わが8月15日。

写真は、学童疎開先の宮城県の鳴子温泉で撮られたもの。
昭和19年か20年の撮影と思われる。
撮られた記憶もないから撮影者(当時はプロの仕事)も不明。
昭和19年3月の東京大空襲後、
いよいよ東京も危ないというので、
小学3年生になるのを待たずに、
まずは宮城県松島に疎開し、
そこも軍隊が駐屯していて狙われるというので、
山間の温泉地にある旅館に学校単位で転居した。

「疎開」(そかい)とは、
「空襲・火災などの被害を少なくするため、
集中している人口や建造物を分散すること」(広辞苑)
「縁故疎開」と「集団(または学童)疎開」とがあって、
親戚などに預けられるのが「縁故疎開」。
私は最初は新潟の親戚に兄と2人で預けられたが、
先方が嫌がったか、こちらが居づらかったのか
いったん東京に戻り、
すぐに学童疎開に替えた。

それを文集などに収める、
ということがはやった時期もあったが、
わが小学校ではそういうことをやらなかった。
疎開体験で語られるのは、
食事が1日2食の日もあったという飢餓体験や、
夏はノミ、冬はシラミに苦しめられたこと、
地元の子どもたちには疎外されたことなどだった。

「東京っ子」は、疎開先でしばしばいじめられた。
私の場合は、地元の子たちにウルシの木の枝を
顔や全身に押しつけられ、
翌日には顔や手がアレルギーで真っ赤になり、
目があけられないくらいになった。
しかし、こういういじめに耐えられなくなったことはなく、
むしろ、その仕返しとして
一派の1人の顔に馬糞を押しつけたことが
縁故疎開をやめる一因になった可能性がある。
叔母には「こんな子は家には置けない」と、
すごい剣幕で叱責されたことを覚えている。

あるいは、
食事は、先方の家族とはお膳が別で、
寄宿している兄と私とは向き合って2人で食べた。
ナイーブな兄は、
そういう冷たい生活が辛くて、
それを親に訴えた可能性がある。
疎開の変更の理由を
なぜ親には確かめておかなかったのか、
いま思えば不覚である。
終戦は、鳴子温泉で迎えた。
8月15日の玉音放送を感度の悪いラジオで聞いたが、
内容は理解できなかった。
しかし、大人たちの反応などから、
戦争が終わったことを知った。

どういう順番だったか覚えていないが、
その日の午後、上級生たちと山に入り、
竹を切って竹やりを作った。
その理由は、
「アメリカ人は地球上から日本人を消し去る」
と言っているから、
それを待つことなく、戦って死のう、ということだった。
そこへ先生がやってきて、
そんなことは絶対にないから、
竹やりを捨てなさい、と武装解除を言い渡された。
気分が高揚していたことは覚えているが、
その場面や心境などは、まったく覚えていない。
小学3年生に決死の覚悟など、あったとは思えず、
おそらく、上級生に従っただけだったのだろう。

進駐軍のアメリカ兵を最初に見たのは、
鳴子温泉の街であった。
ジープに乗って通り過ぎた。
フレンドリーな表情で私たちを見た。
竹槍の相手になるような「鬼畜米英」ではなかったことに
強い安堵感を持った。
8月15日に終戦になったが、
東京へ戻る輸送列車のやりくりがつかず、
2か月後の10月に、
焼け野原の多い東京に戻った。
そんな経験から27年後、
30歳を過ぎてから、
学童疎開先の松島ホテルと、
鳴子の高友旅館を訪ねた。
それぞれのオーナーに会い、
話を聞き、資料などをもらった。

また、役場にも行き、「町史」をたどって
戦時中の記録なども調べた。
「指ケ谷小学校生徒を学童疎開受け入れ」
という程度の記録しかなかった。
最初に掲げた写真は、
以下の経過から見つかった。


旅館の女将に会って、戦時中の話を聞いたが、
いろいろの地域の学童を受け入れたり、
傷痍軍人(前線で負傷したり病気になったりした兵隊)を
受け入れたりしたので、
小学校の名称など、まったく覚えていないとのこと。
そのとき、女将は思いついて、
棚から越中富山の薬箱を下ろしてきて
中にぎっしり詰まっているプリント写真を
1枚1枚畳の上に置いてくれた。
10枚目にも行かないうちに、
1枚の写真に目が留まった。

