健康支援者の芸風とは?

1年ぶりで、落語、柳家系の独演会に
行ってきた。場所は板橋文化会館、
ほぼ満席の1000人余りの入り。
ところが、前座から真打まで
なんとも退屈な内容。
「枕の小○治」といわれるほど、
「枕」がうまいとの評判のある演者。
(枕=本題に入る前のジャブ的な小さな笑い)
が、その枕がつまらない。
トイレに財布を忘れた話など、
たいしておもしろくない話を延々と続ける。

演目に入って郭噺(くるわばなし)が始まったが、
勢いもメリハリもなく、
人物描写もすっきりせぬままダラダラと続く。
1つが終わり、休憩時間を待って、
会場から抜け出した。
落語がこんなにも苦痛だったのは久々である。
かつては、立川談志の噺がいやで、
あくびをかみ殺して聞いたことがある。
彼が登壇するやいなや、
退出する人が少なからずいたが、
当時の私にはそこまでの決断力はなかった。
現代日本を代表する名人(?)落語家の噺が
こうもつまらないのはなぜか、
それを真剣に考え続けた。
まず考えたのは、
笑いの基準が変わったのか、という点。

桂文楽、三遊亭円生、三遊亭可楽、
古今亭志ん生、柳家小さん(五代目)といった、
昭和の名人と比べるからいけないのか。
しかし、私の好む落語は古典に属する噺で、
昭和になって生まれたものではない。
今回聞いた柳家小○治にしても、
演目のほとんどが古典である。
つまり噺の内容は、昔も今も変わらない。
なのに、その日の古典落語はおもしろくない。
本人は「あざとい形では笑わせない芸」
を目指しているそうだが、
そんなことは、基本中の基本で、
あえていうまでもないことである。
おかしくない理由の1つは、
こちら側の加齢にあるのか。
人間は高齢になるほどに
笑わなくなる傾向がある。
それなのか。
感性が鈍る、表情筋が弛緩する、
おかしさのハードルが上がって
ちょっとやそっとのことでは
おかしさを感じなくなる……。

だが、現在の私は、
「パンクブーブー」や
「サンドイッチマン」の漫才には笑える。
うろ覚えだが、こんな感じ。
寿司屋に1人の男が入ってくる。
*「へい、いらっしゃい。お1人ですか」
客「ああ、1人だよ」
*「先にどなたか来ていらっしやるんですか」
客「いや、だれも来ねえよ、オレ1人だよ」
*「あとからどなたかがおいでになるんですか」
客「だれもこねえよ。1人じゃいけないのかよ」
*「寂しいでしょ? 私が隣に行きましょうか」
客「だから、1人でいいって、言ってるだろぉ」
*「それとも、こちらに来ますか」
これで笑えるのに、
今回の落語は笑えない。
演者にも、多少の責任はあるだろう。
主観的だが、去年聞いたときよりも
謙虚さが減少しているように思える。
自分の体験を枕に使うのが
近年の落語の傾向のようだが、
それは観客に対して不遜である。

落語は古典にしろ新作にしろ、
作品を演ずるのが商売である。
自分の日常茶飯事を語るほど、
偉くはないはずである。
頭に入れておかなければならないのは、
落語家は、けっして「地」がおもしろい人ではない。
昔から名人といわれるような人は、
家では寡黙だったり、酒をくらっていたり、
妾の家に通っていたりする。
だれかが自分をネタにすれば、
おもしろくなるかもしれないが、
本人は本気でマジメであり、
落語とは無縁な私生活を送っていた。

つまり、落語家とは、
できあがっている「作品」を
おもしろく、またはしんみり、
人間のリアリティをいきいきと演ずる人である。
笑わせればいいっていうものではなく、
そこには味わいが求められた。
そういう観点からすると、
私生活でトイレに財布を忘れた程度の話は
観客のほうがいっぱい持っているくらいであり、
「作者」ではない「演者」が話しても、
そう簡単には「作品」にはならない。
だから、
昔気質の落語家は、
私生活をペラペラしゃべるほど
芸を軽んじてはいなかったし、
うぬぼれてもいなかった。
どんなに他愛なく、
どんなにマンネリ化していても、
枕の話は、
それなりにおもしろく、
ジャブとしての意味があった。
「きのうの嵐で、家の囲いが壊れちゃった」
「へ~」(塀)

この程度のダジャレでも、
笑いのウォームアップとしての意味はあった。
定番の「枕」のほうが、
演者と観客とに一体感が生まれて都合がよい。
それに、なんといっても短いからいい。
社会心理学者は、
落語における現代日本人の笑いについて、
どう考察してゆくだろうか。
少し研究すれば、
そこそこのエビデンスが得られるはずである。
演芸評論家でもない私としては、
現代落語がどうなろうと、知ったことではないが、
その反面、もう1人の話芸者、
健康支援者のユーモア感覚のあり方について、
連想が飛ぶのを押さえることができなかった。

「健康支援者」、
つまり医師、看護師、保健師、栄養士の
ユーモア感覚のことである。
もともと、この種の職業は、
ユーモアとは遠い存在であるが、
プロの芸人がここまでダレているからには、
健康支援者ともなれば、
ますますにコチンコチンになっているのではないか、
そんなことが心配になった。
「笑顔や笑い声は健康のシンボル」
というほど能天気ではないが、
気の利いた会話や講話、相談が、
健康を阻害するとも思えない。

ユーモアとは、
つきつめれば人生を楽観する着眼である。
病気であれ死であれ、
悲観だけの世界ではない。
厳しい現実にも、どこかに逃げ道がある。
その1つがユーモアである。
「あざとい笑いを求めることはない」
大いに結構。
人は健康になるために生きているのではない。
健康ばかりを求めると、
砂糖を入れ過ぎたお汁粉のように
味覚にも胃にも負担をかける。
うまいお汁粉は、
小豆の香りと、少々の塩、
つまりはバランスである。

「健康になるためには死んでもいい」
などという人であっても、
喜んで支援するのが健康支援者の仕事。
こういうクライアントであれば、
さらに死ぬほどの健康オタクにして、
そこは話芸で、真の健康、真の人生を理解させ、
健康からは201メートルくらい
距離を置くように誘導する
……というようなことができれば、
きわめてユーモラスな業績として、
記録されることだろう。
健康支援者の落語家、コメディアン、
芸人などが、日本にもいるかもしれない。
真正面から食や健康を笑いにするのもいいし、
余技として、俳句や川柳をたしなむのもよい。

寄席に行って
おもしろい芸人、おもしろくない芸人など、
いろいろのタイプに出会うことも
プラスにはなるだろう。
明治維新後、
文章日本語が生まれようとする
試行錯誤の時代には、
のちに有名になる小説家は
落語や講談、浪花節などを聞いて、
自分の文体を模索したという。
健康支援者にとって
いまいちばん求められるのは、
人間をよ~く知ること。
だって、人間を支援するのだから。

by rocky-road | 2015-12-26 22:28