コトバで「自分」へのアプローチ。

≪コミュニケーション研究会 ひろしま≫の
第3クール(3年目)第5回の
メインの講義テーマは
「『自分力』をどう発見し、どう生かすか。」
(9月3日、広島県三原市)

「自分とはなにか」は、
かつては哲学の主要なテーマの1つだった。
が、私の講義では、
「自分」を認識するうえで、
コトバの果たす役割が大きいことをお話しした。
大きく、くくれば、
認知言語学的アプローチということになるだろう。

虹が7色に見えるのは、
視覚的に認識しているのではなく、
「虹は7色」という知識があるから、
数えることもなく7色に見えるのである。

現実の虹はグラテーションのある配色なので、
色数を確かめようとしても、線引きができず、
ぴたりと7色を見分けられない。


だから日本人も、
大昔から「虹は7色」とは思ってはいなかったし、
現にいまでも、
虹は7色だと思っていない国や地域や人種は
ゴマンとある。
3色だと思っている地域もあるとか。



さて、自分をどう発見するかだが、
いわば行動傾向を把握すること。
自分の人生の設計図というものはなく、
この先、どこへ行くかの地図もない。
まさに「運を天に任せて」生きているわけだが、
アバウトながらコトバは、
地図のほんの一部分を示し、
方向性を予測するベースにはなる。

「人生」というコトバを使わない人には
「人生設計」はしにくいし、
「ライフスタイル」「ライフデザイン」という
コトバの正しい意味を知らない人には
自分を客観視する機会は少ない。

「愛」というコトバを意識しない人には
温かい心の表わし方は苦手だろうし、
「信念」というコトバを
(心の中ででも)使いつけない人は
「ブレやすい」可能性がある。


自分を発見したり、
自分を生かしたりするコトバは
ネット上を行き来する頻度は低く、
したがって、スマホ依存の人は、
生涯、人生を考えたり悩んだりする可能性は低く、
その意味ではヤギやウマ、恐竜ほどに
「幸せな人生」いや「幸せな瞬間~瞬間」を
過ごすことができる。



広島出張に際して、購入したばかりの本、
『ファッションで社会学する』という
味なネーミングの本を携えていった。
(藤田結子、成実弘至+辻 泉編 有斐閣発行)
と、ここでも「自分らしさ」というフレーズが
頻繁に出てくる、その偶然がおもしろいと思った。
ちなみに「学生向け」の本だという。
どういう学生なのかは不明。

この本には、
「外見と自分らしさ」という章があって、
社会学の論述のプロセスを学ぶことができる。
ロリータファッションだのガングロメイクだの、
美容整形だのを、なんのためにするのか、
それを本人たちに聞くと、
大半は「自分が心地よくなるため」と答えるという。

論考を進めるうちに、
「自分」の中には、
すでに「身近な人のまなざし」が入っていて、
つまりは社会が自分を見る目が入り込んでいて、
自分が思っているほど、
「自分は自分ではない」という話になっていく。
「なぜ美容整形をするのか」など、
本人たちに尋ねた調査データが
いくつも紹介されているが、
どうやら、いくつかの選択肢から、
自分の考えに近いものを選ぶ方式らしい。
この段階で被験者は
調査員に誘導されてしまう。
実際には、自分を自分のコトバで語れる人は、
そう多くはないし、厳密には不可能である。
だから、人が作ったフレーズの中から
一見、自分の考えに近いと思えるものを選ぶ。

「自分」に限らず、
森羅万象を語れるほど、
人間はコトバを多く持っていないし、
いくらかは持っていても、
それを適宜使いこなすことはできない。
その無理難題に挑んで呻吟する(しんぎん=苦しむ)のが
五七五の俳句であろう。
月天心貧しき町を通りけり (与謝蕪村)
(上空にある満月は、いま、この寒村を過ぎつつある)
アンケートは、
いかにも人為が入りやすい形式であるかが
改めてよくわかる。
生物学的アプローチや
精神医学、認知言語学、
そして脳科学などのアプローチなら、
ロリータファッションが「自分のため」
などという女子の意見など求めても、
本当のことはわからないのは、
最初からわかっているだろう。

生物学の知見では、
社会行動をする種が、
単独で生きていくことなどできるわけがない、
そんな観察はいくらでもある。
適応とは、いろいろの状況に
自分を合わせていくことにほかならない。

この世に、ガングロがたった1人だったら、
そして、あとに続く者が
絶対にいないとわかっていたら、
あるいは、それによって自分に
なんのメリットもないことがわかっていたら、
そういうファッションを選ぶ人は少ない。
いや、それは「ファッション」とは呼ばない。
ファッションはかならず複数で成り立つ。

世の中でたった1人の行動は、
奇行か、天才か、新しい病気か……、
いずれにしてもファッションにはなりようがない。
とはいえ、生物学的または文化論的にいえば、
そうしたムダに見える挑戦や突然変異が
新しい適応のカタチをもたらしたり、
新しい文化を生み出したりする可能性はある。
適応や創造は結果論であり、
理屈は後づけになる。

さてさて、
わが言語学的アプローチとしての
「『自分力』をどう発見し、どう生かすか。」の講義では、
人間が、または社会が作ったコトバが、
自分の社会生活を活性化するのに有効であることを述べた。
コトバは、最小にして最大の地図であり設計図。
「人生」「理想」「未来」「人生観」といったコトバの意味は、
だれも視覚的に確認できないが、
方向指示器としての意味は大きい。

シラケた小説1冊よりも、
「目標」という1語のほうが、
人生の歩き方を的確に示してくれることがある。
もちろん、その逆もある。
「文章教室」のニュアンスで始まった
シリーズ講座ではあるが、
思えば遠くに来たもんだ。

文章力は、
社会的コミュニケーションの質を高めることにを
主な目的にしてはいるが、
そのための素材であるコトバの吟味は、
料理をするとき、素材の吟味と同様、
出来栄えを大きく左右する。
今回は、「文章」という単位ではなく、
単語という素材を中心に講じた。
しかし、感想を伝えてくれる人のメールや手紙は、
明らかに「自分らしさ」を的確に示す、
以前よりもずっと重みのある文章になっていた。

by rocky-road | 2017-09-10 14:35