100人の「句読点派」に乾杯!!
まず、以下の文章に目を通していただきたい。
第四条 此の小説は、句読点無くしては
読めるものに非ず、乃ち(すなわち)
「、」「?(白点「、」の白抜き)「。」の三通りの
句読を設けたり。一生懸命之に便る可き事。
第五条 此の小説には、--(ダッシュ)
……(リーダー)多く、***(スター)や
( )(クワツコ)を用ひて、
大いに妙味を助けたる処なり。
この前書きは、
明治22年(1889年)8月に発表された
小説家で、のちに児童文学作者ともなる、
巌谷小波(いわや さざなみ)の小説
『妹背貝』の序文の一節である。
(『言語生活』1962年2月号
「小説での補助符号」 大橋禄郎執筆から)
西洋文学の影響や、言文一致運動の考え方から
「補助符号」(ほじょふごう/くぎり符号とも)を使って、
文章を読みやすく、かつ、文章を活性化しようと、
このころの作家や詩人は
いろいろと試行錯誤を行なった。
「?」「!」≪≫など、
欧米の符号が積極的に輸入されるのもこのころである。
明治の小学生の国語の教科書には
句読点を打ってあり、
その使用をすすめたが、
意外なほど一般には受け入れられなかった。
補助符号を活用するのは
もっぱら小説家や詩人など、狭い範囲であった。
公文書や新聞記事には
句読点は省かれることが多かった。
戦争の記事には、今日の傍点(、)の位置に
「■」や「◎」「●」などを
長いセンテンスにべったり付して
戦意高揚を図るため、
文面を活気づかせたりしていたが、
新聞の全文章に句点「。」が打たれるようになるのは、
戦後も5年もたった昭和25年7月1日とされる。
(朝日新聞が最初。『日本語 使い方 考え方辞典』
岩波書店発行による)
日本語の文章は、漢字、ひらがな、カタカナ、
ルビ(かな振り)、アルファベットを使って表記し、
そのうえ、縦書き、横書きが自由となっているので、
表記や文書の規範となる「正書法」が定まりにくい。
「言葉」「ことば」「コトバ」のどれが正しい書き方かを
統一することができない。
つまりルールがゆるいのである。
それは、日本人が多様性を好む表われかもしれない。
ところが、
これほどゆるい正書法しか持っていない国民が、
まるで独裁者から厳命を受けたかのように、
「喪中につき」のあいさつハガキと年賀状、
その他の「ご案内」から、
句読点、とくに「句点」(。)を省く書式を
全員そろって〝厳守〟する様子は、
文化現象として特筆すべきことである。
「ハガキ印刷業者に自己表現力を奪われた状態」
「手紙、ハガキを書かない階層はこんなもの」
「カタチだけの儀礼主義を好む日本人」
など、いろいろの見方ができるが、
日本人全体として見れば、
要するに自分のコトバで
話したり書いたりするのが得手でない、
などの結果、と言うに尽きるだろう。
もともと、結婚、転職、離・退職、転居などのご案内は
町の印刷屋任せが一般で、
民間人は、こういう文章を書けなかった。
義務教育の国語でも、
この種の文章の書き方を教えることはなかった。
言語学的興味としては、
普通の文章からも
句読点を省く風潮が広がるかだろうか、
というところであるが、
それはまずないだろう。
そういう判断さえできず、
とりあえず、だれかの音頭取りについていく、
というのが現状である。
現代の音頭取りとは、
印刷業に代わって
パソコンソフト会社や
多量ハガキ印刷会社、
郵便会社というところであろうか。
かれらのミスリードから逃れられない、
というのが現実である。
なにが「言論の自由」だ。
明治以来、
表記法にかかわる人たちが、
一所懸命に正書法を求めて、
いろいろのルールをつくってきたが、
百数十年たったところで、
案内ハガキからは句読点を省く、
という現象が
この世にはほんとうにある、
これを言語学はどう解釈するか。
「昔の人は、句読点はうたなかった」
「点で区切ると縁が切れる」
などと、もっともらしい理由をつける見当違いの者がいるが、
「句読点省き型案内文」の底流には
案外、こうした俗説があるのかもしれない。
筆記具は筆しかなく、
文机(ふみづくえ)もなく、
手紙は手に持つか、
畳や縁側に置いて書いていた時代
(書ける人は、ごくごくわずか)の表記法と、
21世紀に入って普及したパソコンとが、
見事にマッチングした稀有な事例として、
研究対象とするとおもしろい。
「やっぱり句読点は入れようよ」と
Uターンが始まるのは早くても50年後、
ひょっとしたら、
100年先まで持続するかもしれない。
そこまで待てない人は、
自分に対しては
「♪ わたし バカよネ おバカさんよね ♪」
と笑って許すか、
「国語の汚染はゆるさんぞ」と突っ張るか。
そして、他人のご案内ハガキに対しては
「ブルータス お前もか!!」と嘆息するか、
日本人の知力、文章力向上への決意を高めるか、
選択肢はあまりないが、
幸いなことに、
この現象にストレスを感じる人は
100万人に1人、
つまり日本には100人いるかどうか、
というオーダーだから、
そう心配はいらないのかもしれない。
「句読法」を誇りに思う人には、
こう言いたい。
文末に「。」をうつことは、
自分の文章に責任を持つことであり、
「自分が表現した」ということのアカシであり、
温かさの表現である、と。
最後の「喪中につき」ハガキは、
2018年末の20通分の1通、
文化財として永久保存したい
句読点のついたハガキである。
by rocky-road | 2018-12-10 12:44