栄養学を終わらせない論理。

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コミュニケーション研究会 ひろしま≫主催の
定期セミナーのために、

広島県三原市にある会場で終日、講義をした。(9月2日)

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講義は2つ、

1つめは

『栄養士にとっての「コーディネート力」と「編集力」。』

前回のテキストの後半部分。

2つめは『栄養士として「論理性」をどう強化するか。』

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いずれも、従来の考え方からすれば、

「栄養士向け」のテーマではないと思われるだろう。

実際、こういうテーマのセミナーは

これまでなかったはずである(国内、海外とも?)。

しかし、このテーマは、

今後はニーズが出てくると思う。

「栄養学」は、どこへ向かうのか、

という大きな問題にかかわっている。

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ヒトには、どんな栄養素が、どれくらい必要かは

今日までの研究によって、おおむね把握することができた。

必須栄養素の研究は、

ほぼ頂上にまで来た、といえるのではないか。

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ときどき、残り火のように、

微量成分の効用を見つけ出す研究者がいるが、

ビタミンやミネラルの発見に比べれば、

寿命を左右するほどの重要性はなさそうで、

今後、世紀の大発見はないだろう。

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食品に含まれる微量成分や、

一般性のない、特定の食品を見つけ出して、

(または外国の文献から見つけて出してきて)

それが長寿や認知症予防に有効とする学者

(おもに医師)が現われるが、

残り火のような弱い火力だから、

放っておけば、やがては消える。

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医学知識や医学的論理はあっても、

栄養学の知識が不足している医師の場合、

食や栄養に関する論理的基盤がないので、

ヒトの食行動そのものが見えず、

いまだに微量成分によって

加齢を遅らせたり、

認知症を抑制したりすることができると、

本気で思ってしまう。

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彼らは、悪い人ではなく、

けっして人をだまそうなどとは思っていない。

しかし、昔から言われるように、

「病気を診て、人を見ない」職業だから、

食品やそれに含まれる微量成分の薬事的効果を

真剣に考えてしまう。

真剣だからなお困る。

職業的権威をバックにして、

マスメディアを通じて、自信満々に

フードファディズムを振りまいている。

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こういう現象を見ているうち、

ある図式が見えてきた。

これは、軽薄なドクターが、浮かれて踊り出したのではなく、

栄養士によるヘルスプロモーションが低調なゾーンに

やむなくドクターの一部が流れ込んできた、

というところである。

一種の浸透圧が働いて、

うすい部分に濃い要素がにじんできた可能性がある。

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ヒトの健康を保つ栄養素の研究が頂上に達したからと言って、

「栄養学は終わった」というわけではない。

確かに、「終わった学問」はゴマンとある。

哲学は諸科学に、心理学は脳科学に、

言語心理学は認知言語学に、

という具合に、

後発の研究にお株を奪われることはある。

それが進歩というものである。

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栄養学が停滞しているように見えるのは、

研究者、関係者のパワー不足、アイディア不足、

論理性不足、言語能力不足などなどによるものである。

栄養士、健康支援者に、

論理性があれば、この状況をいくぶんは改善できる。

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いま、多くの人は、

「栄養士から食品に含まれる栄養素について
 教えてもらいたい」

と思っているわけではない。

そういう状況は、〝多くの人〟と接すればわかるし、

「では、なにを求めているか」は、

論理的に推論すれば見えてくる。

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サン・テクジュペリのコトバとされるように、

「心で見なくちゃ、ものはよく見えない。

かんじんなことは目では見えないんだよ」である。

この場合の「心」とは、直観もあるが、

コトバであり、論理である。

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論理とは「理屈」であり、「説明の仕方」であり、

だからつまり「考え方」であり、

モノを見るときのフィルターである。

人との約束時刻に遅れた人が、

「人身事故で電車がストップしたから」と説明する場合は、

責任を鉄道会社に置く論理であり、

「私が時間ギリギリに出たのが悪かった」は、

自分に責任があるとする論理である。

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広島のセミナーでは、

「論理」や「理論」とは何か、

どうすれば論理性を強化できるかについて、

いろいろの事例を使って説明した。

その目的は、

1にも2にも「栄養学を終わらせない」ためであり、

栄養士の個々人が、

魅力ある栄養士であり続けるためである。

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「論理」の話はここまでにして、

このブログに使ったアウトドアの写真の多くは、

尾道市瀬戸田町にある
「耕三寺博物館」(こうさんじ)に属する

寺と博物館と「未来心の丘」(みらいしん)で撮ったもの。

「未来心の丘」は、

イタリア在住の彫刻家・杭谷一東という人が設計し、

制作したものだという。5,000平方メートルの敷地に

3,000トンの大理石を敷き詰めたもの。

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この不思議な空間に魅せられて、

再度、リクエストして、連れて行っていただいた。

傘は、コミュニケーション研究会 ひろしまの
リーダー、
長谷 泉さんが用意してくださった。

雨のためというよりも、撮影の小道具として。

この演出力はさすが。

こういうパフォーマンスも、

もちろん論理的演出である。

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by rocky-road | 2018-09-04 20:24  

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