孤独は、そこまでわがままである。

読売新聞の5月1日の「人生案内」に、
意味の深い相談記事が載った。
投書者は90歳代の女性。

「十数年前より念願の一人暮らしになり、
極上の孤独を楽しんでおります。
特に一人の食事が好きで、
歯が悪いせいもあり、
長い時間をかけて味わい尽くしております」
「足腰の痛みや苦しみを差し引いても、
すべて自分の思うがままに物事を進んでいろるという
素晴らしさは至福の極みです」

このように、
自分のライフスタイルに対する誇りと自信を
全体の約75%の文章を使って綴っている。
万々歳の生き様かと思いきわ、
終わりの8行で、こう結ぶ。
「ただ、人間としてこの世に生を受けた限りは、
一般に推奨されているように、
医療の恩恵にあずかりながら、
一日でも長く生きなければならないものなのでしょうか」
(和歌山・Y子)
これに対する回答者の作家は、
内村鑑三(宗教家、評論家)による
『後世への最大遺物』と題する講演から
こんな発言を引用している。

手がけた事業も名声もない思想もないという
普通の人でも後世に遺せるものがある。
それは人に恥じない、まじめな生涯を送ることである。
そしてこの世は楽しい世であったと語ること、
これはだれでもできる」
そして、回答者作家自身は
こんなコトバで絞めている。
「あなたの生涯が世の人の手本となられるよう、
そのような気持ちでこれから日々過ごされることを
願っています」

むしろ日本で、もっとも孤独ではいられない
売れっ子作家の一部の人が
「孤独のすすめ」だの「極上の孤独」だの
「夫婦という他人」だの「元気に下山」だのと、
無責任な言説によって
稼ぎまくっている現象を危ぶんでいた。

今回の人生案内に投稿するような
「極上の孤独」にそそのかされている人が
やはり、いたのである。
どの本も、何十万部も売れているそうだから、
投書者のような心境になる人は少なくないだろう。

「いい歳」になっても、
人間や生きることの意味が
わからない人はいるものである。
そもそも、「孤独もの」の作家や、
人生案内の回答者である作家たちが
ここまで人間がわかっていないものかと、
あきれるばかりである。

内村鑑三は、
金や事業、名声、思想もない普通の人でも
「人に恥じない、まじめな生涯を送ること」
「この世は楽しい世であったと語ること」と
言ったそうだが、
「人に恥じない」や「まじめな生涯」の解釈は
そう簡単なものではない。

「まじめな生涯」とは、
単に反社会的な行動をしない
というような浅い意味ではあるまい。
内村が言う
「この世は楽しい世であったと語ること」も、
「まじめな生涯」の要件であろう。
アルフォンス・デーケン氏(上智大学名誉教授)は、
人生の後半は「お返しの時期」だと言った。
自分が祖先や先輩から知識や技術を学んだように、
晩年は、それを後輩に伝えることが仕事だ、と。
いわば「借り」を返す時期である。
「極上の孤独」を提唱したり、
それにそそのかされている人は、
「持ち逃げ人生」「借りを踏み倒す人生」を
臆面もなく「極上」だなどと抜かす。
その挙句は、数百万の読者を持つ大新聞に投書して
しかるべきアドバイスを求める。
「甘ったれるな!!」と、
難聴の耳に口を当てて叫んでやりたい。
「孤独とは、
そんなふうに人に頼るのではなく、
自分で考えて、
自分の道を進むのではなかったのかね。
90年間、お主は、なにを考えてきたのか、
できもしないくせに、突っ張るんじゃねぇ」

「一般に推奨されているように、
医療の恩恵にあずかりながら、
一日でも長く生きなければ
ならないものなのでしょうか」だと?
だれがそんなことを言った?
「極上の孤独」を楽しみ、
「至福の極み」とまで言いきる人間が、
いまさら「一般に推奨されている」などと
世間を持ち出して、
自分の生き方を人に決めさせるなよ。

