コトバは乱れるものなのか。

話し合ったり
(「栄養士・健康支援者は『日本語力』を
どう強化すればよいか」
2019年8月25日 横浜・関内ホール)、
ロッコム文章・編集塾の毎月クラスでも、
「言語センスをどう磨けばよいか。」を
授業した余韻もあって、
いつもよりは日本語の現状について
敏感にならざるを得ない。

たとえば「ネグレクト」というカタカナ語が
棘のように、わが言語神経に刺さる。
「無視すること。放置すること。怠ること」
あるいは「育児放棄」「児童虐待」
などの意味があるらしいが、
これをカタカナ語によって話題にする理由がわからない。

このセンスもわからない。
どうやらこの分野は、
日本語をわかりにくくすることで、
深刻な問題から目を逸らそうという
深層心理が働いているように思える。

そして、ここで働く人は、
ほかの職場では使いモノにならない、
ややトロいタイプなのか、
いや、そうではなく、
この職場に来ることで神経が鈍くなるのか、
精神医学的な解析をしてみたい。

所長クラスの人間が、毎度毎度、
「やることをやっていたけれどこうなった」と
無表情に言うのを見ていると、
フツーの神経ではやってはいけないほど
日々、難題に直面するのかもしれない。

踏切内でトラックに電車が激突した事故、
電車に乗っていた人へのインタビューが
テレビで放送されていたが、
「ドカンという音がして、みんなが倒れたというか、
もうパニックですよ」
「なんていうのか、あわてて後ろから線路に降りました」
九死に一生を得た人の感想が「倒れたと言うか」
「なんていうのか」だと?
倒れたんでしょ?
「あわてた」というコトバが
さっと出てこないの?

これは、
インタビューを受けた人が若いから、
言語能力がまだ未完成だから、
と思いたいが、
ラジオでは、
経済関係の専門家らしきゲストが、
「なんて言うのか」を1分間に5回も続けた。
昔、レコード針がレコードの溝にハマったとき、
こんな状態になった。

そんな話を綴っていたら、
けさ(9月10日)の『読売新聞』に
「言葉が運ぶ あなたの物語」と題する、
「日本語検定 受検者100万人記念対談」の記事。
梶田叡一/日本語検定委員会理事長と、
シンガーソングライターの松任谷由実との対談なのだが、
なんとも抽象的でポイントのない内容。

梶田「長い間に、日本語は変わってきています。
乱れと言わざるを得ないのは、
例えば、若い世代の間のみで通じて、
ほかの世代には全然通じない言葉遣いでしょうね。
誤解を生むことになれば、
変化と言うよりは乱れといった方がいいのかな。」

松任谷「むしろ積極的に仲間内だけで通じる言葉を
作っているところがありますね。」

梶田「例えば『やばい』。昔は『危ない』という意味でした。
今は感動しても『やばい』、
非常に注意しなければならない状況も『やばい』で
多義的になっています。
仲間内で通じいると思っていても、
実は誤解を生み出すもとになるのであれば、
考えものでしょう。」

松任谷「どういう不快さかを言語化できないと、
大人になって社会で壁にぶち当たる。子どもの頃は
『ヤバ』や『キモ』、『ウザ』だけで表現してきたことも、
そこには複雑な要素がある。自分の中で感情などを
細かく丁寧に言語化することは、豊かな時間を
大人になって過ごすための大事な修練だと思います。」

日本語検定の最高責任者が、
この程度の常識的な見解しか示せないのかと
案じられる。
日本語に限らず、コトバは年月を経て変わるものである。
人間の思考だって、骨格だって、表情だって、
変わるのが当たり前。それが適応である。

「コトバの乱れ」とはなにか。
若者のコトバと、そうではない者のコトバは昔から違う。
ユーミンが言うように、
「むしろ積極的に仲間内だけで通じる言葉を
作っている」のである。
人がアイデンティティを獲得する過程では、
仲間意識の確認が必要。
そのようにして、
「違いのわかる人間」に育ってゆくのである。

「ヤバい」の意味が変わるのを「ことばの乱れ」
などと言っていたら、
われわれはいまも大和時代、奈良時代のコトバを
使い続けねばならない。
「言う」を「言ふ」と書き、
「チョウチョウ」を「てふてふ」と書かねばならない。
いや、それ以前に、
文章は万葉仮名で綴らなければならない。

