うまく育った「私」と「あなた」

去る2月19日に開かれた第53回「食ジム」では、
「栄養士・健康支援者における『子育て』のいろいろ」
(美しい関わり方)
というタイトルで、終日、話し合った。
会場 横浜市技能文化会館
アドバイザー 影山なお子さん 大橋禄郎

内容は
1.私の育てられ方--親のこんなところに感謝したい。
2.「親の顔を見ちゃいました!」 バッド子育ての現場レポート
3.日本人の子育て食育--①ここが問題 ②ここが誇り
4.栄養士・健康支援者の考える「子育てのあり方」
5.「子育て」の評価基準を設けるとすれば……。

1~3については、各自の発言が続いたが、
4~5については時間切れで
軟着陸とまではいかなかった。
むずかしいテーマであっただけに、
むしろ、みんなで考えてみたかった。
やむを得ず、私なりの感想を述べたが、
充分ではなかったので、
以下にまとめておきたい。

「4」の栄養士・健康支援者の考える「子育てのあり方」
については、当然ながら、
食と健康に軸足を置いての論になる。
ということは、端的に言えば「食育論」である。
「食育基本法」には、目標はあるものの、
「食育」の定義がないため、
土俵のない取り組みが続いている。

それは、地引網体験も、芋掘りも、
田植えも、稲刈も、
魚市場や青物市場見学も、食品メーカー見学も、
「食育」ということになる。
将来、一次産業に従事させることが前提なのか、
社会科への横滑りなのか。
挙句の果ては
中高年対象に「寝たきりにならないための食育」として、
料理教室が開かれたりもする。

「食育」とは、知育、体育、徳育の連想から、
子どもの心とからだを培うために、
家庭での食教育を強化することが目的だったのではないか。
しかし現状では、
食育は家庭に戻ることはなく、
学校や業者任せになりつつある。
ここで注目すべきは次の点。

女性の社会参加の結果として、
食の外部化(外食、中食、調理済み食品)により、
家庭での「団欒」(だんらん)の機会が減り、
食卓を通じての情操教育がしにくくなった、
そこで「食育」が大事、
として「食育基本法」を作った。
その狙いは、
家庭での「団欒」の復活にあった。

ところが、その「食育」は学校任せになり、
さらに、
学校を通して
専門コーディネーターへの発注となった。
気がつけば、「食育」も外部化していた。
当時から、予測していたとおりになった。

子どもが親と食事をする機会が減った、
その事実を認める視点があるならば、
「食育」が空論になることは予測できたはず。
そう推測できたから、
子どもから「食事力」を引き出すほうが
現実的ではないのか、と言い続けてきた。
いつ、どこで、どう食べようと、
自分にプラスとなる食事を選ぶ力、
食べる力を引き出すのである。

3歳児の食事力、10歳児の食事力、
20歳の食事力、70歳の食事力。
どれにしても、気力、体力、記憶力、
欲をいえば、努力や精神力、学力があるといい。

「食事力」とは、
ヒヨコが孵化した直後にエサをついばむように、
哺乳動物が生まれてすぐ、母親の乳を飲むように、
それは本能的な能力であるとともに、
知力や学力、経済力をもって支える
社会的能力でもある。
つまりは、人間の一生を支える能力、
それが「食事力」である。

それほど基本的な能力を表わすコトバなのに、
「食事力」が国語として定着しなかったのが不思議。
英語ではどうか、ドイツ語ではどうか。
人類は、そんなコトバを作っていなかったのだ。
であるとするならば、
栄養士・健康支援者の育児論の軸足は、
「食事力」強化に置くことであろう。

さて、
「5」の「『子育て』の評価基準を設けるとすれば……。」
つまり、子育てがうまくいったかどうかを
どういうタイミングで評価するか、である。

細かく区切れば、1歳児の子育て、
2歳児の子育てとあって、
その延長で20歳時の子育てというところまで、
評価ポイントは移っていく。
とはいえ、
子を、どう育てようが、親の守備範囲、
「他人からどうこう評価されたくない」
というのが親のホンネだろう。

しかし、成人式の式典で、
大酒を食らって、
壇上で暴れだすような「子」を持ったら、
「子育てがうまくいった」とは言い難い。
あるいは、小・中学生で自殺をされてしまったら、
「子育て成功」とはいかない。
どんなに外圧(イジメなど)があったとしても、
子に自殺されてしまったら、
先手を打てなかった親の負け、
そう自己評価するしかあるまい。

それを学校や社会のせいにしているようでは、
親自身の「育てられ方の失敗」と
評価されても仕方がない。
子どもの自殺を学校や友人のイジメのせい、
というところだけをクローズアップし続けると、
自殺者は、その時点で「勝者」になってしまう。
「死んで恨みを晴らす」「身の潔白を示す」は
日本の伝統的思想。
ただでさえナイーブな少年・少女時代のこと、
死んで「勝者」になる選択をする可能性は高い。

イジメで学校側やイジメたほうをイジメることは、
自殺の促し効果をつくりだす、という側面を持つ。
「なにが悪いって、自殺する者は卑怯、敗者、
次の自殺者へのけしかけ」
という価値観を植えつけない限り、
この連鎖に終点や減少は望めない。

子が親を越えてよくなったり、
悪くなったり、いろいろの方向を探るのが
「適応」と「進化」のカタチというものだろうが、
いまの世の中が「よい」とするならば、
「適者生存」という結論になる。

人間の社会活動の範囲では、
子の行動の大半は親や大人の反映。
子どもがダラシナクなるのは、
親や大人の影響か学習によるもの。

とすると、「大人は子育ての成果」である。
四六時中、スマホをのぞき込む大人には、
自分が「子育て失敗の事例」なのか
「子育て成功の事例」なのか、
自己評価する時間も問題意識も
思考力もない。

みんながアホになる状態、
それは、復元力を生み出す1プロセスともいえる。
大宅壮一氏が、テレビの普及時代に
「テレビによって一億総白痴化する」と
指摘したが、いま、テレビを見る人の数は激減している。

鴨長明は、「ゆく川の流れは絶えずして」といって、
人生や社会は2度と元に戻ることはない、としたが、
もっと大きく見るならば、
世の移ろいは、寄せては返す波の繰り返し。

長明さんは川しか見ていなかったが、
海は地球上の湖だから、
ツボの中で水はあっちに行ったり、
こっちに行ったりの繰り返し。

テレビによる「白痴化」を免れた人類は、
今度は、スマホによる「白痴化」の波にさらされている。
「子育て」の成功・不成功は、
その社会の、ある時点での「大人」の生き方を
どう評価するか、という問題になるだろう。

厳密にいえば、その評価対象は個人でしかない。
ということは、
この世は、子育て失敗の結果と、
子育て成功の結果とが共存している集合体であって、
相互補完をしつつ継続している、
ということになろう。

個人的対処としては、
従来の「人様に迷惑をかけないように」は
標語化しすぎて実効性がないから、
各自がバージョンチェンジを図らなければならないだろう。
*人のモチベーションを下げないように。
*街を汚さないように。
*マスメディアのターゲットにならないように。
*人を排斥したり差別したりしないように。
*使わないお金を持ち過ぎないように。
*ブログでわけのわからない論を展開しないように。

などなどのように、
子どもへの徳育を進めるには、
親側、大人側のほうに、
そのつどキャンペーンテーマを変えるだけの
準備性が求められる、ということだろう。
by rocky-road | 2017-02-23 16:29