栄養士の話と国語辞典の関係。

栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_20572450.jpg

『文藝春秋』6月号のエッセイ欄に
国語辞典編纂者が、
国語辞典が売れなくなった事情と、
その対策を書いている。
売れなくなっている理由は、
いわずとしれたネットの影響。
タダで情報が手に入るのだから、
有料の国語辞書を買うまでもない、と。

とはいえ、
同じ辞書でも、英語の辞書をはじめ、
多くの辞典(辞書と同じ)や
事典(業界では「ことてん」といって区別)は
書店にたくさん並んでいる。
にもかかわらず、
国語辞典のほうは、
日に日に売り場面積を狭めているとか。
栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_20575492.jpg

その編纂者の分析は、
理由の1つとして、
利用者の相談相手になるような
書き方をしないから、
ということがあるという。
こんなエピソードから、
その対策を示している。

ある学生に、こんな質問を受けたことがあるという。
路上で出会った近所の人から「お帰りなさい」と
声をかけられたことがある。
「ただいま」と応じたくなったが、
その人の家に帰るわけではないから、
ヘンだと思った、
こんな場合、なんと答えればいいのですか。
栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_20581066.jpg

こういう質問を受けた経験から、
今後の国語辞典の書き方として、
たとえば、こんな書き方が考えられる、と編纂者。

 「【お帰りなさい】 
 帰ってきた人をむかえるあいさつ。
 返事は、身内には『ただいま』。
 近所の人には『あっ、こんにちは』などと言う。
 『――ませ』は、ていねいな言い方」
栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_2059843.jpg

(ここから大橋の論)
こういう書き方は、
「定義」を基本とする
国語辞典のスタイルではなく、
傾向と対策を示す「実用事典」の記述法である。
ここで「辞典」(辞書と同じ)と「事典」の違いを
「解説」しておく必要があろう。
栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_20593228.jpg

「事典」(ことてん)は、
字句を50音順ではなく、
用件別に配列するケースが多い。
仮に『栄養士のライフデザイン事典』
というものがあるとすれば、
項目は、「栄養士養成校の選び方」
「病院での仕事の進め方」
「行政機関での仕事の進め方」
「福祉施設での仕事の進め方」
「スポーツ栄養士の仕事の進め方」
という構成になる。

これに対して『栄養・食糧用語辞典』
(実在。建帛社刊)では、
「アーモンドバター」「R=アルギン」(中略)
「アイスクリーム」「アイスミルク」のように、
「ア行」のコトバから順に説明する。
「辞典」の説明は、普遍性のある定義を基調とし、
用例は示すことはあっても、
あまりくわしいアクションプランは示さない。
国語辞典もこの系統に属する。
栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_20594870.jpg

もっとも、
「事典」がすべて実用というわけではない。
たとえば、
『スポーツ心理学事典』(大修館書店)では、
「1.総論」「2.スポーツ運動の発達」
「3.スポーツの運動学習」などの項目の中に
歴史や研究法などの項目が解説されていて、
「辞典」的な(基礎的な)
知識を伝える要素が大きい。
栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_2101633.jpg

(「実用」にもいろいろの解釈があって、
私の場合は、思想や考え方、
さらには感性さえも「実用」と思っている)

ところで、国語辞典など、
コトバの定義を中心に記述する場合、
だれもが納得する平均的定義、
つまり「普遍性」を大事にする。
「普遍性」とは、言い換えれば、
相手を特定しないこと。
栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_2103361.jpg

「栄養士」の定義として、
「食の窓から侵入する人生の哲学者」では、
「普遍的」な定義とはならない。
ここはしっかりと
「栄養士法に定める教育を受けるか、
国家試験を経て……」
というようなマジメな定義が求められる。
栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_2111347.jpg

「普遍性」とは、
料理でいえば幕の内弁当や五目料理、
チャンプル、混ぜご飯……など、
いろいろの具材を混ぜ込んだもの。
うまいとしても、
食材の1つ1つについては味わえない。
「うまさ」が分散してしまう。
毎日、こういうものを食べていると、
いや、毎日、こういうものを食べていても
ストレスを感じない人は、
食への好奇心に凹凸がない傾向がある。
栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_2112315.jpg

国語辞典の需要低下と
新聞の発行部数の減少とは、
一部、通じるところがある。
全国紙や、それに類する新聞もまた
「普遍性」を重視する。数百万の読者がある、
ということは、
あらゆる属性の人が存在する、ということである。
当然、新聞社も、女性や年少者、高齢者、
ビジネス関係、家事・育児関係、
スポーツ関係者を想定して、
それぞれのページや欄を設けてはいる。
栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_2114260.jpg

が、匿名で書く文章のもどかしさは、
「I think……」という表現ができないこと。
その結果、「……と考えられる」
「……といえなくもない」などと、
奥歯にモノが挟まる。
それは、
全方向的な「チャンプル表現」になることを意味する。
栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_2121591.jpg

その実例は、しばしば批判の対象になる「社説」。
それらの文章がおもしろくないのは、
自分の氏名で文章が書けず、
職場の「みんな」を代表して書くようになるから、
キメ細かな表現もできなくなる。
栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_2125433.jpg

「私の責任において」書いていない文章は、
読み手に迫っていく迫力もリアリティもない。
それに、ニュースというものは、
過去の出来事を情報化するものだから、
さしあたって筆者名はいらない、と思ってしまう。
新聞が部数を減らしているのは、
過去の情報ならば、
テレビやインターネットでも間に合うからである。
栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_213619.jpg

こういう状況に対応する方法として、
ニュースに評価を加えて伝える手がある。
これがテレビの報道番組である。
キャスターの色をあえて出す。
(裏で制作者がコントロールしているが)
栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_2132880.jpg

それに対して、新聞記者は、
自分の名で評論する能力を磨いていない。
「それなら、外部の論客に執筆依頼をすればいいじゃないか」
ということになるが、
そこがまた、うまくはいかない。
というのは、
「あんな読者」「こんな読者」がいるから、
「快刀乱麻」といえるような筆は振るえない。
(快刀乱麻=切れ味がよい。手際のよい処理)
ホンネの意見や、強い主張を書こうとすると、
「この内容だと、ウチの紙面ではちょっと……」
となる。
したがって、日本では(日本でも)、
マスメディアでの言論は、
自由闊達とは言えないのが現状。

「その点、
デジタルコミュニケーションなら自由に発言が……」
という話になりがちだが、
社会的発言をするための
トレーニングを受けていない者の言説には
こちらの品位や知性を低下させることはあっても、
気づきや思考を深めるものは、
現時点では多くはない。
栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_2135873.jpg

さて、国語辞典の話に戻ろう。
国語辞典や新聞の文章が魅力的でなくなっている、
という話は、
講話や食事相談、その他、多くの場面で
おもしろい話ができない健康支援者と
共通点がある。
その場その場の相手に沿った話ができていない、
という点で。

スリム志向の若い女性に
骨粗しょう症の警告をしたり、
40代、50代の現役に、
「寝たきりにならない食事」を説いたり、
いつでも、どこでも、
「栄養バランス」の話題しか、しなかったりなどは、
目の前にいる現実のニーズに無頓着な証拠。
コミュニケーションは、
相手との双方向のキャッチボール。
栄養士の話と国語辞典の関係。_b0141773_2141663.jpg

書棚にある国語辞典、
書店に展示されている国語辞典に
目が止まったときは、
自分の語り口が画一的、
ワンパターンになってはいないか、
自省してみてはいかがだろうか。

by rocky-road | 2016-06-02 21:04  

<< 「健康ってなんだ」街道を行く。 名がつくと、そこにモノはある。 >>