生物学で言う「共生」とは
一緒に生活すること」だが、
共生にも
「片利共生」「双利共生」「寄生」がある。
アニメ映画で知られた「ニモ」、
すなわちクマノミという魚は、
イソギンチャクと共生し、
クマノミは外敵からの隠れ家とし、
イソギンチャクは、
自分に付着する汚れなどを
除いてもらっているから
ともに利益があるという意味で
「双利」(そうり)の共生という。

双方にメリットがあるという点では「双利」だが、
水虫菌と人間との関係は、
水虫にとっては「片利」的である。
ただし、同種同志、
人間同士の共存関係は「共生」と言わず、
「仲間意識」とか「協調」とか「協働」とか
「ネットワーク」とかと言う。
かつて、最終学校卒業後も親の家に居座り、
いつまでも育った家から出て行かない若者のことを
「パラサイト・シングル」などと言った
(パラサイト=寄生虫)。

パラサイトとは真逆の生き方を
しているように見えるが、
社会の側から見れば、
なんの還元も貢献もないまま、
孤独ぶっているわけだから
とても「共生」とは言えず、
とすると、けっこうパラサイト的ではないか。
回答者の作家は、
回答のまとめとして
「あなたの生涯が世の人の手本となられるよう、
そのような気持ちでこれから日々過ごされることを
願っています」
と書いているが、
「極上の孤独」を決め込んでいる人間のどこが、
「世の人の手本になられるよう」なのか。

そんな人間を手本にしたら、
人類は遠からず絶滅するだろう。
前にもこの欄で書いたが、
家族ではなく、
アカの他人に貢献する「利他行動」を
日本のことわざで説明すれば
「情けは人のためならず」である。

人間に至って身についたものではなく、
体重わずか40~50gのチスイコウモリにも
見られる行動だという。
『進化と人間行動』(長谷川寿一、長谷川眞理子
東京大学出版会発行 2000年4月)

夜中に活動して、
野生動物(近年は飼育動物)に近寄っては、
じかに皮膚を噛んで穴をあけ、
舌で血液をなめたり吸ったりする。
相手に気づかれぬよう、
麻酔液を出して注入するという。

老いた個体や若い個体は、
うまく血が吸えず、飢餓状態になっている。
すると、血を吸うことができた個体は、
飢えた仲間の口に血を吐き戻して
「お裾分け」をする。
チスイコウモリの世界では
「極上の孤独」などは許されず、
家族以外の相手でも、
生命の危機を救い合って進化してきた。
人間もチンパンジーもゾウも、
その他の哺乳動物の多くは、
そういう「利他行動」を習性として持っている。

新聞社としては、
人生案内の回答者の人選を
根本から見直す必要があるだろう。
この欄では、精神科医や哲学者、
作家などが回答をしているが、
適材適所とは言えない。
専門性の問題というよりも、
人間または人生についての洞察ができていない。

バカな質問者をどやしつけることはまずない。
それは親切であるかのように見えて、
結果的には冷たい。
いつの日か、
食コーチング型栄養士が回答者になると、
少しは状況がよくなるかもしれない。

それには、
文章による回答力をつける必要はある。
作家でも、
「あなたの生涯が世の人の手本となられるよう」
などという窮屈な表現をするのが現状だから。

NHKの「マイあさラジオ」という番組の、
「くらしテキスト」というコーナーで、
三好春樹という理学療法士が
高齢者施設に入る人の注意点として
次の3点をあげていた。
「私物を持ち込むこと」
「人間関係を維持すること」
「生活習慣を変えないこと」

かねがね私は
「物質は情報を持つ記号でもある」
と言っているが、
現場を知っている人の見解は、
さすがにリアリティがある。

過去、現在、未来が
糸引き納豆のようにつながっているものである。
「断捨離」だの「極上の孤独」だのという人生は、
粘りのない納豆のようなもので、
食品としての存在価値は半減以下となる。
「健康」や「健康寿命の延伸」が
人生の目的ではないとすれば、
「よい人間関係」の維持・発展は、
人生の目的の1つになるであろう。
糸引き納豆が嫌いでも、
人のネットワークを大事にすることは
一人ぽっちを「至福のとき」などと言っているよりも
「一般に推奨される」はずである。

by rocky-road | 2019-05-07 21:24 | 大橋禄郎