気になる「編集力」「コーディネート力」
前回、このページで
「編集力」と「コーディネート力」は
一般には職業的スキルと位置づけられているけれど、
同時にそれは、万人の生涯にわたる生活技術でもあるから、
そのことを認識して、
能力アップの努力をしたほうがよい、と述べた。
この指摘は、去る2017年6月4日の
パルマローザ・ブラッシュアップセミナー
「栄養士、健康支援者の
編集力、コーディネート力をどう強化するか」
のテーマであったが、
それをこのブログで報告し、そして補足した。
ところが、当日のアンケートを読み返したり、
何人かの人からの質問を受けたりしていて、
「編集」と「コーディネート」との区分が
かならずしも正確に理解できてはいない、
ということが、よくわかった。
ふだん意識していない事柄だから、
一度聞いて、すべてがわかった、とはいかない、
それは当然のことであり、想定内のことである。
たとえば
「アンケートは編集ですか、コーディネートですか」
「創作料理のネーミングは編集ですか、
コーディネートですか」
「アナウンサーがニュースを伝えるという行為は
編集ですか、コーディネートですか」
といった迷いである
コーヒーにミルクを流し入れるとき、
どこまでがコーヒーで、どこまでがミルクなのか
区分がつかない瞬間があるが、
編集とコーディネートにも、
2つのアクションが混ざり合ったり
連続的につなかったりすることがしばしばある。
だから、どこかの大統領のように、
境界線にフェンスを張り巡らして
不法移民は絶対に遮断する、などとリキむ必要はない。
編集とコーディネートは、
もともとは別個に発達してきたものだが、
いつの間にか生活の中で交じり合ってきたのである。
コーヒーとミルクの関係である。
そのことに、もう気がついていいころ、
そう考えて講義の演題にした。
前回のこのページでは、
2つのコトバの定義をしていなかったので、
ここにあげておこう。
●「編集」の定義(大橋)
「雑誌、新聞、書物、映像、パンフレット、
CDなどのような、ひとまとまりの「情報体」を作るために、
必要な材料を集め、それをまとめ、整える作業。
または、すでにある情報体の順序を変えたり、
短くしたり長くしたり、
整え直したりする作業についてもいう。
ここでいう「情報体」とは、
新聞、雑誌、映画、音楽CD、写真集などをいう。
「編集」は、それをつくるために、素材を集め、
まとめあげる作業。
音楽の1曲については「編集」作業はないが、
2曲以上を集めて1枚のCD(情報体)を作るとなると、
編集作業が伴う。
小説も「情報体」に違いないが、
これは1人の作者の創作物と見られるから、
「編集物」とは扱われず、「作品」となる。
厳密にいえば、作家が1本の小説を書くとき、
人や場所、その他の事物の状況を取材したりするから、
編集の要素も入っているが、
「創作」という要素を優先させて、
1個人の「作品」という扱いになる。
1曲の音楽にも、
厳密にいえば編集的要素はある。
チェコの人、ドボルザークの『新世界交響曲』は、
彼がアメリカの「ニューヨーク音楽院」の院長に招かれたとき、
アメリカ的(黒人音楽的)要素を採り入れて(取材して)
作曲したというから、
編集的要素が少なからず入っている。
「そういうことをいうから、
編集とは何かが、またまたわからなくなる」
といわれそうだが、
要は比率の問題。
コーヒーにクリープを入れた程度なら「コーヒー」だが、
ミルクをたっぷり入れれば「カフェオレ」になる。
そんなものである。
漱石の『坊ちゃん』も、
トルストイの『戦争と平和』も、
取材的要素が少なくないが、
創作が中心となっているから「作品」である。
一方、
新聞やテレビの特集番組は、
チームで作られるものだから
「作品的」価値はあるとしても、
カテゴリーとしては「編集もの」である。
前述の「アンケートは編集か……」でいえば、
アンケート用紙の作成は編集的である。
「この講演の感想、*よかった *ふつう *よくなかった」
という、受講者の筆記能力を低く見た問いかけはやめよう、
という制作者の判断は編集的感覚。