最前列に座っている自分の姿がすぐにわかった。
撮られたことも覚えていないし、
生徒に写真をくれるなどという習慣も
なかった時代だから、
写真を見たことはない。
なのに、100枚以上はある写真の中から
ほんの10分もかからないうちに、
自分の写っている写真を見つけ出すとは、
人間の記憶力の不思議さを感じた。
「この写真、コピーを取りたいので
貸していただけませんか」と頼んだら、
「いいですよ、差しあげますから、どうぞ」と女将。
100人以上いた疎開組のうち、
このプリント写真を手にしたのはいないか、
いても、ほんのわずかと思う。
こういう経過があって、
学童疎開中の写真が手に入った。

この写真には、
もう1人、気になる人が写っていた。
うしろの列ににいる寮母さんたちの中に
忘れられない顔があった。
「この人はどういう人ですか」と女将に聞いた。
「その子はNちゃん、
いま、町のボウリング場で働いていますよ」
彼女は、当時18歳くらい、
空腹の私に、焼きおにぎりを手渡してくれて、
「人に見つからないように食べなさい」と
支えてくれたり、やさしく声をかけたりしてくれた。
おにぎりは、深夜、ふとんの中で食べた。
この人には会わないわけにはいかない。
女将は電話をかけてくれて
アポをとってくれた。
その後の経緯は、
交通公社発行の『旅』という雑誌の
紀行文学賞の応募作品に書いた。
候補作として掲載されたので、
いまも活字として残してある。

わが戦争体験は、この程度のものである。
8月15日の終戦記念日(異説に「敗戦記念日」)には
メディアがそれにちなんで特集を組む。
近年は、100歳を越えて「語り継ぐ」人も
珍しくなくなった。
凄惨な負け戦から生還しただけでも奇跡なのに、
その体験を、百寿者となっていま語ることができる、
そういう日が来たことに驚く。
もっとも、戦禍や戦争の悲惨さだけを
語り継ぐことにどれほどの意味があるのか。
「だから戦争はいけない」「平和がいちばん」
で終わるコメントの反復では、
その意味は半減する。

大事なのは、
「では、その戦争を防ぐには、どうすればよいのか」である。
そこまで言ってもらわないと、
この語り継ぎは「祈り」で終わってしまう。
もし祈りで戦争が防げるなら、
人類は、とっくの昔に「平和教」を生み出していたはず。
信仰で戦争が防げるのなら、
どこの国でも、ムダな軍事予算など組む必要はない。
いま考えられる戦争の防ぎ方について、
もっと議論をしておく必要があるが、
メディアは「いい子」でいたいから、
「だから平和がいちばん」でまとめる。

仕方がないから、
いくつかの選択肢を想定するしかない。
①世界一の国力、軍事力を持って、
他国の干渉を受けないようにする。
②自分ではそうしないで、
そういう国にぴったり寄りそって、
太鼓持ち同様に「あなたさまのおっしゃるとおりでげす」
と追従に徹する(え? いまやっている?)
③どんな国が、どんな要求をしたり、
キツイことを言ったりしてきても、
「おっしゃるとおり」と同調する。
④議論では絶対に負けない言語能力を高め、
すべて交渉によって有利な条件を引き出す。
⑤世界に向けて「平和教」を「国教」と定めたことを伝え、
永世中立国を宣言する。
(え? いまがそれでしょ?)
ぶりっこは嫌われるから、商売に支障が出ることもあるが、
平和教徒として赤貧に耐える。
⑥どこかの国が攻めてきたり、
どこかの国を攻める気配が出てきたら
(たとえば徴兵制が制度化されたりしたら)
難民となって強い国になだれ込むか、
信仰に殉じて潔く自決する。(平和のためなら死んでもいい)

などなど、語り継ぐときの「オチ」として、
「だから平和が大事」を実現するための対策案をつけることにする。
「オチ」のない話は却下。
いまは現実味がないものもあるが、
73年間も考えずにきたのだから、
数年も考えれば、100や1000のアイディアは出るはず。
ここでも頭を使えば、
思考力も認知能力も強化され、
少しは論理性のある国民だと、
評価される日がくるかもしれない。
by rocky-road | 2018-08-16 21:55