「心の栄養」足りていますか。
以下の、2つのセミナーに関連して、
2つの話題をとりあげてみたい。
1.「栄養バランス」をどう学び、
どう伝えればよいか。
(第1群と第2群の食品の考え方)
2017年11月25日
女子栄養大学 香友会館
2.「食ジム」第61回
ユーモア感覚を
どう身につけ、どう生かすか。
2017年11月26日
かながわ労働プラザ
まず、「食事の摂取基準」について。
20万年以上前といわれる
ホモ・サピエンスの誕生以来、
ヒトは、今日まで終始一貫して
日々の食事を感覚的に選んで生きてきた。
それでも、20万年もたてば、
1日3回に分けて食事をすること、
一定のメニュー(一汁三菜など)に従っていること、
米食文化圏の一部では
「主食」と「おかず」とを分けること、
動物性食品と植物性食品とを組み合わせること、
などについて、
ある程度、習慣にすることを覚え、
意識する人も出てきてはいる。
ところが、
1日に、何を、どれだけ食べるか、ということになると、
地球上の90%の以上(?)の人は関心を持っていない。
そもそも、「何を、どれだけ」などといって
選んでいる余裕などない人が大半である。
一方、いくらか余裕のある国では、
日々、何を、どれだけ食べるか
ということに関心があっても、
そして、その指針が示されていたとしても、
「テキトウ」に食事をしている人がほとんどである。
人によっては、
「人間はからだに必要な栄養素を、
自然に欲するようにできている」などと、
都合のよい珍説を述べたりする。
テキトウでは済まされない例外は、
3度の食事が提供される施設などである。
福祉施設、病院、全寮制の施設などである。
つまり、現役として活動中の社会人は
まあ、テキトウに食事を選んで、
それでも世界一の長寿国になっちゃったりする。
「だったら、この路線でいけばいいじゃん?」
長生きだけが人生の目的なら、
それも「いいじゃん!」
しかし、
「ヒトは情報を心の糧として生きている」という、
私論をベースに論じるならば、
きょう食べるもの、あした食べるものを
予定すること、イメージすることは、
心の栄養素の1つにもなりうる。
つまり、「生理的栄養」と、
「心の栄養」の相乗効果で、
健康度はプラスに働く。
もっとも、
食べることだけを考えているのは
健康状態が良好とはいえない。
病気療養中の人や寝たきりの人などは、
そうなる可能性があるが、
それでも、あしたの楽しみは
心の栄養となって、
あしたに生きる動機を与える。
「生理的栄養」と「心の栄養」との相乗効果とは、
*次の美容院、理髪店に行く予定をすること、
*クローゼットの整理を来週にすること、
*きょう、朝食に卵を食べ、牛乳を飲むこと、
*きょうは雨だけどウォーキングは休まないこと、
*ブロッコリーのサラダにアボカドを2個使うこと
*北朝鮮からのミサイル攻撃を想定した
避難訓練に、今週末に参加すること、
*喪中のハガキに対する返事をあした中に出すこと、
*スーパーに行くとき、
郵便局で年賀切手を買うこと……、
などという、雑多な、「あした」がある日常生活を
くり返すことである。
最近の健康に関する研究では、
生活の多様性に着目するようになってきた。
栄養、運動、休養以外の生活行動が、
健康を左右する要素が大きい、
ということである。
「大橋予暇研究所」としては、
20年以上前から指摘していることだが、
研究者たちの視線が
ようやくその方向に向けられるようになってきている。
食の地図を持って人生の旅をすることは、
まさしく多様性のある人生を旅する
基本中の基本となる。
さて次は「ユーモア」について。
これも心の多様性、心の栄養の問題である。
栄養士、そして健康支援者にユーモアは必要か。
「あったり前田のクラッカー」(当たり前である)
笑いは健康であり、健康は笑いである。
あるケアマネージャーが、
クライアントの高齢者を訪問して声をかけた。
「なにかお困りのことがありましたら、おっしゃってください」
高齢者は言った。
「お金に困っているのよ」
「……」
このクライアントはまだ当分は元気。
沈黙したケアマネは、
ちょっとユーモア貧血。
この治療例は、
*「そう、ゴミの日だけでは捨てきれないのね」
*「お困りなのね、1億くらいなら
私でも使ってあげられるかしら?」
*「今度、うちのスタッフ全員で処分しにうかがうわ」
*「105歳の実家の父に頼んで、
山でも売ってもらいましょうか」
*「お庭の柿の木を売ったりして、
お金をかき集めてはいかが?」
*「待っていてね、今度ボーナスが出たら、
宝くじを1枚買う予定なので、
いっしょに祈っていてください」
by rocky-road | 2017-12-02 00:19