夢も希望も、愛もある2019年。
12月23日(日)の遠距離クラス(横浜)と、
一部の毎月クラスで、
「抽象語で表現の幅を広げる。」
というテキストを使って講義をした。
抽象語とは、「本能」「理性」「自我」「希望」「健康」などなど。
カタカナ語にも「アイデンティティ」「イニシアティブ」
「ガバナンス」「モットー」「リテラシー」などがある。
目には見えない、指で指し示すことができないコトバである。
やまとコトバには、抽象語がきわめて少ない。
心、魂、あした、あさって、美しさ、夢などは一部。
もし日本人が、漢字と出会っていなかったら、
週末や来月、来年、未来、希望、理想、平和、愛などを
認識することはできなかった。
講義の目的は、
目では見えないものを見る能力を高めること、
目に見えるものを脳で認識すること、
日々のコミュニケーションに
幅と奥行きを増すこと、
話を簡潔にすることなどである。
健康支援者に限らず、
カウンセリング的コミュニケーションには、
抽象名詞が多くなる。
いやいや、抽象名詞を使わなくても、
カウンセリングはできる。
「晩酌のビールが大びん1本では多すぎますよ」
「食後は甘いものや穀物、アルコールは避けたいですね」
ダメ出しは、抽象語を使わなくてもできる。
(「ダメ」は抽象語だけどね)
(上記のうち、どれが抽象名詞? どれが具象名詞?
ちなみに、動詞や形容詞、形容動詞、副詞などは、
もともと抽象的なコトバだから、
わざわざ「抽象動詞」とか「抽象形容詞」とかとは言わない。
「美しい人」「美しい話し方」「美しい引退」「美しい人生」)
「週末に、ご予定などおありですか」
「ご自分で健康だなってお感じになるときは、
どんなときですか」
には、「週末」や「予定」「健康」などの抽象名詞が入ってくる。
人生や未来、生きがいを話題にするときには、
「満足」「幸福」「安堵」「方針」などの
抽象名詞が多くなる。
「健康」も「不健康」も「病気」も「未病」も
抽象名詞である。
「抽象名詞は多く使うほどよい」
などというものではないが、
愛や健康や人生を話題にするときに、
「冷静」「寛容」「信条」「協調」などの抽象語を使わないと、
話が深まらない、心に響かない、という傾向がある。
「抽象語について学んでいる健康支援者は
世界中でも、そうそういないはず」と言ったが、
けっしてハッタリや大言壮語ではない。
健康支援者が、
今後、「人々にどのように貢献するか」
を考えるとき、
抽象語について着眼するのは
当然の成り行き。
いわばデコボコ道を平らに整地したようなもの。
毎年、財団法人・日本漢字能力検定協会が
「この1年を漢字1字で表現するとしたら」
という課題で全国募集を続けているが、
なんとも無責任なポピュリズム(大衆迎合)である。
2018年は「災」(2004年にも)だと言い、
2017年は「北」だと言う。
過去には「金」「輪」「安」「愛」「絆」など、
ハッピーなものもあるが、
「偽」「変」「暑」「震」「倒」「毒」など、
アンハッピーなものも多い。
ちぐはぐなのは、
これの発表を京都の清水寺の境内、
つまり宗教施設で行なうという点。
人心を鎮めるべき宗教者が、
「災」だ「北」だと大書するのを
ヤイノヤイノと報道する無神経ぶり。
当寺としては辞退させていただきます」
くらいのことは言ってほしい。
それが祈りの心というものではないのか。
宗教者には人を幸せにする責務があるのではないか。
時事評論家になる意味はまったくない。
by rocky-road | 2018-12-31 00:15 | 大橋禄郎 文章教室