「みんな字が書ける人なんだから、
自分のコトバで感想を書いてもらおうよ」という判断で、
「ご講義をお聞きになって、
印象に残ったことがありましたら、
お示しください」に落ちつく。
個人的な判断力によるアイディアだとしても、
これも一種の共同作業の一部だから、
「創作」というのはムリで、
読み手、記入者からよい反応を得ようとする
編集的作業である。
さて、次はコーディネート。
●コーディネートの定義(大橋)
ヒト、コト、モノなど、それぞれ個別に存在しているものを、
ある目的に沿ってまとめたり、調和を図ったり、
連携させたり、調整したり、促進したりすること。
「ヒト」「コト」については、会議の設定、プロジェクト、
コラボレーション、イベント、冠婚葬祭、
お見合いなどの推進、調整などについていう。
「プロモーション」や「プロデュース」「リーダーシップ」
と類似するところがあるが、
コーディネートの場合は、リーダーシップの程度は弱い。
あえていえば、「率先垂範型」(オレについて来い型)というよりも
「あと押し型」リーダーの要素が強い。
プロのコーディネーターの場合は、
自らが発案者ではなく、
依頼人の要望に沿って活動するのが通常の形。
「モノ」については、衣服、アクセサリー、インテリア、
テーブルコーディネート、収納などの調和を図ること。
各コーディネートをさらに大きな視野から
調和を図るトータルコーディネート
というコトバや職種が生まれている。
さっきのアンケートについていえば、
アンケート用紙を制作する仕事は編集的だが、
それをどういうタイミングで配るか、
記入してもらうのに
どれくらいの時間をかけるかなどは
コーディネートに属す仕事。
そうして集めたアンケートを集計したり、
分析したりするところで、ふたたび編集作業に戻る。
そもそもアンケートをなぜとるのか、
それを「調査」とだけ考えるのは
プロデューサーとしての認識不足。
そういう感覚は、編集的でもコーディネート的でもなく、
プロデューサー的、または演出的アクション。
アンケートには、
自分が学んだことをフィードバックする意味、
つまり認識を深め、学習効果をあげる意味もある。
だから「*よかった *ふつう *よくなかった」のように
「〇」をするだけの選択式は、学習効果を低く抑えるだけ。
さらにアンケートには、
受講者の参加意識を高める効果もある。
書くことで、モチベーションが高まる。
主催者への親近感を深める。
こういう話になってくると、
編集か、コーディネートか、という区分では
収まりきれなくなる。
ニュースの原稿は記者が書き(編集の一部)、
それをプロデューサーが編集し、
その原稿を、アナウンサーが読む。
その読み方、表情、発声、身だしなみなどは
コーディネート力によって印象づけられる。
ポイントは、編集とはどこまでをいうか、
コーディネートとはどこまでをいうか、
というカテゴライズの問題ではなく、
それぞれのスキルが自分の生活技術として、
自分や人の人生を支える、ということを認識し、
活用していくこと。
ホントのことをいうと、
プロの編集者といえども、
編集のなんたるかがわかっていない者が多い。
教える人が少ないし、
教える人のためのアンチョコとなるマニュアルもない。
現状はそうだが、
パソコンやスマホの普及は、
人類に編集力強化を求めている。
その反面、人に関するコーディネート力は、
著しく衰えつつあるように思える。
数人の人に向けて
適正な声で問いかけたり、
話しかけたりすることができない人が
激増している。
電車の中でスマホでゲームに没頭している人間には
とてもコーディネート力を期待するのはムリ。
自分の10センチ先の周囲が見えない者に、
A地点にあるモノと、B地点にあるものを一緒にし、
C地点にいる人にまとめてもらう、
などという発想は生まれようもない。
そういう時代には、
編集力もコーディネート力も、
当分は得難い能力であり続けるだろうから、
その能力を磨くことは、
人生のスペシャリストとして
あなたを支えることになるはずである。
by rocky-road | 2017-06-21 16:10