♪ 青い渚にたたずみ、いま想う ♪
「ダイビングとは、
地の果てから始まるもう1つの旅」
と言い続けて何年になるのか。
ダイビングは「マリンスポーツ」ではない、
などという主張を、
ダイビング雑誌でくり返し、していた時代から
何年になるのか。
詳しくは資料に当たらないと言えないが、
今回の沖縄行きは、
ダイビングを始めて51年目の
海への旅となった。
(2015年10月21日~27日)
昭和39年(1964年)に
スノーケリングとスクーバとを
同時に始めた。
小学校、中学校の同級生、
畠山八朗くんが
ダイビングのクラブを作るというので、
それを手伝うことになった。
クラブ名を「東京潜泳会」とした。
「マリンスポーツではない」とは言いながらも、
入会者には泳力テストを行なっていた。
確か、「プールで200メートル泳げること」
が入会条件だった。
近くのプールで、しばしば実習テストを行なった。
当時は、「素潜り」でみっちり鍛えてから、
スクーバダイビングの技術を教える、
というのが定番コースだった。
まだ、プロショップが、
スクーバダイビングを教える、
というシステムが整っていなかった。
だから、
アマチュアが、自分の経験だけで
スクーバダイビングを教えたりしていた。
実際、エアタンクを簡単に貸してくれた。
いまだったら、
テロリスト並みの罰則を受けるだろうが、
エアタンクをかついで「国鉄」電車で
伊豆や三浦半島の海へ行ったりした。
タンクは、座席の下に転がしておいた。
中身は空気とはいえ、高圧ガスである。
街なかや乗り物の中では、超危険物である。
それはともかく、
スクーバは金がかかるので、
そう簡単には、
スクーバに移行することはできなかった。
なにしろ、
ウエットスーツさえ買えない者が大半で、
真冬の伊豆の海に、
冬物の肌着を着て入る者までいたほどである。
やむをえず、
会長がレンタル用に1着を作った。
なぜかそれは女性用で、
バストスペースがあった。
女性会員を増やしたい意向の反映だろう。
それを男性に流用することもしばしば。
当時、ウエットスーツは手作りだった。
ウレタンゴムを買ってきて、
接着剤で張りつけけた。
しばしば剥がれるので、
接着剤は、海への旅の必携品だった。
そんなことを繰り返していたが、
「素潜り」でも充分に楽しめることを知ることになる。
「このまま、素潜りのクラブでいったらどうか」と、
畠山会長に提案して、話が決まった。
(畠山くんは1967年に、
海とは関係ない事故で他界)
会員は多いときで70人、
1回のツアーが30人前後、
などということがしばしばあった。
もう、スクーバダイビングへの志向性はなくなり、
スクーバダイビングへのコンプレックスも失せた。
素潜りは、
スクーバダイビングの準備的技術ではなく、
それだけで独立可能のレクリエーションであることを
深く認識するようになった。
雑誌で海外情報に接したとき、
「スノーケリング」というコトバを知り、
「スノーケリングの東京潜泳会」
を名乗ることになった。
それまで、「スノーケル」という
器具名はあったが、
「スノーケリング」という名詞、
および動詞はなかった。
いま、
スノーケリングがあまり普及せず、
ダイビングだけが1人歩きしているのは、
ビジネス事情によるものである。
スノーケリングの指導料は割安だから、
ビジネスにはならないのである。
そこで、
「日本スノーケリング協会」なるものを
作って普及を図ろうとしたが、
自分のクラブに専念すべきだ、
という意見もあって、
「普及」は、のちの人に期待することにした。
(いま、インターネットをのぞくと、
そういう協会ができているようだが、
もちろん、
私たちが企画したものとは無縁である)
地の果てから始める旅、
スノーケリング、
そして「フィッシュウォッチング」(大橋提案)、
水中写真、
……これだけの要素がそろえば、
50年くらいのことで、飽きることはない。
スノーケリングの利点は、
1.行動範囲、海への滞在時間が長いこと。
1日中でも海面を歩き続けられる。
2.現地において、だれかの指示や引率で
旅をしなくてよいこと。
ダイビングの場合、安全性保持のため、
ガイドやインストラクターに
大きく依存することになる。
スノーケリングは、
水面を歩くだけのことだから、
かならずしも引率者はいらない。
旅は自由、気ままでありたい。
(その分、自己責任度は高くはなるが)
3.洋上でおしゃべりができること。
以前は、岸に向かうとき、
歌を歌ったこともよくある。
「♪ 青い渚に ただすみ
いま思う 海の広さと
とこしえの安らぎを
波に漂い 旅した年月を
海は 果てない 心の旅路~」
(『青いマイウェイ』 大橋 改詞)
東京潜泳会は、
スノーケリングの基本を教える、
いわば「普及型クラブ」であった。
10数年、運営したところで、
あとは後輩に任せて、
別のコンセプトのクラブを作った。
スノーケリングのスキルを
指導するのではなくて、
そのスキルを使って何をするか、
海のハッピーな情報を、
どう人々に伝えるか、
それを考え、それを実践するクラブである。
「スノーケリングピープル」と命名した。
当時は「大学院のようなクラブ」
などと表現した。
これは、食コーチングやパルマローザと
似たところがありそうだ。
栄養士としての基礎的なスキルアップ
というよりも、
同業者や社会に対して、
異なる目標を設定し、
そのための思想強化と、
スキルアップを図っている、
という点において。
そのスノーケリングを、
いま、栄養士が楽しみ始めた。
女子栄養大学出版部時代にも、
一部の栄養士とスノーケリングを
楽しんだ時期があった。
また、『栄養と料理』の読者から、
「編集長は、ダイビング界のあの大橋禄郎さんですか」
という投書をいただいたこともあった。
歴史は繰り返すようであり、
同じところで足踏みしているように
感じそうになるが、
実際には、たいぶ違う。
いまは、
各地に健康支援者、
栄養士を中心に
スノーケリング愛好者のネットワークが
広がっている。
スノーケリングも万人のものだから、
愛好者の職業を
あれこれいうのは野暮である。
昔から、一定の割合で
医師も看護師も、パイロットも、
映画俳優も弁護士も、
フリーターも、プログラマーも
スノーケリングを楽しんでいる。
スノーケリングは、
水面を歩くだけのことだから、
職業はまったく関係ない。
が、歩き方にもいろいろとある。
心肺機能を高めるために歩くのか、
スマホを操作しながら歩くのか、
「歩コム」的に、テーマをもって歩くのか、
歩き方にもライフスタイルが現われる。
私の場合は、
野生動物と対等に向き合うこと、
そのときに感じる自分の中の動物性、
コトバや身振りでコミュニケートするのではなく、
目や、存在の仕方で共感を得る、
それこそが、人間だからできる境地である。
そして、
波紋の揺れる浅い海に漂うときの浮遊感。
これが極楽というものかもしれない。
「地の果て」はどこにでもあるから、
海の上を歩き続けることは
まだできそうである。
スノーケルやフィンは、
海の歩行器のようなものだから、
地上を歩けなくなっても、
海の上なら歩けるはずである。
by rocky-road | 2015-11-01 22:20