自分のからだを守る必然性はないらしい。

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確かに寒冷地に住む人には、

衣服は欠かせないものだが、

ヒトは、当初はそういう地域には住まなかった。

衣服で自然環境から身体を守る必要がないところに住んで、

裸でいられる生活を選んだ。
少々の寒さなら、

多くの哺乳動物や鳥類のように

体毛によって防ぐことができた。

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裸身で暮らすことができた地域のヒトにとって、

もっと大事なことは、

自分の特徴をアピールすることだっただろう。

衣服をつけない人たちでも、

古くから、

からだにペインティングを施したり

骨だの貝殻だの金属だのをつけて装飾したりするして、

「自分らしさ」をアピールしてきた。

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ときに「男らしさ」「女らしさ」を表わし、

ときに、自分の属するグループを表わし、

ときに、地位や年代を表わし、

ときに喜びや悲しみを表わし、

ときに儀式の装束として、

ますます社会性のある記号性を強めていった。

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こういう点は、

動植物が生まれながらにして

ユニークな色やデザインを受け継ぎ、

環境に適応していった進化史と

なんら変わるところがない。

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こういう経過を表面から見ると、

人との関係において、つまり社会的記号として

装飾を使ってきたかのように思えるが、

今日の心理学や精神医学の知識によって見直せば、

無意識的にせよ、

彼らは、自分の装飾を誇り、

そのことでアイデンティティを感じていたはずである。

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衣服の記号論では、

とかく他者とのコミュニケーションのほうを

重視しがちだが、

少なくとも現代人においては、

衣服が自身の意識やモチベーションを高め、

健康度さえも左右する点に

もっと注意をはらっていいだろう。

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要するに「衣環境」は、

個々人に、もっとも身近な環境であり、

その環境は自分のライフスタイルの一部となり、

自分の方向性に関係してくる。

人生観や生活信条などと同じように、

衣環境も、

あしたからの人生のカタチをつくってゆく。

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さて、その衣服が自分に似合うか似合わないかを

どう判断すればよいのか。

自分を含め、ある服が似合うか似合わないかは、

その人の、きのうまでのライフスタイルを

知っている人が、

その延長線上で評価するのが普通である。

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しかし、それらは絶対的なものではなく、

「慣れ」の問題でもある。

今では外国人が和服を着て歩く姿は

珍しくはなくなった。

専門家の目で見ると問題はあろうが、

全体としては「似合って」きている。

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わが理論では、

どんな服でも、ジャストサイズであれば、

1週間か1か月か、着続ければ似合ってくる。

「似合う」とは、

言い換えれば自他ともに「慣れてくる」こと。

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「慣れ」または「似合う」は、

一面においてマンネリの始まりでもある。

とすれば、自分の中では

日々、環境改善に挑戦したいところである。

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肌着の色を変える、素材を変える、

コーディネートを変える……、

日々の多忙な生活の中で、

そういうことをきちんと考える、

それは忙殺されない生活、

人生の主導権を少しでも自分がもつ生活、

それは、個々人が

たったいまからできる環境対策である。

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きょう着る衣服は

きょう1日の設計図でもある。

その設計図は、もちろんあしたに通じる。

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旧来の「身だしなみ」や「おしゃれ」というコトバは、

仕事、勉強、お堅い社会活動と

対立する概念ととられがちだが、

それを「衣環境論」と位置づければ、

むしろ、それらと一体化するものであろう。

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放射能汚染物の除去作業に

ジーパンで参加する無防備者はいないように、

どんな活動にも、

最適な衣環境がある。

そこまで思考範囲を広げることは、

思考力を分散させるどころか、

モノを広い視野で見る洞察力を強化する。

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「あした、どんな靴下で勤めに出るかなんて、

考えているヒマなんてあるわけないでしょ。

そんなことを考えていたら仕事に身が入らないよ」

なんていう者の頭脳は、

すでに錆び始めているから、

「身を入れている」はずの仕事とて、

たいしたものではない。

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人間の頭脳をナメてはあかんゼヨ!!

好奇心旺盛な脳は、

もっともっと多様な、

もっともっと刺激的な酷使(?)を求めている。

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さあ、考えてみよう。

あしたは、どんな靴下で……

いやいや、その前に、

肌着から行こう。

いやその前に、

あしたのメインの仕事を考えよう、

だれと会うのか、

その人と、どんな話をするのか……、

でも靴下は……。


by rocky-road | 2019-09-24 18:34 | 身だしなみセミナー  

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