ブログの文体論、なるか。

最近、政治家や芸能人など、
著名な人のブログの一部が
ニュースの中に登場することがある。
それを読むと、
その日食べた食事の感想、
ある出来事に感じたことなど、
要するに「日記」の文体で書いてある。

広辞苑に当たっても、
「ブログ」という熟語は
第5版以前には収載されておらず、
第6版に、こうある。

「(ウエブ・ログの略)ウエブサイトの一種
個人や数人のグループで運営される日記形式のもので、
情報提供や意見交換などの
コミュニケーション機能が付加されている。」

昔、ダイバー仲間のホームページに
ブログを書いてほしいと依頼され、
何回か書いたが、写真がほしい、と
そのつど言われて、ポジフィルムを
スキャンすることの面倒さもあって中断した。
決定的な理由は、別の仲間から、
「書き方が雑誌の連載的だ」と
指摘されたためだった。

そこで初めて人のブログをのぞいたが、
文字どおり日常茶飯事の「日記」で、
そういうものを公開する人の勇気に顔が赤らんだ。

「ブログ」の成立事情は知らないが、
超私的な日記を公開するのは、
自分の未熟さ、自分のアホさ加減、
自分の世界の小ささを一般公開することになるわけだから、
そうとうの勇気か、厚顔かが必要になる。
どこで、なにを食べた、
こんな店に行った、
○○国はケシカラン……、
なんていう内輪の話題を
社会に向けて言い放つなどは、
裸で街を歩くより恥ずかしい。

出版にかかわった者の感覚からすると、
世間に発表する文章というものは、
その大半は「商品」であるから、
当然のこと、商品価値を問われることになる。

この場合の商品価値とは、
水が流れるように落差がついていること、
読んだ人が「なるほど」「へぇ~」と感じる程度の
お得感を感じることを指す。
どんな店で何々を食った、うまかった、
と言う程度の話ではゼニはとれない。

しかし、デジタル通信機器の普及は、
クシャミやゲップ、独り言などまでも
全世界にばらまくことを促すことになった。
そういうものを「言論の自由」などと
言ってもらっては困る。
ゴミは、指定の日に、指定の場所に、
きちんとまとめて捨てるのが公徳心というものである。

もっとも、デジタル情報は焼却しなくても、
ハエがたかったりカラスに荒らされたりすることはなく、
人にはほとんど迷惑はかからないから、
いくら垂れ流しても「公害」にはならない。
人はそれらを読まなければいいだけで、
実害はない。
もしあるとすれば、
有能な才能を
中途半端なブログ書きに費やしてしまう場合だろうか。

そこは社会的バランスシートの問題で、
一生、文章を発表する機会がありえない人が、
日記を書いて精神的安定を得ることのメリットと、
ブログなどに時間を浪費せず、
自分の得意を延ばすことのメリットと、
どちらが社会にとっての儲けになるか、である。
それは、前者、
つまり文章を書く機会のなかったはずの人に
書く喜びを与えるほうが、
メリットは大きい。
ブログ書きで自分の才能をすり減らしてしまう程度の者なら、
それで終わってしまったとしても、
社会にとっては大した損失にはならないだろう。

それにしても、
社会の知的財産という観点からすれば、
ブログにも文体があり、
テーマがあり、起承転結があることは、
教える必要はあるだろう。
「人をワクワクさせるブログ文章論」
というようなテーマをアピールするには、
やはりインターネットではダメで、
出版の力を借りたくなる。

なんて思うのは、
インターネット世界にとっては
よそ者の言なのかもしれない。
このブログにたどり着く人間の数と、
雑誌や書物の記事に興味を示す人の数と
どちらが多いのか。

いや、数ではなく、
どちらが影響力を持つのか、
しばらく様子を見てみたい。

by rocky-road | 2016-02-17 00:01