あなたの5年後は?
「私の5年後」を構想する宿題や、
「私にとっての平成時代」をまとめる宿題を出すなど、
前を見たり、うしろを振り返ったりする機会が続く。
いくつかのクラスから「わぁッ~!」と
声があがった。
過去と未来を巧妙に組み合わせた宿題に
感動してくれたのではなくて、
難儀そうな出題に嘆息しただけのこと。
そこには手際のよい要約力と
その人らしい視点が求められる。
「わぁッ~!」には、
実のところ「いっちょ、やたるわ!!」という
気合いや雄たけびも籠っているのかもしれない。
これがなかなか泣かせる。
未提出クラスもあるので、
くわしくは書けないが、
塾生の多くにとっては
社会へのデビュー時代であったり、
人生の大半を占める
波乱万丈の時代でもあったりする。
ちなみに、私にとっての平成の30年は
勤めを退職したあとの「あっ」という期間である。
出題される側にとっては、
「これまで生きてきた全人生を語れ」
といわれてもまとめにくいが、
「平成時代」と期間を限定されると
いくらいかは、まとめやすいはずである。
近年は「70年代」「80年代」などという
西暦に従う言い方が主流になりつつあるが、
和歴(元号)のほうがイメージをまとめやすい……と思うのは
昭和初期以前生まれの人の感覚なのか、な?
西暦のように
10年刻みのほうがコンパクトだし、
計算もしやすい。
欧米人は2000年もの間、
それで不自由なくやってきているのだから、
慣れの違いだけかもしれない。
しかし、である。
『言語の脳科学』(酒井邦嘉著 中公新書)
という本によると、「失読失書」という障害があるそうで、
それは、生まれつきや、一定の年齢に達してから、
覚えている字が読めなくなったり、
書けなくなったりする障害だという。
欧米では人口の5~10%もの患者がいて、
学校教育の問題になるという。
その要因の1つとして、
表音文字が疑われているらしい。
そういえば、『日本人の品格』で知られる藤原正彦さんは、
アメリカの若者には、
「night」を「nite」と書く者がいる、
と雑誌で書いていた。
日本人でも「灰皿」は読めても
「はいざら」は読めなくなる障害があるという。
漢字は、覚えにくい反面、
一度覚えると忘れにくいという。
メリハリのない1990年、2000年
といった数字に愛着を抱くためには、
60年=小学校入学、
70年=転居、
80年=結婚……のように、
なんらかのイベントや記号と
結びつけて記憶することになるだろう。
少し寄り道をしたが、
わがロッコム文章・編集塾では、
開塾(平成15年 2003年)以来15年間に
月1本計算で、
少なくとも180本の宿題を課したことになる。
長期に通っている人は、
100本以上の宿題を書いたことになる。
「大人は勉強しなすぎる」
という思いから始まった当塾としては、
塾生各位の潜在ニーズに少なからず
応えてきたと思っている。
ときどき、
「講義(テキスト)のテーマがよく尽きない」と
指摘されるが、
みなさんの宿題の文章の中に
課題がぎっしり詰まっている。
たとえば、
「私の5年後」を構想する宿題では、
将来、本を出したい、という人が何人かいる。
これを夢に終わらせないためには、
そのための考え方やアクションプランを
テキストにして講義することになる。
社会人は、大学生と違って、
すでに「将来」へ足を1歩も2歩も踏み入れているので、
すぐにでも着手したいことが多い。
お笑い芸人(にしておくのは惜しい人)「パックン」こと
パトリック・ハーラン氏が
ラジオでいいことを言っていた。(要旨)
「夢を持つということは、野球の試合みたいのもの。
夢は、9イニングで結果が出るにしても、
1イニングから攻撃が始まる。
点を取ったり取られたりしつつも、
それは9イニングまでの、
試合に決着がつくまでのプロセス」だと。
多くの人にとっては、
試合はすでに始まっている。
とにかく打席には立たねばならない。
「野球はゲタを履くまでわからない」と、
昔の人はよく言った。
つまりは、9回裏の最後の打者が
ボールカウント「ツースリー」(いまは「スリー ツー」の順)
になっても、まだ勝敗は決まらないものだ、と。
ゲームセットになるまでは、
講義や宿題においてはビシビシ投げ込んで、
塾生を追い込んでいこうと、しきりに思う。
5年後に、だれが、どんな本を
出版していることだろう。
そのためには、
すでにでもプロットを立て始めなければならない。
by rocky-road | 2019-02-03 22:22