やっぱり出版物の奥行き。
わが「ロッコム文章・編集塾」では、
この数か月は、テキストとして、
雑誌や書籍の記事を使っている。
ふだんはオリジナルのテキストを使っているが、
ときには、ロードに出る必要があるし、
他流試合の経験も欠かせない。
「井の中の蛙」対策にもなる。
そしてなによりも、
情報収集能力を磨く効果が大きい。
テキストは、
月刊誌『WILL』2105年10月号に載った
会社社長であるイギリス人
D・アトキンソン氏の
「ミステリアス・ジャパン」と題する連載から
「今こそ『論理的思考』の教育を」
『文藝春秋』2015年9月号に載った
歴史人口学者である速水 融(あきら)氏の論文、
「日本の人口減少 ちっとも怖くない」
対談記事では
『文藝春秋』に掲載されている
金田一秀穂氏がホストとなって
ゲストをインタビューする
対談の連載記事の1回分。
精神分析医である、
きたやま おさむ氏を迎えての
「日本語には『表』と『裏』がある」
(2015年9月号)
そして、単行本の
『司馬遼太郎氏対談集 日本語の本質』
(文春文庫)からは、
仏文学者・桑原武夫との対談部分。
日常生活では、
専門外の一流人の言説に触れる機会は
そう多くはない。
新聞さえ読まない人が多い時代、
ますますその傾向は強くなっている。
こういう議論のとき、
その質や量について
インターネットと対比されるが、
こと、専門的知識や考え方、
認識の仕方、論理などに関しては、
出版物とインターネット情報、
さらにはテレビなどのメディア情報とでは、
質的に大きすぎる差がある。
出版物では、
筆者、担当者、責任者(編集長など)、
校閲・校正マン、デザイナーなど
数人のスタッフのチェックが、
少なくとも3回は入る、
という点がまずある。
さらに、その前の段階で、
編集者は最適の論者を選定し、
企画内容を伝え、
テーマに沿った論説を展開してもらう。
その大半は「書き下ろし」であり、
「話しおろし」であることから、
鮮度、精度、オリジナリティにおいて
他の追随を許さない。
「書き下ろし」とは、
転載や流用ではなく、
依頼された(または発案した)テーマに沿って
最初の原稿を書くこと。
映画でいえば封切り版である。
「話しおろし」とは、本欄での造語で
座談会やインタビューに応じて
初めて発話することである。
そうして生まれた著述の中には、
本人も思っていなかったような視点や考え方が
突発的に現われたものがあって、
それが鮮度とオリジナリティを高め、
情報としての魅力を高める。
インターネット情報と違うのは、
よい意味での「思いつき発言」にも、
さっき言った校正の仕組みに従った、
きちんとチェックの目が入っていて、
正確さや論理性、リアリティ、
品格などは保たれる、という点である。
ロッコムの講義では、
輪読を進めながら、
そうした独創的な見解、
語り口の巧みさ、
ときには編集部の表記法にも
着目し、議論の対象にしてゆく。
情報に対するチェックの厳しい出版物でも、
「完全」はありえず、
論理の不備、展開の誤りなどはある。
最近では、
日本人の論理性を懸念する
イギリス人筆者の論文にも
けっして小さくはない
論理の弱点があることを発見して、
授業が活気づいた。
現在は、
『司馬遼太郎対談選集2 日本語の本質』を
テキストとして、
フランス文学者、
桑原武夫(くわばら たけお)氏との対談、
「〝人工日本語〟の功罪」を
読み進めている。
知的レベルの高い人の話し合いは、
雲に向かってジャンプしてゆくような
爽快感が伴う。
「人工日本語」とは、
明治政府が、
コトバの群雄割拠の時代を修正し、
「共通語」を創作してきたことを指す。
明治も初期のうちは、
「私」も「あなた」も、
「父」も「母」も、
共通語どころか、地域的にもなかった。
文章表記の「です・ます・である」も
人工的に作った文末表現である。
対談の一部を引いてみよう。
桑原 ラジオで天気予報をやり始めまして
「あしたは雨が降るでしょう」と
アナウンサーがいった。
これにはものすごくショックを受けましたね。
いまではあたりまえの表現ですが、
それまでの日本語には、未来形はなかった。
司馬 ああ、なるほど。
桑原 昔のおじいさんなら「あすは雨が降る」と
いったでしょう。どうしても未来の感覚を
出したければ、「あしたは雨が降るはずだ」とか
「あすになれば雨が降る」といういい方をした。
シビレルようなおもしろい指摘である。
こういう発言を聞くことは、
日本人としての言語センスを
どれだけ磨くことになるか、
計り知れない。
健康支援者は「話芸者」だから、
言語センスを磨くことに卒業はない。
聞けば、埼玉県越谷市の小学校では、
漫才の実習授業があるという。
会話の技術、相手との呼吸の合わせ方、
ユーモアセンスの向上など、
その効果もまた計り知れない。
ふたこと目には「栄養士の専門性」を口にする
♪♬栄養士会ごときに、
漫才のセミナーを企画するセンスも
運営力もないことはわかっているが、
であるならば、
せめて講義の仕方、講演の仕方の
セミナーくらいは企画してはどうか。
近く、私が知るお寺では、
落語会を開くという。
寺院が落語会や音楽会を企画する例は
珍しくはないが、
その日、その寺での演目は
「明烏」(あけがらす)だという。
なんと「郭話」(くるわばなし)である。
親から頼まれた町内の遊び人が、
カタブツの青年を騙して吉原に連れていき、
初体験をさせるという話である。
これでこそ、
寺も、あの世も
明るくなるというものである。
学びの教材、
学びの場所、
学び合う仲間、
学ぶ機会などは、どこにもある。
人生は学ぶほどに楽しく、
ゆえに自分自身が輝き続ける。
by rocky-road | 2016-01-30 21:48