喪中ではないので、年末年始のごあいさつと、句読点を続けさせていただきます。(マル)
「喪中につき、
年末年始のご挨拶をご遠慮を申しあげます」
というハガキが届き始めた。
その中に、句読点を使ってあるのが1通だけあって、
何回も読み返した。
これは偶然か、意図があってのことなのか、と。
日本語でも英語でも、
文章に句読点やカンマやピリオドを
使うのが正書法なのだから、
それが使ってあったといって、
反応する自分に苦笑せざるを得ない。
パソコンのソフト設定者が、
年賀状や喪中ハガキ、
結婚や転居の案内文の文中の句読点を
省くように設定したために、
これらの定番の文章からは
句読点が完全に排除されてしまった。
日本人は、明治維新まで
「国語」というものを持たず(地域語はあった)、
「わたし」や「あなた」、
「お父さん」や「お母さん」
というコトバさえなかった。
これでは、国民が共通言語によって
コミュニケーションをとることができないと、
外国の例などからも学んで、
明治政府が「新生日本語」を創設した。
「です」や「ます」「である」も、
明治になってつくられた文章のまとめ方である。
ちなみに、それ以前は「男ありけり」「たいしたものだ」
などと結んでいた。
そのころは句読点はなかった。
明治政府は、
国語表現の大改革を行ない、
文節ごとに「、」を、
文末には「。」を打つという、
現在に至る正書法を確立した。
これらの文化大革命の成果を知らず、
だれいうとはなしに、
「あいさつ文からは句読点を省こう」ということになった。
印刷業者などが、にわか知識で、
「昔は(毛筆の時代は)句読点を打たなかった」などと
わかったような解釈をして、
現在のパソコン文例にある表記習慣を作った。
そんなに昔がよかったのなら、
ちょんまげ(丁髷)でも結って生活をすればよい。
この状態を「パソコンに使われている状態」と
私は見ることにしている。
句読点を省く人間は、
国語のセンスが著しく低い者と私は見る。
国語のセンスついでにいえば、
11月の定例国会に際して、
質問時間の与野党比率を
議員数に応じて見直すかどうかで議論になっていた。
が、それをいうなら、
国会での審議の進め方のほうこそ、
見直すべきときではないか。
質問者が問いかけ、大臣や関係者が回答する、
その形はよいが、
質問者は、まるで犯罪者を追及するように高飛車に出る。
……なんて言ったら、警察関係者に注意を受けるかも。
警察は、あんなにひどい言い方はしません、と。
国会審議がつまらないのは、
攻める側と攻められる側のカタチが
ワンパターンであるからだろう。
代案のない質問者の設問に
反論または逆質問のない議論など、
第三者が見ていておもしろいはずがない。
勝ち負けがないゲームのつまらなさと同じである。
「もし、質問者がいうようにしたら、
政府がとるべき国民への責任を
どう果たせというのでしょうか。
ほかに代案があるなら伺いたい」という程度の
一般論化した逆質問さえ許されないのなら、
質問者はただただ過激に、
回答者は用意した文章を棒読みする、
こんなワンパターンを何十年も続けているのだから、
「思考力はだいじょうぶ?」と問いたい。
これもまた、
明治時代の国会審議よりも
はるかに退行してしまっている。
明治の国会はもっと生き生きとしていたことは、
多くの記録が伝えている。
11月の国会本会議での安倍首相の答弁は、
「謙虚でない」と突っ込まるのを避けるためか、
用意した文章の棒読みに終始した。
日本人はいかに議論が嫌いな国民であるか、
改めて実感する。
議論をしないということは、
考えないということでもある。
幸か不幸か、
日本人は、あまりモノを考えないという点で、
押しも押されもしない発展途上国であることを
再認識する必要があるだろう。
ちなみに、
このブログには、句読点を適度に打ってある。
タイトルにも。
タイトルに句点を打つ理由は、
いつか、また。
by rocky-road | 2017-11-22 23:20