栄養士の話と国語辞典の関係。
『文藝春秋』6月号のエッセイ欄に
国語辞典編纂者が、
国語辞典が売れなくなった事情と、
その対策を書いている。
売れなくなっている理由は、
いわずとしれたネットの影響。
タダで情報が手に入るのだから、
有料の国語辞書を買うまでもない、と。
とはいえ、
同じ辞書でも、英語の辞書をはじめ、
多くの辞典(辞書と同じ)や
事典(業界では「ことてん」といって区別)は
書店にたくさん並んでいる。
にもかかわらず、
国語辞典のほうは、
日に日に売り場面積を狭めているとか。
その編纂者の分析は、
理由の1つとして、
利用者の相談相手になるような
書き方をしないから、
ということがあるという。
こんなエピソードから、
その対策を示している。
ある学生に、こんな質問を受けたことがあるという。
路上で出会った近所の人から「お帰りなさい」と
声をかけられたことがある。
「ただいま」と応じたくなったが、
その人の家に帰るわけではないから、
ヘンだと思った、
こんな場合、なんと答えればいいのですか。
こういう質問を受けた経験から、
今後の国語辞典の書き方として、
たとえば、こんな書き方が考えられる、と編纂者。
「【お帰りなさい】
帰ってきた人をむかえるあいさつ。
返事は、身内には『ただいま』。
近所の人には『あっ、こんにちは』などと言う。
『――ませ』は、ていねいな言い方」
(ここから大橋の論)
こういう書き方は、
「定義」を基本とする
国語辞典のスタイルではなく、
傾向と対策を示す「実用事典」の記述法である。
ここで「辞典」(辞書と同じ)と「事典」の違いを
「解説」しておく必要があろう。
「事典」(ことてん)は、
字句を50音順ではなく、
用件別に配列するケースが多い。
仮に『栄養士のライフデザイン事典』
というものがあるとすれば、
項目は、「栄養士養成校の選び方」
「病院での仕事の進め方」
「行政機関での仕事の進め方」
「福祉施設での仕事の進め方」
「スポーツ栄養士の仕事の進め方」
という構成になる。
これに対して『栄養・食糧用語辞典』
(実在。建帛社刊)では、
「アーモンドバター」「R=アルギン」(中略)
「アイスクリーム」「アイスミルク」のように、
「ア行」のコトバから順に説明する。
「辞典」の説明は、普遍性のある定義を基調とし、
用例は示すことはあっても、
あまりくわしいアクションプランは示さない。
国語辞典もこの系統に属する。
もっとも、
「事典」がすべて実用というわけではない。
たとえば、
『スポーツ心理学事典』(大修館書店)では、
「1.総論」「2.スポーツ運動の発達」
「3.スポーツの運動学習」などの項目の中に
歴史や研究法などの項目が解説されていて、
「辞典」的な(基礎的な)
知識を伝える要素が大きい。
(「実用」にもいろいろの解釈があって、
私の場合は、思想や考え方、
さらには感性さえも「実用」と思っている)
ところで、国語辞典など、
コトバの定義を中心に記述する場合、
だれもが納得する平均的定義、
つまり「普遍性」を大事にする。
「普遍性」とは、言い換えれば、
相手を特定しないこと。
「栄養士」の定義として、
「食の窓から侵入する人生の哲学者」では、
「普遍的」な定義とはならない。
ここはしっかりと
「栄養士法に定める教育を受けるか、
国家試験を経て……」
というようなマジメな定義が求められる。
「普遍性」とは、
料理でいえば幕の内弁当や五目料理、
チャンプル、混ぜご飯……など、
いろいろの具材を混ぜ込んだもの。
うまいとしても、
食材の1つ1つについては味わえない。
「うまさ」が分散してしまう。
毎日、こういうものを食べていると、
いや、毎日、こういうものを食べていても
ストレスを感じない人は、
食への好奇心に凹凸がない傾向がある。
国語辞典の需要低下と
新聞の発行部数の減少とは、
一部、通じるところがある。
全国紙や、それに類する新聞もまた
「普遍性」を重視する。数百万の読者がある、
ということは、
あらゆる属性の人が存在する、ということである。
当然、新聞社も、女性や年少者、高齢者、
ビジネス関係、家事・育児関係、
スポーツ関係者を想定して、
それぞれのページや欄を設けてはいる。
が、匿名で書く文章のもどかしさは、
「I think……」という表現ができないこと。
その結果、「……と考えられる」
「……といえなくもない」などと、
奥歯にモノが挟まる。
それは、
全方向的な「チャンプル表現」になることを意味する。
その実例は、しばしば批判の対象になる「社説」。
それらの文章がおもしろくないのは、
自分の氏名で文章が書けず、
職場の「みんな」を代表して書くようになるから、
キメ細かな表現もできなくなる。
「私の責任において」書いていない文章は、
読み手に迫っていく迫力もリアリティもない。
それに、ニュースというものは、
過去の出来事を情報化するものだから、
さしあたって筆者名はいらない、と思ってしまう。
新聞が部数を減らしているのは、
過去の情報ならば、
テレビやインターネットでも間に合うからである。
こういう状況に対応する方法として、
ニュースに評価を加えて伝える手がある。
これがテレビの報道番組である。
キャスターの色をあえて出す。
(裏で制作者がコントロールしているが)
それに対して、新聞記者は、
自分の名で評論する能力を磨いていない。
「それなら、外部の論客に執筆依頼をすればいいじゃないか」
ということになるが、
そこがまた、うまくはいかない。
というのは、
「あんな読者」「こんな読者」がいるから、
「快刀乱麻」といえるような筆は振るえない。
(快刀乱麻=切れ味がよい。手際のよい処理)
ホンネの意見や、強い主張を書こうとすると、
「この内容だと、ウチの紙面ではちょっと……」
となる。
したがって、日本では(日本でも)、
マスメディアでの言論は、
自由闊達とは言えないのが現状。
「その点、
デジタルコミュニケーションなら自由に発言が……」
という話になりがちだが、
社会的発言をするための
トレーニングを受けていない者の言説には
こちらの品位や知性を低下させることはあっても、
気づきや思考を深めるものは、
現時点では多くはない。
さて、国語辞典の話に戻ろう。
国語辞典や新聞の文章が魅力的でなくなっている、
という話は、
講話や食事相談、その他、多くの場面で
おもしろい話ができない健康支援者と
共通点がある。
その場その場の相手に沿った話ができていない、
という点で。
スリム志向の若い女性に
骨粗しょう症の警告をしたり、
40代、50代の現役に、
「寝たきりにならない食事」を説いたり、
いつでも、どこでも、
「栄養バランス」の話題しか、しなかったりなどは、
目の前にいる現実のニーズに無頓着な証拠。
コミュニケーションは、
相手との双方向のキャッチボール。
書棚にある国語辞典、
書店に展示されている国語辞典に
目が止まったときは、
自分の語り口が画一的、
ワンパターンになってはいないか、
自省してみてはいかがだろうか。
by rocky-road | 2016-06-02 21:04