ヒトはコトバを「乱す」ことによって
コトバの使い勝手をよくしてきた。
「乱す」動機の多くは「最適化」(カスタマイズ)である。
虹を「きれい」「美しい」としか形容できなかった人が、
あるとき「ヤバい」と言ったとき、
本人にとって、虹の美しさは、
より深く認識されたことになる。

コトバの「乱れ」とは、
多様性への試行であり挑戦である。
新しい概念を認識し、新しい感性や知性を磨いてきた。
日本語検定に深くかかわる者に求められるのは、
「コトバの乱れ」とは何かを、まず定義することである。

笑えるのは、こんな発言をしているところ。
梶田「そういう意味で、
言葉にセンシティブでなければいけない」
そこでカタカナ語を使う必要ある?
「敏感であってほしい」「美意識をもってほしい」
などと言うほうが伝わりやすくない?

対談の中で「仲間内で通じると思っていても、
実は誤解を生み出すもとになる」と
発言しているではないですか。
「センシティブ」って、一般的日本語?
このコトバ、読者に伝わるのかしら?
コトバ、乱していない?
つけ加えれば、
この対談は、企画の失敗。
「受検者100万人記念」なのであれば、
記者か、コトバの専門家が
日本語検定委員会理事長にインタビューすればよかった。

「……とすると、『ヤバい』は本来の意味で使うべき、
ということですか」
「今後、『ヤバい』はどう変わっていくと思いますか」
「日本語のセンスをよくするには、
どのような勉強をすればよいのでしようか」
などと問いかける。

あるいは、
ユーミンに、だれかがインタビューをする。
コトバのプロのユーミンと、
名誉職にある心理学者とでは
互いにエラ過ぎてミスマッチ。
「相殺」(そうさい)という日本語、
こういうときに使うのだろうか。

さてさて、
前述の「……というか」や「なんて言うか」
という流行りコトバの話に戻ろう。
この表現形式、つまりは一発で決めない、
余韻を残しておいて話を引っ張る。
電車が線路上で止まっているトラックに激突したら、
「倒れたというか」なんていう程度の衝撃ではなく、
「吹っ飛びました」でしかなかろう。

社会環境として見れば、
この国全体が弛緩状態。
平和ボケが言語表現にも現われている、
ということだろう。

しかし、平和にもストレスはあって、
家庭内暴力とか、いじめとか、あおり運転とか、
身近な弱い者への攻撃とかと、
成果のない、
内部へと向かうモチベーションばかりが高まる。

精神医学的には、
リスやネズミのように
つねに退路を考えていて、おどおどしている。
1つのことを言うのにコトバを2パターン用意しておいて、
相手によるコトバの適切度チェックから逃れようとする。

タコやイカのスミのことを
昔は煙幕と言ったが、
海で観察していると、
スミは煙のように広がらず、
むしろ黒いカタマリになって漂う。
そこにだれかがいるように見える。

それに相手が気を取られているうちに、
自分は姿をくらます。
「……というか」も同様。
2つコトバを並べて、相手の注意力を分散させる。
もう1つの見方は、
モノには多様性があるから、
1つのコトバでは表現しきれないところがある。
科学や深い思考の結果を表わすとき、
「その点は演繹的思考とも言えるし、
帰納法的論法とも言える」
なんという表現をする場合がある。

「って言うか」のルーツには、このカタチがあるかもしれない。
知ったかぶり、偉そうぶりのことを
「衒学的」(げんがくてき=ひけらかし野郎)
と言うが、「いわゆる」と同様、
「国民総衒学化」現象とでも言ったらよいのか。
これをも「コトバの乱れ」とは言わない。
あえていうなら「コトバの揺れ」かな?
揺れは、しばらくすると収まるものである。

短パンにサンダルをつっかけて
飛行機に乗り込んでくる人間の服装に品位がないように、
「社長、それってヤバくないすか」や
「なんて言ったらいいのか、コトバって言うか、
言語っていうか、ボキャブラリーっていうか、
そのあたりに人間の品格って、出る的に考えます」
には品位はない。

日本語検定には、
もちろん品位度チェックの審査は
入っているのでしようね。
by rocky-road | 2019-09-11 01:01