極上の京都。

ご招待を受けて、
京都の旅を満喫してきた。
サクラも四条河原あたりの人出も、
陽気も、和装のきれいどころも
食事のあれこれも満開だった。

京都への旅の歴史は60数年前に始まるが、
和装の美女についてゆく旅は初めてである。
「インスタ映え」という点では
最初で最後の京都の旅となるだろう。

それにしても、
外国人旅行者が多い。
混雑度という点では
このシーズンらしいおなじみ体験だが、
いつになく歩き疲れたのは、
かれらの歩き方が
日本人のリズムに合っていないためだろう。

日本人の場合、
特段の交通整理がなくても、
人の流れは自然にできてくる。
が、かれらは、右左の別なく歩くし、
もちろん逆走や横断も、
そして輪になっての相談も自由。
その無秩序に合わせるのに
やや神経が疲れた。

彼らが無秩序というよりも、
初体験の旅行先で、
状況が読みきれていない、ということなのだろう。
韓国にしろ中国にしろ、
その他のアジア諸国にしろ、
人が集まる季節の行事やデモは
経験済みのはずだから、
いずれ、「日本通」の人がアドバイスするだろう。
こうした熱気から離れて
東京に帰ってくると、
またまた孤独をすすめる本が出た様子。
「極上の孤独」だと、のたまう。
いつの間にか、
孤独にも「松・竹・梅」ができたらしい。

新聞広告にピックアップされているフレーズには、
*なぜ誰もが「孤独」を嫌うのか
*素敵な人はみな孤独
*他人に合わせるくらいなら孤独を選ぶ
*万人を魅了した大物歌手はみな孤独
などがある。

よくいうよ。
前にもここで取りあげたことのある
孤独好きの作家の場合と同様、
これらの提言には大きなウソがある。
「孤独」をどう定義するかが問題だが、
著書を通じて数万、数十万人の読者に
「極上の」(?)の情報を届けようとしている人間が
「極上の孤独」だなんて、白々しい。

そういう本を書く前に、
すでに社会的活動を人一倍してきて、
そこそこ稼ぎ、
全国的に知名度もあげた人間が
孤独であるはずがない。
本が出たあとには、それなりの反響もある。
質問や反論もある。
著作というのは、
孤独を保つにはもっとも避けたい行為である。

この問題を生理的、心理的テーマとして考えてみると、
ある程度の社会活動をしてきた人間が
第一線からほんの少し距離ができたとき、
一時的な孤独感が襲ってくるのかもしれない。
しかし、本当の孤独など知る由もないから、
ささやかな孤独を「極上」などと
のん気に形容をしてしまう。

いい歳をして、
自他の区別ができない。
人生を生き切ったという自負のある(?)人間と、
本は書けず、背中を掻くのがやっと、
という人との「孤独差」がわかっていないから、
ボーダーラインにいる人を
孤独側にそそのかす可能性がある。

高齢期の心理的視野狭窄とでもいうのか。
ブレーキとアクセルを踏み間違えたり、
横断歩道以外のところを
悠然と歩いたりするのと同じである。


たまたま2日後の新聞の人生案内に、
50歳代の女性が、
「私の50年 一体何だった」として
不運な自分の人生を問うている。

両親に精神障害があり、
母親は自分が生まれてすぐに自殺、
父親はなにがしかの発作があり、
祖父も自殺。
10代には、いじめを受けて不登校に。
就職先では既婚男性からセクハラを受けて退職。
いまはうつ病で、生活保護を受けながら
治療を続けているという。

こういうのは「極下の孤独」とでもいうのか。
この人の場合、
まだ新聞に投書をするだけのモチベーションが
あるから、それでもまだ「極下」ではないかもしれない。

2年前から近所を徘徊している
40代と見える男性ホームレスの、
人生を捨てきった孤独ぶりを見ると、
「極下」の底は、まだまだ深いと思える。
いやいや、この男性の場合は
福祉の拘束から逃れて、
車が往来する路上で横になっているだから、
これぞ「極上の孤独」、
そして次には「極上の死に方」なのかもしれない。

このところの断捨離ブームは
中学生にまで及んでいるが(新聞の投書による)、
この現象を俯瞰すると、
国が縮むというのは、こういうことかと思う。
隣国や隣々国は、恨み、つらみという
マイナスモチベーションで盛り上がっている一方で
わが日本は、
「捨てちゃえ、捨てちゃえ、
どうせ拾った恋だもの♪」と
島々の切り捨てさえ受け入れそうな気配。

そのくせ、
70年以上もたって、
だいぶ劣化している憲法は捨てるな、
更新するな、とモチベーションを高めている。
しかしこれも、
「戦争をしない国」として、
相手の攻撃モチベーションを高めさせ、
隷属さえも受け入れる、
というアピールになるから、
結果としては日本国の断捨離につながる。

そんな状況になっても、
かの「極上の孤独」を満喫する有名人は、
「来るものは拒まず、去るものは追わず」とか、
「咳をしても1人」とかといって、
「孤独を知る人」として美しがっていることだろう。

こういう人には、
自分をここまで支えてくれた人たちへの感謝がない。
一種の食い逃げである。
「極上の甘ったれ」というべきか。

バングラデシュのムハマド・コヌスという
経済学者でノーベル平和賞受賞の人が
来日したそうで、
テレビのインタビューに答え、
「高齢者というコトバはなくすべきだ」
「高齢期は時間が少ないなどというな」
などと語っていた。

子どもたちが巣立って、
身軽になったいまこそ、
社会貢献をする時間も労力もいっぱいある、
ともいっていた。

中学生程度の生物学の知識があれば、
人間やゾウやイワシやイナゴや、
あれこれの動植物の多くは、
群れないと生存できない。

人が作った街や村に住み、
人が作った家に住み、
人が作った食料を食いながら、
「孤独ほど、贅沢で愉快なものはない。」
なんて、子どもみたいに甘ったれたことを
いうたらあかんわ。


生きるとは、どういうことか、
人の中でもんでやりたい。


by rocky-road | 2018-04-03 00:06