「健康」が見えてきた、かな?

1.「食コーチング」提唱から16年。
いま想うこと
(講師 影山なお子さん)
2019年3月9日(土) 終日
2.記号としてのモノ、衣服、スタイル
--その意味と活用--
(講師 大橋禄郎)
同年3月10日(日) 終日
(ともに広島県三原市 市民福祉会館)

ここでは、2日目のセミナーについて
少し補足しておこう。

という講義をした。
地球に人間がいなくても、
動・植物はもちろん、鉱物も、
昔っから記号性を持って存在している。

それは大宇宙のデザインにほかならない。
植物は、色や形、香りや発光性などを
記号として使って動物を惹きつけ、
地球上に分布している。
チョー後発の人類は、
こうした豊かなデザインに囲まれれることによって、
知性や感性を発達させてきた。

「記号性を持つ」ということと同義である。
空気もアミノ酸も、
裸眼では見えないが、
それでも人間は「ある」ことに気づいて、
それを記号化し、共有物とした。

人類の一部は、
いまもって裸体をさらして生活をしているが、
それでも、鼻や首、手首や足首にリングを巻いて
なにかをアピールしている。

かならずしも身体を外界から守ることではなく、
時と場合によっては、
記号による情報発信こそがおもな目的となる、
ということか。

なぜ記号について学ぶ必要があるのか。
それは、「健康」という、目には見えない、
いやもともと実体のないものを
扱うことで商売をする仕事人だからである。

元気も強気も弱気も、
指さすことができない現象である。
それらが見えるのは、
それぞれを記号化して、
つまりコトバに置き換えて認識するからである。

健康支援とは、
見えないものをコトバにしてゆく作業である。
生きがい、希望、健康、協調、寛容、友好……。
それらのコトバを多く持っている者、
適切に使うことができる者には、
好ましい健康支援を行なう可能性がある。

その一方で、
あえて言語記号にしないままに、
健康情報を発信して効果をあげる時と場合もある。
それが表情であり、微笑であり、
姿勢であり、歩き方であり、仕草であり、衣服である。

今回、強調したのは、
自分が発信する記号情報の発信先は、
他者とは限らず、自分自身でもある、ということ。
「自分とのコミュニケーション」は、
記号をたくさん作り出した人間ともなると、
その頻度はハンパない。

「あしたは5時に起きよう」
「あの渋い顔、この会議を低調にしているようだ」
「母に、あそこまで言うべきではなかったかも」
などなどの自問自答は、
自分とのコミュニケーションそのもの。
脳内にプログラムを生み出すこと(アウトプット)にほかならない。

無表情、地味過ぎる衣服で
人に健康の大切さを説く者は
自分とのコミュニケーションが不完全である。
「地味過ぎる」とは、
たとえば、灰色、茶、カーキ色、
あるいは迷彩色系などのアウターを着ること。

聞けば、「カーキ」とは、
ヒンディー語で「土ぼこり」のことだというではないか。
別名「枯草色」、
戦時経験者に言わせると「国防色」、
当時の定義では「帯青茶褐色」だとか。

ついでに言えば、日本語には
灰色、茶色、カーキ色などの固有の語はない。
赤や白、黒のように、独自の名称は持たず、
「灰」や「茶」(お茶)、「土ぼこり」などの名を借りた、
仮の名である。
これって、幸いなことかも。

いずれにしろ、
21世紀の先進国で、
こんな色を身につけることは、
ほこりっぽい、冴えないライフスタイルを
自分に刷り込むことにほかならない。

≪コミュニケーション研究会 ひろしま≫の
次回の講義は今年7月21日である。

このとき、
彼女たちの衣服記号がグレードアップしていなかったら、
今回の講義は失敗ということになるだろう。


by rocky-road | 2019-03-22 23:19 | 大橋禄郎 文章教室