コンニチハ 「健康さん」。
2018年10月29日の「読売新聞」に、
上の写真のような広告が載った。
舌を出した樹木希林さんである。
確か、アインシュタインにも、
舌だし写真があったと思う。
希林さんのメッセージとして、
こんなコメントが綴られている。
少し長いが、引いておこう。
広告主は宝島社。
「サヨウナラ、地球さん。
靴下でもシャツでも、最後は掃除道具として、
最後まで使い切る。人間も、十分に生きて
自分を使い切ったと思えることが、人間冥利に
尽きるんじゃないかしら。そういう意味で、
がんになって死ぬのがいちばん幸せなのよ。
用意ができる。
片付けして、
その準備ができるのは最高だと思うの。
ひょっとしたら、
この人は来年はいないかもしれないと思ったら、
その人との時間は大事でしょ?
そうやって考えると、がんは面白いのよ。
みんなで徹底的にやっつけるじゃない。だから怖いの。
自分が当事者になることなんて、
だれも考えていないんでしょうね。
日本には「水に流す」という言葉があるけど、
桜の花は「水に流す」といったことを表しているなと思うの。
何もなかったように散って、
また春が来ると咲き誇る。
桜が毎年咲き誇るうちに、
「水に流す」という考えかたを、
もう一度日本人は見直すべきなんじゃないかしら。
それでは、みなさん、
わたしは水に流されていなくなります。
今まで、好きにさせてくれてありがとう。
樹木希林、おしまい。」
もちろん、ご本人がこの日を予想して書いたのではなく、
ライターが、希林さんのいろいろのコトバを
この分量にまとめたのだろう。
希林さんの口調以前に、
発想そのものを受け止めている。
段落や行替えのない追い込み表記も、
読点や句点の打ち方も、しっかり考えている
(ここではブログ用にレイアウトを変えさせていただく)。
日本には「辞世の句」(じせいのく)の伝統があって、
死を意識して、元気なうちに書き残しておくのが
責任のある者のたしなみとなっている。
あまり文字数を増やさず、
ずばっとわが人生を言い切るのが流儀である。
足利義隆はこう詠んだ。
「何事も夢まぼろしと思い知る 身には憂いも喜びもなし」
無常観と無我の境地である。
西行法師は、こう詠んだ。
「願はくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃」
高杉晋作もまた、達観する。
「おもしろきこともなき世もおもしろく」
辞世の句は、男性に多いが、
明智光秀の三女、珠(たま)、
別名、細川ガラシャのものが残っている。
「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」
欧米には辞世の句の文化はないが、
最後のコトバを記録する点では東西は共通している。
フランスの文豪・スタンダールは
「生きた 書いた 愛した」
が、最後のコトバだったとされる。
冒頭の希林さんの辞世の句(句でないが)は、
自身の作ではないけれど、
ライターは、
かなりの程度、希林さんを代弁している。
歴史を経て、現存する辞世の句にも、
周囲の人に代筆させたものは少なくないだろう。
しかし、そのことは問わず、
要は、その人らしさを醸し出すこと。
靴下やシャツ同様、
自分を使い切ったと見る希林さんの思想は、
しっかり文章化されている。
「サヨウナラ 地球さん」と言いながら
内容は日本人へのメッセージになっている、
そのあたりも希林さんらしさを感じさせる
制作者の演出力だろうか。
折しも、
来年早々、パルマローザセミナーで講じる
≪健康軸で考える 人、社会、モチベーション≫
について構想中だが(2019年1月19日)、
そのモードであの新聞広告を見ると、
さすが希林さん、健康な死に方をしたな、
と実感する。
「健康」は、科学の対象でありながら、
夢や希望とも深くかかわるロマンでもある。
リアリティとファンタジー、
人類史は、
こんなにおもしろい思考のテーマ(哲学ではない)を
たくさんの余地を残してくれていた。
「アリガトウ 昔々から今日までの、地球のみなさん」
by rocky-road | 2018-10-31 22:54