もう、タラの芽の天ぷら、食べましたか。

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ロッコム文章・編集塾、能登教室の9回目が終わった。
2014年4月から、
3か月に1回のペースで満2年になった。
受講者も20余人程度で安定、
運営もスムースになった。
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この教室では、
司会をいろいろの人に体験させて、
そのワザを磨き合っている。
最初は原稿棒読みの司会ぶりも、
いまでは季節の話題から始まり、
前回の講義の振り返りをするなど、
柔らかく参加者の気持ちを高めてゆく。
なかなかの準備性である。
季節の話題は、こんなふうに。
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 「3月と言いますと、
 私の家は農家でございまして、
 農業の始まりの月でもあります。
 私が能登に嫁いで来ましたときは、
 まだ五右衛門風呂で、
 マキでお風呂を沸かしていました。
 このお風呂には、
 人間以外のモノも入ります。
 モミを品種ごとにネットに入れて、
 五右衛門風呂の湯壺に水を張って
 そこに浸す、そこから農作業が始まるのです」

 「持っている知識に
 新しい情報を取り入れ形として行く、
 3月は、そういう始まりの月だと感じています」

農作業と、今年の勉強の始まり。
苦心の作というべきか。
ローカルの味もよく出ている。
司会は本谷(ほんや)佳美さん。
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今回の授業メニューは、
1.宿題発表(前回の受講の感想)
2.非言語記号のリテラシー。
3.文章を音読することの意味。

「非言語記号のリテラシー」は、
ふだん、見聞するテーマとは異なるので、
やや理解に戸惑っている感じがした。
少し補っておこう。
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人間にしろ、動物にしろ、
人生は「いつか来た道」を行くのではなく、
1歩1歩が本人にとっては初めての道である。
その道を五感を使って、安全に、
かつ効率的に進んでゆく。
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かすかに吹く風に春の到来を感ずる、
路傍のタラの芽に目をやる。
採って夕食の一品にしようか。
そういう環境認知は、
まずは動物的な感覚によって行ない、
そして言語的なプログラムにしてゆく。
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感じたものを言語記号に置き換えてゆく。
それは人間の知的作業である。
読書も知的活動だが、
言語化されていないもの、
いや、目には見えないものを感じるプロセスも
知的作業である。
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路傍に頭を出しているタラの芽は、
明らかに視覚に入る対象物だが、
見ても見えない人もいる。
見える、見えないは、
その人、そのときによって決まる。
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見えた人が「あ、タラの芽だ」と
感じた範囲では、
タラの芽を「認知」したまでだが、
さらに、それを採って夕食の一品にしよう、
「そういえば、家族の好きな料理だ」と
考え始めるあたりから、
「非言語的対象」を
「読み解く」(リテラシー)ことになる。
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なぜタラの芽が「非言語」なのか。
「『タラの芽』という名がちゃんとついているではないか」
でも、その名を表示して頭を出しているわけではない。
見ても、それがなんだかわからない人も多い。
自然界の万物は名札をつけて存在なんかしていない。
それらを知覚すること、
それを「非言語記号を読み解く」という。
厳密にいうと、タラの芽が「記号」となるのは、
それに着目し、認識し、
自分および人とのコミュニケーションのメディア
として使う段階からである。
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地下にあるカウンセリングルームに、
予定どおりクライアントが訪ねてくる。
「ここがわかりましたか」と問いかける。
患者さんが、病院の玄関から、
カウンセリングルームに来るまでの行動は、
患者さん本人にも、とくに認識されてはいない。
が、「ここがわかりましたか」という一言で、
カウンセラーと患者さんの共通話題になる。
これが言語化であり、
患者さんがカウンセリングルームに
たどり着くまでの道のりが「記号」となる。
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講義で
「世の中には、コトバがついているものよりも、
コトバがついていないもののほうが、はるかに多く、
その数は無限である」と
何度でもいうのは、このことである。
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 「2016年3月21日、
 石川県能登にある、
 介護老人福祉施設『千寿苑』に集まった、
 ロッコム文章・編集塾/能登教室の受講者
 20数人の人たち」
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というコトバ(フレーズ、表現)は、
いま、ここで表記する以前には存在しなかった。
「草食系男子」も「肉食系女子」というコトバも、
「ベルギー同時テロ」というコトバも、
10年前、あるいは1週間前には
この世には存在しなかった。

それらを予測することが
「非言語記号のリテラシー」ではない。
相手を思いやるコトバ、
「雨にぬれなかったですか」
「体重が減って、スリムになったこと、
どなたかに指摘されたりしました?」
「桜前線は、例年より北上がスローペースになるかも」
など、いろいろの事物、
いろいろの現象を読み解くこと(理解すること)、
そういう能力のことをいう。
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それがなぜ必要なのか。
それは、自分の世界を広げること、
自分の世界を活性化すること、
コミュニケーション環境を豊かにすること、
さらにいえば、
人生を刺激的にすることの
ベースになるからである。

作詞家・阿久 悠さんは詠んだ。

 「透明人間、あらわる あらわる」
  ……
 「嘘をいっては困ります
 あらわれないのが透明人間です」
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そこで言おう。
 「弱気になっては困ります。
 人間は、透明なものでも見えるのです。
 記号化能力があれば、
 見えないものが見えるのです。
 それが非言語記号のリテラシーです」

次回の能登教室は7月23、24日。
10回記念の企画中とか。
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終了後、能登島にある水族館を訪ねた。
自称、水族館評論家としては、
大いに楽しめるところだった。
ここに2頭のジンベイザメがいるなんて、
初耳だった。
能登は、奥が深いのか、
いいところの出し惜しみをする土地柄なのか。
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by rocky-road | 2016-03-25 14:44  

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